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【短編小説】波の音が連れてきた夏

小さい頃。

夏になると、
祖父は小さな離島へ連れて行ってくれた。

島はすぐそこに見える。

けれど泳いで渡るには少し遠くて、
子どもの僕には届かない距離だった。

「今日は船を出すぞ。」

祖父のモーターボートに揺られながら、
白い波を眺める。

潮風は少ししょっぱくて、
空はどこまでも青かった。

島に着くと、
祖父は知り合いの家へ向かう。

その間、
僕はひとりで島を歩くのが好きだった。

さわやかな風の吹く場所だった。

蝉の声と、
風に揺れる木々の音しか聞こえない。



「また来たな。」

不意に頭の上から声がした。

見上げると、大きな木の枝にひとりの少年が腰掛けていた。

僕より少し年上に見える。

「久しぶり。元気だった?」

「うん。」

彼は木から軽やかに飛び降りる。

「名前、覚えてるか?」

「えっと……かいくん。」

「そう。船のオールの櫂だよ。」

以前、
『貝のカイ?』と聞いて笑われたことを思い出し、
僕もつられて笑った。

「今年も登る?」

櫂は島の高台の一番大きな木を指さした。

僕は首を振る。

去年は途中まで登って怖くなり、
泣いて降りた。

「今年はきっと、登れるよ。」

そう言われると、
不思議と登れそうな気がした。

野球大会で賞をもらったことを、
自分でも少しだけ誇らしく思っていたからかもしれない。

枝をつかみ、
一歩ずつ登る。

風が少しずつ近くなる。

その時だった。

足が滑って、
体が宙に浮く。

「危ない!」

櫂が手を伸ばす。

けれど、
僕は運よく枝葉の茂みに倒れ込み、
大きな怪我にはならなかった。

「びっくりした……。」

櫂は胸を押さえ、
心から安心したように笑った。

「行ける?」

僕はうなずいた。

もう一度登る。

ゆっくり。
ゆっくり。
そして、とうとう一番上までたどり着いた。

真っ青な海が光っていた。

遠くで波の音だけが響いている。

島も町も、
夏の空も、
全部つながって見える。

「あっ……」

思わず声が漏れた。

遠くに、
僕の家が小さく見えた。

「あそこ!僕の家なんだ」

指をさすと、
櫂は静かにうなずく。

その景色があまりにも美しくて、
なぜだか涙があふれた。

櫂は僕の頭をそっと撫でた。

「もうこの木には、登らなくていいよ。」

「どうして?」

「きみはもう、この景色を知ったから。」

風が枝を揺らす。

「だから、絶対忘れるなよ!」

櫂は笑った。

その笑顔は、
夏の光に溶けるように優しかった。



翌年から、
祖父は島へ行かなかった。

「残念だが、あの島は人の手に渡ったんだ。」

祖父はぽつりと呟いた。

少し大きくなってから、
祖父に櫂のことを話した。

祖父は首をかしげた。

「あの島には、子どもなんて住んでいなかったはずだが。」

僕は何も言えなかった。

夏の終わりの風だけが、
静かに吹いていた。



大人になった今も、
ときどき丘の上から島を見る。

波の音がするたび、
木のてっぺんから見た景色を思い出す。

――あの木も倒されてしまったんだろうか。

あの日から、
櫂の笑顔を思い出すたび、
葉擦れの音が聞こえる気がする。

櫂が本当にいたのか。

それとも、
夏が見せてくれたひとつの幻だったのか。

答えは今もわからない。

けれど、
あの日見た青い海と、
遠くに見えた小さな家だけは、
胸の中で少しも色褪せない。

まるで、
夏そのものが、
一枚の絵になって残っているように。

✳︎シロクマ文芸部
✳︎お題「波の音」ではじめるnote企画
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