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偶像崇拝と一つの掟:弁別と祈りのススメ(1万文字)

偶像崇拝と一つの掟:弁別と祈りのススメ

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【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。

聖書引用は、特記のない限り『聖書 新改訳二〇一七』による。

1. 偶像崇拝

偶像崇拝と聞くと、多くの人は石像や木像の前で礼拝する姿を思い浮かべる。聖書にも、木、石、金、銀などで造られた像を拝む行為への警告が繰り返し記されている。

聖書が扱う偶像崇拝は、人間が何を中心に置き、何によって安心し、何に判断を預けて生きているかという問題にまで及ぶ。富が人を支配すれば、富が偶像として働く。欲望が人を支配すれば、欲望が偶像として働く。酒、指導者、教理、所属集団、社会的評価、自分自身の正しさも、神の位置へ押し上げられた瞬間から、人を支配する力を持ち始める。

本稿では偶像崇拝を、神以外の対象へ安心、価値、正義、判断を預け、その対象によって自分の生き方を決める状態として考える。

この理解に立つと、十戒、イエスが語った最も重要な一つの掟、第一コリント書五章と六章に並ぶ罪、教会懲戒、信者同士の争い、教会内の分派が一つの構造として見えてくる。

その構造を考えるための中心語が、神の御顔、神の御前を表すパニームである。

2. 神の御前

ヘブル語の「パニーム(פָּנִים)」は、顔、御顔、面前などを表す語である。聖書では、文脈に応じて「主の御顔」「神の御前」「主の臨在」などと訳される。

本稿では、神の御前を意識して生きる状態を「パニームに立つ」、その意識を失って別の対象へ心を支配される状態を「パニームから外れる」と表現する。

神の御前に立つ人は、神が見ておられ、聞いておられ、裁き、赦し、導き、支えておられることを認めて生きる。自分の欲望、怒り、利益、正義感を世界の最終基準とせず、神の判断へ自分を開いている。

意識がパニームから外れると、目の前の対象が心の中心を占めやすくなる。欲望を見続ければ欲望が主人となり、金銭を見続ければ金銭が主人となる。批判対象を見続ければ、怒りと自己義認が心を支配する。

偶像崇拝は、神の御顔から視線が外れ、別の対象へ心の支配権を渡すところから始まる。

3. 十戒の出発点

十戒は出エジプト記二十章と申命記五章に記されている。神は戒めを語る前に、イスラエルへ御自身を示した。

「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」(出エジプト記二十章二節)

神が先に民の苦しみを顧み、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、イスラエルを奴隷状態から導き出した。その救いを受けた民へ、新しい生き方として十戒が与えられた。

神の恩寵が先にあり、人間の応答がその後に続く。十戒は、救い出された民が神の御前で生きる道を示している。

十の戒めの全体には、「あなたを救い出した主を、あなたの神として生きなさい」という一つの呼びかけが流れている。

4. 前半の四戒

十戒の区分には教派による違いがある。本稿では、神との直接的な関係を扱う前半四戒と、人間同士の関係を扱う後半六戒に分けて読む。

第一戒は、神以外のものを神の位置へ置くことを禁じる。

「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出エジプト記二十章三節)

第二戒は、偶像を造り、それを拝むことを禁じる(出エジプト記二十章四節から六節)。人間は神を自分の理解できる形へ縮小し、扱いやすい対象として所有したくなる。偶像は、人間の手に収まる神の代用品となる。

第三戒は、神の御名をみだりに唱えることを禁じる(出エジプト記二十章七節)。神の名を自分の願望、権威、怒り、政治、集団の正当化に利用する行為は、神を人間の目的へ従属させる。

第四戒は、安息日を覚えて聖なるものとするよう命じる(出エジプト記二十章八節から十一節)。人間の時間、労働、成果、生活は神から与えられている。安息日は、自分の働きだけで世界を支えているという思い込みを手放し、神の支配を認める日となる。

