見出し画像

落語日記 地域落語会ならではの迫力と親近感を感じさせてくれた圓太郎師匠と市寿さん

第249回 大和田落語会「橘家圓太郎・柳亭市寿二人会」
5月18日 天ぷら丸花
千葉県八千代市の天婦羅屋さん主催の老舗の地域落語会。この日は二人とも好きな演者なので出掛けてきた。日記で振り返ると2年振りの訪問、結構ご無沙汰してしまった。
この店では、毎月第三日曜日に出演者2名の落語会を、20年以上開催し続けている。席亭である丸花のご主人の会を続けている情熱は本当に凄いと思う。落語ファンとして尊敬している。
運営のスタッフは、世代交代している。皆さん熱心にお手伝いされていて、席亭を支えている様子が気持ちよい。
終演後に抽選会があり、サイン色紙が当選。久し振りの観客なのに貴重な賞品を貰えて、常連の皆さんには申し訳ない気持ち。

橘家圓太郎「祇園祭」
まずは主任を務める圓太郎師匠の高座から。圓太郎師匠の魅力のひとつは、身辺雑記のような身の回りの出来事を面白く伝えてくれるマクラだ。特に必ず登場する家族のエピソードが楽しい。
最近行った歌舞伎観劇の話から始まって、圓太郎師匠のお嬢様との会話のエピソード。娘を心配する父親の顔を見せるが、お嬢様から反撃を受けた遣り取りは爆笑を誘う。東京駅から新幹線一本で行ける故郷は福岡、そんな都会に住んでいるのが江戸っ子だ。そんな楽しい屁理屈がマクラになって本編へ。
江戸っ子と京都人の口喧嘩が楽しい一席。強調されたべらんめえ口調の江戸弁と、もっさりとして相手を小馬鹿にしたような口調の京都弁の対決。その対比で笑わせる。それだけではなく、祭り囃子でも江戸の祭り囃子と祇園祭のコンコンチキチンコンチキチンと口三味線でも対決も見事。寄席なら中手が入るところだ。そんな陽気な高座で一席目から盛り上げた圓太郎師匠であった。

柳亭市寿「居残り佐平次」
北千住の勉強会に通っていたが、最近はご無沙汰していたので久し振りに拝見。まずは冒頭で、大先輩である圓太郎師匠のお許しをいただき、胸を借りて長い噺に挑戦しますと宣言。さて、何を掛けてくれるのかと期待が高まる。
大和田落語会初出演なので、自己紹介のようなマクラ。共演の大先輩の圓太郎師匠には稽古を付けてもらったことがあり、大変お世話になっている。非常に厳しい稽古を付けてくれるので有難い。この大和田の地のご縁は、前職で船橋の劇場に通っていたこともあり、京成線沿線に馴染みがあるとのこと。
そして、この演目に入る。本寸法な一席なのだが、所々に初めて聴く演出があった。佐平次が唄う場面などは印象的。終演後の打上げで市寿さんにお尋ねしたところ、小満ん師匠に稽古を付けてもらったそうだ。なるほど、ひと味違う型は小満ん師匠らしさを感じるところ。
この演目を掛ける機会を探っていたようで、老舗の会の初出演の高座を選び挑戦された。
この噺の本来の下げは、現代では通用しづらくなっているので、演者によっては独自の下げを工夫されている噺となっている。市寿さんの下げは、ネットで書かれている小満ん師匠の型とは違っている。佐平次の実家の商売にからめた駄洒落での下げ、ここは市寿さん独自の工夫かもしれない。

仲入り

柳亭市寿「ラブレター」
市馬一門なので、亭号は柳亭。なので、同じ亭号で昭和時代の人気者の四代目柳亭痴楽師との関係を問われることが多いそうだ。直接の関係はないようだが、亭号が同じというご縁なので、四代目痴楽師に由縁の噺をやってみます宣言。
まずは、痴楽師が一世を風靡した「恋の山手線(こい の やまのてせん)」を披露し、その続編でひたちなか海浜鉄道の駅名を織り込んだ「恋の港線」を披露。これは、以前にひたちなか海浜鉄道の列車内で落語を披露されたときに作ったもののようだ。
そして、本編は四代目痴楽師が得意としていた噺。仲入り前の長い噺の後は、軽くて短い噺で圓太郎師匠へ繋いだ。

