ニュー・ジャーナリズムへの余計なお世話
横浜の居酒屋のカウンターで、ひとりお茶割りを飲みながら、ふと思ったことがある。
ニュー・ジャーナリズムという手法がある。1960〜70年代にトム・ウルフやハンター・S・トンプソンらが切り拓いた、主観と文学的技法を武器にしたノンフィクションの書き方だ。「客観報道」という名の偽装を脱ぎ捨て、書き手が対象の内側に踏み込み、場面を構成し、内的独白を再現し、真実をより生々しく描き出す。手法としては正しいと思う。今でも有効だと思う。
ただ、最近の使われ方を見ていると、なんか変じゃないかという気がしてきた。
手法と対象選択は別の話だ
ニュー・ジャーナリズムの核心は、「主観を正直に使え」ということだと理解している。書き手の視点、感情、解釈を隠さずに投入することで、通常の報道では捉えられない質感が生まれる。その意味で、客観報道が持っていた「公平性の偽装」への批判は正しかった。
ところが最近、「当事者に寄り添う」という言葉を冠したルポが増えた。書き手がその当事者に共感している前提で筆が進み、読者もその感情に乗ることを求められる構造になっている。書き手と取材対象が同じ属性や立場を持つことが、むしろ美徳とされる傾向すらある。
自分の思想をあらかじめ決めておいて、それを肯定する現場だけを選んで歩く。ルポという形式は、その追認に化粧を塗るためにある——そう言いたくなる書き物が、確かに存在する。
「主観を武器にする」と決めた瞬間に、「誰に感情移入するか」という選択そのものが政治的な行為になる。その自覚が薄いまま、シンパシーを感じる対象だけを文学的技法で美しく描く。これは手法の革新ではない。
ディベートが教えること
ディベートという訓練がある。自分が信じない命題を全力で立論する。あの経験が教えるのは、相手への理解を深めることではなく、自分の論理の射程と限界を測ることだ。「ここまでは肯定できる。でもここで足が止まる」という境界線が、初めてくっきりする。
ジャーナリズムも本来そういうものではないか。シンパシーのない対象に踏み込み、できる限り肯定しようとする。そして肯定しきれなかった余白——そこに書くべきものがある。
シンパシーのある対象だけ取材していると、この「足が止まる」体験が起きない。すんなり腑に落ちてしまうから、摩擦がない。だが読み手に伝わるのは大抵、書き手が何かに引っかかった瞬間の質感だ。その摩擦こそが記事になる。
自己慰撫の儀式になっていないか
シンパシーを感じる対象しか書かない書き手は、読者のためではなく、自分を慰めているのではないか。
旧来の客観報道には「公平性の偽装」という欺瞞があった。それを批判したニュー・ジャーナリズムが、「主観の正直さ」を隠れ蓑に「取材対象の選別」という別の偏りを持ち込んだとすれば、退歩とも言える。少なくとも旧来の報道は、形式として両論を並べる義務感があった。ニュー・ジャーナリズムがその義務感を壊した後に残るべきものは、自分が感情移入できない対象にこそ踏み込む緊張感のはずだった。その緊張感が、いつの間にか消えている。
手法の構造問題として
トム・ウルフ自身は、かなり批判的な目を持った書き手だった。「Radical Chic」でレナード・バーンスタインのブラックパンサー・パーティーを痛烈に皮肉ったのは、まさに「シンパシーの対象だけを美化する知識人の自己陶酔」への攻撃だった。名前を出したのはその一点だけのためで、彼が草葉の陰で怒っているかどうかは、実はどうでもいい。
問題は人物ではなく、手法の構造だ。「主観を正直に使え」という命令は、使い手に対象選択の自由を与えすぎる。その自由が、善意のままに「共感できる対象しか書かない」という偏りに転化しうる。発明者の意図がどうあれ、手法そのものにその余地が内蔵されていた。そしてその余地は、時間をかけてゆっくりと広がっていった。
余計なお世話だとはわかっている。横浜の居酒屋のカウンターから、ちょっと首を傾けるくらいの話だ。
ただ、手法が正しいからこそ、使い方が惜しい。読みたいものが見当たらないと感じる読者は、黙って離れていく。怒りもせず、抗議もせず、ただ静かに別の時間の使い方を覚えていく。メディアはそれを、しばらく気づかない。
そして、気がつけば私は静かに、ジャーナリズムから遠ざかっていく。