本稿が前半四戒として扱う戒めは、人間が誰の御前で生き、誰に支配権を返すのかを問う。

5. 後半の六戒

本稿が後半六戒として扱う戒めは、人間同士の関係を扱う。

父と母を敬う戒めは、自分が自分だけの力で存在しているという自己中心性を抑える(出エジプト記二十章十二節)。

殺してはならないという戒めは、自分の怒りや利益によって他者の生命価値を決める権限を人間から取り上げる(出エジプト記二十章十三節)。

姦淫を禁じる戒めは、欲望を結婚の契約より上へ置くことを制止する(出エジプト記二十章十四節)。

盗みを禁じる戒めは、自分の必要や利益を他者の所有権より上へ置くことを制止する(出エジプト記二十章十五節)。

偽証を禁じる戒めは、自分の都合によって真実を操作することを制止する(出エジプト記二十章十六節)。

むさぼりを禁じる戒めは、他者の家、妻、働き手、家畜、所有物を自分のものにしようとする心を扱う(出エジプト記二十章十七節)。

欲望を中心へ置けば姦淫へ向かい、利益を中心へ置けば盗みへ向かう。怒りを中心へ置けば殺意へ向かい、自分の評判を中心へ置けば偽証へ向かう。むさぼりは、神から与えられた自分の分より、他者の分によって自分を満たそうとする。

後半の六戒も、神の御前で隣人をどのように扱うかという偶像崇拝の問題を含んでいる。

6. 一つの掟

申命記六章五節には、イスラエルの信仰を一つに束ねる命令が記されている。

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記六章五節)

イスラエルが愛する方は、エジプトの奴隷状態から民を導き出し、契約を結び、十戒を与えた主である。神を愛することには、主だけを神とし、主に信頼し、主の御言葉に従い、生活全体を主の御前へ置くことが含まれる。

律法の中で最も重要な戒めを問われたイエスは、この申命記の言葉を引用した。

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(マタイの福音書二十二章三十七節)

イエスは続けて、「これが、重要な第一の戒めです」と語った(マタイの福音書二十二章三十八節)。

問いは、最も重要な戒めは何かというものであり、イエスの回答は、神を愛するという一つの掟だった。

十戒は、この最も重要な一つの掟が生活の各領域へ展開したものとして読める。本稿が前半四戒として扱う戒めは神をどのように礼拝するかを示し、後半六戒として扱う戒めは神を愛する者が、神の造られた人々をどのように扱うかを示す。

7. 二つの方向

イエスは最も重要な第一の戒めを示した後で、第二の戒めを語った。

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイの福音書二十二章三十九節)

この言葉は、レビ記十九章十八節からの引用である。レビ記十九章では、貧しい者への配慮、盗み、偽り、搾取、不正な裁判、陰口、憎しみ、復讐など、共同体の具体的な問題が扱われ、その中で隣人愛が命じられている。

イエスは「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっている」と語った(マタイの福音書二十二章四十節)。

本稿では、第一の掟と第二の掟を、実質的に一つの掟として読む。神への愛が源となり、その同じ愛が人間関係の中で隣人愛として現れるからである。

神への愛は、礼拝、祈り、信頼、従順として神へ向かう。同じ愛が、配慮、真実、誠実、赦し、保護として隣人へ向かう。二つの掟には方向の違いがあり、そこを流れる愛は一つである。

神への愛と隣人への愛を別々の領域へ分ければ、礼拝と生活が分断される。神を愛するという告白は、神が造られた隣人を愛する行為によって現実の形を取る。隣人愛は、神への愛が人間関係の中に現れた姿である。

第一ヨハネの手紙は、この一体性を明確に語る。

「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(第一ヨハネの手紙四章二十節)

第一の掟は第二の掟として実を結び、第二の掟は第一の掟が現実の生活に働いていることを示す。神への愛と隣人への愛は、一つの愛が神と人へ向かう二つの方向である。

神の御顔を仰ぐ者は、隣人も神の御前に立つ存在として見る。視線がパニームから外れると、隣人は欲望、利益、怒り、自己義認を満たす材料へ変えられてしまう。

8. コリントの分派

第一コリント書は、紀元一世紀のコリント教会に生じた問題を扱うパウロの書簡である。教会には分裂があり、信徒たちは「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストにつく」と語っていた(第一コリント一章十二節)。

