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麻原彰晃の娘の人生

 この映画には「社会」あるいは「世間」という言葉が度々出てくる。加害者の家族は自分の中での様々な問いと闘いながら、それ以上に社会あるいは世間との闘いに明け暮れざるをえない。
 加害者の家族とはいえ、加害者ではないのだ。しかし、この村社会は「池に落ちた犬」を叩くのを良しとする。同調しないものを今度はいわゆる村八分にする、そんな世間というものを考えた。
 2025年8月12日(火)、オウム教団の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫の三女”アーチャリー”松本麗華(りか)さんを6年間にわたって追いかけて彼女の心の内を聞いたドキュメンタリー映画「それでも私は Though I'm His Daughter」(2025年/日本/119分/監督・プロデューサー:長塚洋)をアップリンク吉祥寺で観た。

松本麗華さん(右)


 オウム教団がした数々の凶悪犯罪を認めるわけでなく許せないことだということが大前提で次のように考えている。
 社会や世間が正義とやらを錦の御旗として振りかざして集団リンチを行うことがある。集団ヒステリーでもあり、それほど恐ろしいことはない。
 そういう人たちは自分たちは正しいと信じており、いいことをしていると胸を張っている。自分たちの姿を「鏡」に照らして省みるようなことはしないのが一種の特徴といえるのではないか。
 私はそうした人たちが大嫌いだ。よくPTAにいる「ざますおばさま」や市民活動をしている一部の人にみられる自分だけが正しいことをしていると思い込んでいる連中。虫唾が走る。
 よく見ているとそういう人たちは深い考えや洞察力があるとは思えない。ただ、みんながそっち方面に流れているからと、白と黒、善と悪を峻別し、「安全地帯」から皮相的な正義を振りかざしているだけだ。

公然たる集団リンチ
 いわば公認された公然たる集団リンチである。
 そんなことが象徴的に表れているのが、凶悪犯罪をいくつも犯し多くの死傷者を生んだオウム教団の麻原彰晃こと松本智津夫の家族のこれまでの人生である。この映画は三女の麗華さんに焦点を当てている。
 麗華さんの苦難な人生は、13人が死亡し6000人以上が負傷した1995年3月の地下鉄サリン事件以来、ずっと続いている。
 彼女は、精神的に異常をきたしていたという父を適切に治療して事実を自らの口で語ってもらいたいと願っていた。しかし、2018年7月、突如、松本智津夫ら死刑囚13人の死刑が執行された。
 麗華さんは麻原彰晃の娘だというだけで、定職に就くことも銀行に口座を開くことも拒まれる。また、国は麗華を教団の「幹部」だと認定するのに対して彼女は異議申し立てを行ったが、法的な根拠なく、ただ権利がないとして裁判所はその申し立てを棄却した。
 麗華さんが麻原彰晃の娘だというだけでどうしても色眼鏡で見てしまうだろう。しかし、この映画でリアルな麗華さんを見て思ったのは、彼女はしっかりとしたかわいらしい女性だということだ。
 皮肉なことだが、それは他の人が経験しないような数多の苦労を重ねてきた人生が彼女に人間としての深みを与えたともいえよう。
 そして、もし麻原の娘でなかったとしたら、180度違った人生を歩んでこられたのは間違いない。映画の中で、もしそうなら「結婚して子育てをしていたかも」と言われて、涙ぐむシーンがあった。


 麻原彰晃が死刑になり、オウム教団のトップだった彼が本当は何を考えて何をしたかったのかが闇に葬られてしまった。本当はそこが一番知らなければならない大切なことだったのに。真実に一歩でも近づくことによって二度と同じことが起きぬように問題の根っこを断つヒントを得るべきだった。
 松本智津夫は目が不自由な障害者だった。この世の中、障害を持つものなど弱者に寄り添うなどと口では言っているが、彼ら彼女らが暮らしにくい社会だ。平等に扱うのではなくオミソ扱いするのが思いやりだと勘違いする向きが少なくないように思える。そんな社会あるいは世間を彼はどう感じてきたのだろうか。それも大切なポイントのように思えるのだ。
 繰り返す。もちろん麻原が率いたオウム教団のしてきたことが許されるはずがない。しかし、死刑をもってして全ての幕引きがなされたと考えられているとしたら、それは間違いだ。
 人を殺した人を死刑という制度で殺す。死刑制度をめぐる重要な論点もここで考えるべきであり、私たちに突き付けられた課題である。
 映画のクライマックスでは、40歳になった麗華さんが姉と共に父の故郷である九州のとある場所を訪ねる。実家は畳屋だったそうだ。そこで暮らす親戚に会うが、彼らのかかえる重い苦しみに直面し、苦い涙をながす。
 映画の中で、麗華さんは言っていた。
 「父も人間なのです。私はその父の娘です」と。
 長塚監督は次のように話していた「殺人事件は誰かの愛する者の命を奪うが、その結果としての死刑もまた、誰かの家族を奪うことになる。望んでその身の上に生まれたわけではない麗華は、これからどう生きていけるのか。社会はどう受け入れていくのか、いかないのか」。
 「彼女は二つの痛みと向き合い続ける。一つは父親が償いとして命を奪われてもなお社会から続く、排除や差別。もう一つは父を愛することを止められないまま、父の刑死を受け入れねばならない苦しみだ」。

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