【短編小説】波の音が連れてきた夏
小さい頃。
夏になると、
祖父は小さな離島へ連れて行ってくれた。
島はすぐそこに見える。
けれど泳いで渡るには少し遠くて、
子どもの僕には届かない距離だった。
「今日は船を出すぞ。」
祖父のモーターボートに揺られながら、
白い波を眺める。
潮風は少ししょっぱくて、
空はどこまでも青かった。
島に着くと、
祖父は知り合いの家へ向かう。
その間、
僕はひとりで島を歩くのが好きだった。
さわやかな風の吹く場所だった。
蝉の声と、
風に揺れる木々の音しか聞こえない。
◆
「また来たな。」
不意に頭の上から声がした。
見上げると、大きな木の枝にひとりの少年が腰掛けていた。
僕より少し年上に見える。
「久しぶり。元気だった?」
「うん。」
彼は木から軽やかに飛び降りる。
「名前、覚えてるか?」
「えっと……櫂くん。」
「そう。船のオールの櫂だよ。」
以前、
『貝のカイ?』と聞いて笑われたことを思い出し、
僕もつられて笑った。
「今年も登る?」
櫂は島の高台の一番大きな木を指さした。
僕は首を振る。
去年は途中まで登って怖くなり、
泣いて降りた。
「今年はきっと、登れるよ。」
そう言われると、
不思議と登れそうな気がした。
野球大会で賞をもらったことを、
自分でも少しだけ誇らしく思っていたからかもしれない。
枝をつかみ、
一歩ずつ登る。
風が少しずつ近くなる。
その時だった。
足が滑って、
体が宙に浮く。
「危ない!」
櫂が手を伸ばす。
けれど、
僕は運よく枝葉の茂みに倒れ込み、
大きな怪我にはならなかった。
「びっくりした……。」
櫂は胸を押さえ、
心から安心したように笑った。
「行ける?」
僕はうなずいた。
もう一度登る。
ゆっくり。
ゆっくり。
そして、とうとう一番上までたどり着いた。
真っ青な海が光っていた。
遠くで波の音だけが響いている。
島も町も、
夏の空も、
全部つながって見える。
「あっ……」
思わず声が漏れた。
遠くに、
僕の家が小さく見えた。
「あそこ!僕の家なんだ」
指をさすと、
櫂は静かにうなずく。
その景色があまりにも美しくて、
なぜだか涙があふれた。
櫂は僕の頭をそっと撫でた。
「もうこの木には、登らなくていいよ。」
「どうして?」
「きみはもう、この景色を知ったから。」
風が枝を揺らす。
「だから、絶対忘れるなよ!」
櫂は笑った。
その笑顔は、
夏の光に溶けるように優しかった。
◆
翌年から、
祖父は島へ行かなかった。
「残念だが、あの島は人の手に渡ったんだ。」
祖父はぽつりと呟いた。
少し大きくなってから、
祖父に櫂のことを話した。
祖父は首をかしげた。
「あの島には、子どもなんて住んでいなかったはずだが。」
僕は何も言えなかった。
夏の終わりの風だけが、
静かに吹いていた。
◆
大人になった今も、
ときどき丘の上から島を見る。
波の音がするたび、
木のてっぺんから見た景色を思い出す。
――あの木も倒されてしまったんだろうか。
あの日から、
櫂の笑顔を思い出すたび、
葉擦れの音が聞こえる気がする。
櫂が本当にいたのか。
それとも、
夏が見せてくれたひとつの幻だったのか。
答えは今もわからない。
けれど、
あの日見た青い海と、
遠くに見えた小さな家だけは、
胸の中で少しも色褪せない。
まるで、
夏そのものが、
一枚の絵になって残っているように。
✳︎シロクマ文芸部
✳︎お題「波の音」ではじめるnote企画
参加させていただきました!