パウロ、アポロ、ケファは、それぞれ神に仕える働き人だった。その名が党派の旗となり、信徒たちが所属によって互いの価値を測り始めたとき、神から与えられた賜物が偶像として働き始めた。

パウロは「キリストが分割されたのですか」と問う(第一コリント一章十三節)。信徒が属する中心は、指導者や党派より、十字架につけられたキリストにある。

分派は、自分が持つ一部分を全体と同一視し、その一部分を共有しない人を低く見るところから生じる。教師、教派、礼拝形式、聖書理解、政治判断、霊的経験も、共同体の中心へ置かれれば党派の旗となる。

9. 五章の懲戒

第一コリント五章では、教会内の重大な性的罪と、それを適切に扱わない共同体の姿勢が問題となる。

パウロは、兄弟と呼ばれる者が特定の罪を続ける場合、その人との交わりを見直すよう命じる。第一コリント五章十一節には、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者が挙げられている。

この一覧には、性、所有、宗教、言葉、酒、略奪という異なる領域が並ぶ。本稿では、これらを神以外の対象へ心の支配権を渡す生き方として読む。

教会懲戒には、本人の救いと回復を願い、共同体の聖さを保つ目的がある。パウロは、その人の霊が主の日に救われることを願っている(第一コリント五章五節)。続くパン種の比喩では、共同体全体の純粋さが扱われている(第一コリント五章六節から八節)。

懲戒を行う側も、神の恵みによって支えられている。懲戒は、本人と共同体の回復を求めて行われる。

10. 六章の争い

第一コリント六章では、信者同士が争いを未信者の裁判官の前へ持ち出していることが問題となる。

「兄弟が兄弟を訴え、しかも信仰のない人々の前で訴えるのですか」(第一コリント六章六節)

争いの背後には、自分の権利、利益、取り分、正しさを守り抜こうとする姿勢がある。パウロは、互いを訴えている時点で、教会はすでに敗北していると語る。

「なぜ、むしろ不正を甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまし取られるままでいないのですか」(第一コリント六章七節)

この言葉の直接の文脈は、兄弟同士が利益を争い、互いを訴えている状況にある。犯罪や虐待については、被害者の保護と公的機関への通報を含む責任が生じる。

パウロが問うているのは、自分の勝利と権利の確保が、兄弟関係、教会の一致、福音の証しより上に置かれている現実である。

神が見ておられ、神が裁き、神が補い、相手へも働かれると信じる人は、自分の正しさを最後まで自力で守り抜こうとする重荷から解放される。

11. 奪う側への転換

第一コリント六章七節に続いて、パウロは語る。

「それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています」(第一コリント六章八節)

パウロは、権利を争って互いを訴える共同体へ向かって、彼ら自身が兄弟へ不正を行い、だまし取っている現実を突きつける。

本稿はこの七節から八節の流れから、自分を被害を受けた正しい側とみなす人も、自分の義に固執する過程で、相手から奪う側へ回り得るという警告を受け取る。

最初に不当な扱いを受けた人も、自分の義を守り続ける過程で、相手の名誉、発言の機会、悔い改める時間、変化する可能性、共同体へ戻る道を奪う側へ移ることがある。

相手を過去の行為へ永久に固定すれば、神がその人へ働かれる未来まで、自分の判決の中へ閉じ込めることになる。

相手が悪い者であり続けることによって、自分の正しさが維持される。その構図へ依存すると、相手の回復を喜べなくなる。

第一コリント六章七節から八節は、自分の権利と正しさへ固執する共同体が、兄弟関係を壊し、自らも不正を行う側へ立つ危険を示している。本稿はその危険を、被害を語る人自身にも向けられる警告として受け取る。

12. 依存の構造

第一コリント五章と六章の罪の一覧は大きく重なっている。

第一コリント六章九節から十節には、淫らな者、偶像を拝む者、姦淫する者、聖書訳によって表現が異なる性的行為に関する二つの語、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、人をそしる者、奪い取る者が挙げられている。