橘家圓太郎「厩火事」
主任の一席は、長いマクラから。まずは、市寿さんの居残り佐平次について。先輩からの講評のような話。居残り佐平次は、主任で掛けるべきネタとのこと。なので、市寿さんからこのネタを掛けたいと言われたとき、主任の出番を譲ると申し出たのだが、後輩として遠慮されたらしい。
香盤における序列と出演の順番の関係を重視することは、身分社会の落語界では大切なことだと落語ファンならある程度分かっている。しかし、演目の格も演者側は大切にしていることが、圓太郎師匠の話で伝わってきた。出番順と演目のバランスを考えること、他の演者の演目とのバランスを考慮すること、これらは演者側では重要なことだと改めて気付かされたお話だった。

続いて、圓太郎師匠お馴染みの家族の話。後半は、特に奥様との日常会話から巻き起こった夫婦の感情の機微を面白可笑しく伝えてくれる。そんな夫婦のエピソードから夫婦の噺の本編へ。
圓太郎師匠のおそらく得意とする演目。エキセントリックな女房のおサキさん。ときおり混ぜっ返す言葉が、ふざけているとしか思えない。
髪結いとして仕事を廻せているのも亭主が家で留守を守り、まるで支配人のように仕事の差配をしているから。そんな感謝の言葉を女房が口にするのも、圓太郎師匠の厩火事ならではだ。

今回、圓太郎師匠の厩火事の下げを聴いて強く感じたことがある。
この噺は「怪我でもされたら明日から遊んでて酒が呑めねえ」という亭主のセリフで下げる。この日の圓太郎師匠も、この有名なお馴染みのセリフで下げた。
この噺の筋書きは、女房が自分に対する亭主の気持ちを疑い、その本心を探るというもの。その結論が分かるのが、下げにおける亭主のセリフ。これによって、亭主はやっぱり悪人だったのかと落とされ、皮肉な笑いが起こって効果的な下げとなる。
しかし、壊れた皿を心配するより女房の怪我を心配しているという下げ直前の亭主のセリフを聞いたときに、女房を想う亭主の本心だと強く感じられることは普通の感覚だ。圓太郎師匠の高座からは女房の想いが伝わってくるので、相思相愛だといいなあという希望的観測も手伝って、余計にそう感じる。そう受け取れば、下げのセリフは、女房に本心を見透かされたくない亭主が、照れ隠しで悪ぶって言ったセリフとも解釈できる。
このように、下げの直前のセリフと下げのセリフが真逆の意味であり、亭主が善人なのか悪人なのか、観客はどちらとも解釈出来るという構成になっている。このように感じたのも、圓太郎師匠の下げのセリフの印象からなのだ。

この圓太郎師匠による下げで、なぜ亭主の性格がどちらとも受け取れる噺だと強く感じたのか。それは、この日の圓太郎師匠の下げの「遊んでて酒が飲めねえ」が、亭主のセリフとして聞こえなかったからだ。ここだけは、セリフのようでなく感情を込めず平坦に語ったのだ。
これは意図された演出かどうかわからないし、下げの言い方全般に共通の表現かもしれない。いずれにしても、この短い最後のセリフが、感情が平坦に聞こえ、観客側が亭主の本心をどちらとも自由に解釈できるという効果を感じたのだ。それはつまり、亭主の本心の解釈が観客に委ねられたということだ。
結果的に亭主の本心がどちらなのか、唐土の学者なのか麹町の猿なのか、演者側で結論を付けず、聴いた観客が判断する。観客の心理状態によって受け取り方が変わってくるし、どちらとも判断つかないままかもしれない。圓太郎師匠が聴かせてくれた短い下げのセリフが、この噺の魅力をより高めていると感じた次第。
落語オタクに、そんな感想を感じさせてくれた圓太郎師匠の一席だった。


いいなと思ったら応援しよう!