淫らな行為では性的欲望が、貪欲では所有と獲得が、盗みと略奪では利益が、泥酔では酒や酩酊が人を支配する。偶像を拝む者は、被造物を創造主の位置へ押し上げる。そしる者は、「正しい自分」という像によって自分を支えようとする。

本稿で用いる「依存」は、神以外の対象へ安心、価値、正義を預け、その対象から離れにくくなる霊的状態を指す。

第一コリント五章の懲戒と六章の争いを、本稿では、神以外の何かへ支配権を渡し、その対象によって兄弟を扱うという共通の問題として読む。

13. そしる者

「人をそしる者」は、第一コリント五章十一節と六章十節の両方に登場する。

そしりは、他者を悪く言い、傷つけ、評判を損ない、人格を攻撃する言葉と関係する。一方、聖書には預言者による厳しい告発があり、イエスも宗教指導者の偽善を指摘し、パウロも教会の罪を明確に語った。事実に基づいて問題を示し、弱い者を守り、悔い改めを求める言葉は必要になる。

批判とそしりを弁別するためには、内容の正確さに加えて、その批判が自分をどのように支えているかを見る必要がある。

同じ話題に触れるたびに同じ怒りが再生され、同じ口調、同じ評価、同じ結論を繰り返す。相手が変わることより、相手を悪い者として語り続けることが必要になる。批判対象がなくなると、自分の正しさまで不安定になる。

この状態では、批判が問題解決の手段から、自己義認を維持する手段へ移っている。そしりは、非難によって正しい自分を保つ霊的依存として働き始める。

発言している間に、神を賛美する気持ちが減衰していないかという問いも重要である。問題を語るうちに神への感謝、信頼、期待が薄れ、軽蔑、怒り、優越感が強まるなら、視線は神の御顔から批判対象へ移りつつある。

そしりの危険は、反復性、自己義認、神への賛美の減衰という三つの徴候に表れる。

14. 教会批判

筆者が目にした証言の中には、教会で不当な扱いを受け、その問題を指摘した結果、懲戒を受けたと語るものがあった。不公正な権力行使、手続きの欠如、指導者の保身、被害者への圧力が起きた可能性は、証言の内容ごとに検討される必要がある。

傷を受けた人には、自分の経験を語り、悲しみや怒りを表現する時間が必要である。批判内容に高い妥当性があり、教会側に重大な問題がある場合もある。

同時に、同じ出来事を語るたびに憎しみが再生され、相手を永遠に同じ人物として固定し、自分の義を保つために語り続けるなら、傷を語る行為そのものが新しい支配者になり得る。

教会批判を考える際には、批判内容の妥当性と、批判する行為への依存を別々に評価する必要がある。事実として正しい批判と、自己義認へ傾いた語り方は、同じ発言の中に同時に存在し得る。

15. 名称への反発

近年、「教会」という言葉に反発する人や、「キリスト教は宗教ではない」「自分は宗教に属していない」と繰り返し表明する人を見かけることがある。その背景には、制度化された教会への失望、宗教組織による支配、形式化した信仰への抵抗、実際に受けた傷などがあるのだろう。

「教会」や「宗教」は名称である。名称は実体を指し示すために使われるが、その名称だけで、内側にあるすべての共同体、人間、信仰、行為を一括して判定することはできない。同じ「教会」という名のもとに、支配的な共同体もあれば、傷ついた人を支え、福音を伝え、隣人へ地道に仕えている共同体もある。

名称への反発を繰り返す人には、その反発が自分を支える新しい身分証明になっていないかという問いが必要になる。

「自分は教会に依存する人々より自由だ」「自分は制度に縛られない純粋な信仰を持っている」という自己理解が強まると、「教会ではない自分」「宗教ではない自分」という像が、自己義認のよりどころになり得る。

教会に属することも、教会を拒絶することも、それ自体で信仰の正しさや純粋さを保証しない。名称への所属と名称への反発は、どちらも自分を支える偶像へ変わり得る。

16. 現代の分派

コリントの信徒たちは、「私はパウロにつく」「私はアポロにつく」「私はケファにつく」「私はキリストにつく」という所属の言葉によって自分たちを分けていた(第一コリント一章十二節)。

現代では、「私は教会には属さない」「私は宗教ではない」「私は制度化された信仰とは違う」という非所属の言葉が、同じ働きを持つ場合がある。

拒絶する者同士が一つの党派を作り、「教会に属する人々」と「そこから自由になった私たち」を分け、後者をより純粋で成熟した集団とみなすなら、非所属が新しい旗印になる。

「教会ではなくキリストに従う」「宗教ではなくイエスを信じる」という表現も、他の信者を見下すために使われれば、分派を批判しながら新しい分派を生む。

その発言をしている間、神への賛美が増しているのか。教会への軽蔑が増しているのか。キリストへの感謝が深まっているのか。「彼らとは違う自分」という意識が強まっているのか。

コリントで叱責された分派は、現代の非所属という姿で再現され得る。

17. 弁別と祈り

本稿における弁別と祈りは、一つの営みである。

弁別では、ある対象を過度に一般化したり、正しい側と間違った側の二極へ直ちに分けたりせず、少なくとも三つ以上の評価項目へ分けて検討する。

教会批判を扱う場合には、批判内容の事実性、教会側の対応の妥当性、批判する言葉の正確さ、問題解決への寄与、弱い立場の人を守る効果、語る人の怒りや憎しみの強さ、自己義認への依存の可能性、相手の回復を願う姿勢、神への賛美、感謝、信頼の増減、共同体全体へ及ぼす影響などが評価項目となる。

教会側に重大な問題があり、批判内容にも高い妥当性がありながら、語り方には憎しみや自己義認への依存が現れているという評価も成立する。対象全体を一つの判定へ押し込まず、複数の面を同時に保持する。

そのうえで、各見解の妥当性を、その都度のケースに応じて比率として概算する。教会側の手続きに問題があった可能性を八十パーセント、批判者の発言に事実上の根拠がある可能性を七十パーセント、語り方が自己義認への依存へ傾いている可能性を四十五パーセントと仮置きするような方法である。

比率は、自分の確信度と留保を可視化し、「自分は完全に正しく、相手は完全に間違っている」という二極化から離れるための目盛りとなる。新しい事実が判明すれば比率を修正し、自分の感情や利害が判断を歪めていると気づけば、評価項目そのものも見直す。

この弁別法は、観察された事実を説明する仮説を組み立て、最も妥当と思われる説明を探るアブダクションを基礎とする。そのうえで、対象を三つ以上の評価項目へ分け、各見解の妥当性を暫定的な比率として概算する。より良い説明や新しい事実が得られれば、判断を更新する。

祈りは、その暫定的な判断をパニームへ差し出す働きを担う。人間の分析だけで相手を確定せず、自分にも相手にも働く神の力を信じるところまでが、本稿における弁別である。

神には、批判している自分を変える力がある。神には、批判の対象となっている相手を変える力もある。教会の指導者、共同体、制度、慣習、長く続いた関係も、神は取り扱うことができる。

「神よ、この問題を扱ってください。私を正してください。相手にも働いてください。教会を変えてください」

この祈りによって、人は裁きの席から降り、相手を過去へ固定する判決を神へ返すことができる。批判は相手の破滅を求める言葉から、真実と回復を願う言葉へ向きを変える。

弁別によって判断を開き、祈りによってその判断を神へ返す。この一つの営みが、自己義認への依存から人を離れさせる。

18. 愛と回復

パウロは第一コリント書十二章で教会を一つの身体として描き、十三章で愛を語る。

愛は寛容であり、親切であり、ねたまず、自慢せず、高慢にならず、自分の利益を求めず、怒らず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばず、真理を喜ぶ(第一コリント十三章四節から六節)。

愛は不正を喜ばないため、教会の問題を扱う。真理を喜ぶため、事実を正確に見る。自分の利益を求めないため、批判によって自分の正しさを維持しない。人がした悪を心に留め続けないため、相手を過去の行為へ永久に固定しない。

神を愛するから罪を真剣に扱い、隣人を愛するから罪人を一つの行為へ縮小しない。神を愛するから真実を語り、隣人を愛するから真実を自己義認の武器に使わない。

問題を指摘しながら祈ることができる。傷を語りながら相手の回復を願うことができる。正義を求めながら、最終的な裁きを神へ返すことができる。

筆者は、どこに属するか、どの名称を掲げるか、どの言葉へ依存するかによって信仰を測るより、神の御顔を仰ぎながら弁別し、祈ることの重要性を訴えていきたい。

所属する人も、所属しない人も、教会を守る人も、教会を批判する人も、パニームから外れれば、自分の立場を偶像にし得る。

神を愛し、その御前で隣人を愛する。そのために対象を丁寧に弁別し、判断を神へ差し出し、自分と相手の回復を祈る。偶像崇拝から離れる道は、この一つの営みの中に開かれている。

19. 論旨の整理

  • 偶像崇拝とは、神以外の対象へ安心、価値、正義、判断を預け、その対象へ心の支配権を渡すことである。

  • パニームから視線が外れると、欲望、利益、怒り、所属、自己義認が神の位置を占めやすくなる。

  • 十戒は、救い出された民が神の御前で生きるために与えられた。

  • 本稿では、十戒を、神との直接的な関係を扱う前半四戒と、人間同士の関係を扱う後半六戒に区分して読む。

  • 十戒全体は、最も重要な一つの掟である神への愛が、生活の各領域へ展開したものとして読める。

  • 本稿では、第一の掟である神への愛と、第二の掟である隣人愛を、実質的に一つの掟として読む。

  • 神への愛は源であり、隣人愛はその同じ愛が人間関係の中に現れた姿である。

  • 一つの愛が、礼拝、祈り、信頼、従順として神へ向かい、配慮、真実、誠実、赦し、保護として隣人へ向かう。

  • コリントの分派は、部分的な指導者、教え、立場を全体化し、所属によって人の価値を測るところから生じた。

  • 第一コリント五章と六章に並ぶ罪を、本稿では、神以外の対象へ支配権を渡す生き方として読む。

  • 本稿は第一コリント六章七節から八節から、自分を被害を受けた正しい側とみなす人も、自分の義に固執する過程で、兄弟から奪う側へ回り得るという警告を受け取る。

  • そしりは、非難を反復し、相手を悪い者として必要とし、神への賛美を減衰させる自己義認への依存として働き得る。

  • 教会批判では、批判内容の妥当性と、批判する行為への依存を分けて評価する必要がある。

  • 「教会」や「宗教」という名称への反発も、「属さない自分」を支える偶像へ変わり得る。

  • 非所属を誇る集団は、コリントで叱責された分派を現代的な形で再現し得る。

  • 本稿の弁別法は、アブダクションを基礎とし、対象を三つ以上の評価項目へ分け、各見解の妥当性を暫定的な比率として概算する。

  • 弁別と祈りは、判断を複数の可能性へ開き、その判断をパニームへ差し出す一つの営みである。

  • 神が自分と相手の双方へ働かれると信じることで、人は裁きの席から降り、真実と回復を求めることができる。

20. 筆者への問い

この内省は、過去の被害を語る人や、教会という名称へ反発する人だけに向けられるものではない。偶像崇拝、そしり、自己義認について論じる筆者自身も、同じ危険の中にいる。

他者の依存を説明しながら、自分だけがその構造の外側にいると思い込めば、この原稿自体が自己義認の道具になる。教会の問題を分析し、他者の言葉を評価することによって、自分の正しさを確認することもできる。

私は、誰かを裁くためにこの文章を書いているのか。それとも、自分自身を含めて、パニームへ戻る道を探しているのか。

筆者が求めているのは、問題の解決を求めながら、批判する自分自身も神の御前へ置く道である。

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