「この人と話すと、なぜか安心する」の正体
「この人と話すと、なんだか安心する」
そんな人に、出会ったことはありませんか?
特別、話がうまいわけではない。
場を盛り上げるわけでもない。
むしろ、静かな人だったりもする。
でも不思議と、
その人と話したあと、
少し呼吸が深くなっている。
わたしはずっと、
コミュニケーション能力とは、
「伝える力」だと思っていました。
そして、それが、
相手にどう伝わったのかが、重要なのだと。
でも最近、
ある一冊を読んで、
その見え方が変わったのです。
もしかすると、
人は「うまく話せる人」に安心するのではない。
「自分を雑に扱わない人」に、安心しているのかもしれない。
『コミュ力が高い人が話しながら意識していること』は、「会話術」の本ではなかった
今回読んだのは、
『コミュ力が高い人が話しながら意識していること』。
タイトルだけ見ると、
「話し方」のテクニック本のように見えます。
でも、この本の核心は、
「人は、言葉でつながっているのではない」
というものです。
本当に人と人をつないでいるのは、
「相手の世界を、どこまで想像できるか」。
つまりコミュ力とは、話術ではなく──
「他者への想像力」だったのです。
本書の中には、こんな言葉があります。
突き詰めれば、コミュニケーション能力の本質は
「自分自身を俯瞰する能力」にある。
自分の言葉が、相手にどう届くのか。
自分の「正しさ」が、相手の文脈でどう見えるのか。
それを、一歩引いて見られるか。
コミュニケーションとは、
「うまく話すこと」ではなく、
「自分だけの世界から出られるか」だったのです。
人は、「理解」より先に「存在」を受け取りたい
この本を読んでいて、
わたしはずっと、
「なぜ人は会話を求めるのか」
を考えていました。
人は、「理解されたい生き物」だと思われがちです。
でも本当は──
「存在を認められたい生き物」なのではないでしょうか?
ここが、この本のいちばん深い部分なのだと思いました。
だから会話の本質は、
情報交換ではありません。
「あなたは、ここにいていい」を、
無意識に交換し合うこと。
人は、孤独だから会話するのではない。
「自分という存在が、世界から切り離されていない」と確認するために、会話をしているのかもしれない、と。
だから、
ただ正しいアドバイスをされるより。
「それは苦しかったね」と、
存在ごと受け取られた瞬間に、人は救われる。
コミュ力が高い人は、相手を操作しようとしていません。
論破しようとも、うまく見せようともしていない。
ただ、相手の存在を、雑に扱わない。
だから、
質問の温度が違う。
沈黙の怖がり方が違う。
間の取り方が違う。
逆に、
ここを外すと、
人は「正しい人」にはなれる。
でも、「また会いたい人」にはなれない。
なぜなら、
正しさは時々、
相手の世界を飛び越えてしまうからです。
「察してほしい」は、同じ世界を見ている前提だった
この本には、
「察してくれ、に甘えないこと」
という言葉が出てきます。
これを読んだとき、
わたしは少しドキッとしました。
なぜなら、わたしは常々、
「これくらい、わかってくれるよね」と思っているから。
でもそれは、
相手も自分と同じ景色を見ている、
という前提なのかもしれません。
困っていること。
苦しいこと。
本当は嫌だったこと。
言わなくても、気づいてほしい。
でも、相手には相手の世界がある。
だから、見えているものも違う。
本書では、これを「だろうコミュニケーション」と表現していました。
きっと大丈夫だろう。
察してくれるだろう。
そうやって、自分に都合よく補完してしまう。
でも本当は、
人と人は、
思っている以上に違う世界を見ています。
だから必要なのは、
「わかってくれるはず」を信じることではなく、
「わたしは、こう感じている」を、
言葉にする勇気なのだと思いました。
良い人間関係とは、「衝突しないこと」ではなかった
もうひとつ、印象的だった部分があります。
それは、
「良い人間関係とは、衝突があること」
という話でした。
わたしは昔、「揉めない関係」が、良い関係なのだと思っていました。
空気を悪くしない。
嫌われない。
波風を立てない。
でも、それだけでは、
本当の意味で相手と向き合えないことがあります。
言いたいことを飲み込み続けると、
人はいつか、「理解されなかった悲しみ」を抱え始める。
だから対話には、
少しだけ勇気が必要です。
違う意見を言う。
ズレを認める。
それでも、相手を理解しようとする。
人間関係とは、
「衝突がない状態」ではなく、
「衝突しても、対話をやめないこと」
なのかもしれません。
会話とは、「この人の世界を知りたい」と思うこと
読み終わったあと、
わたしの中で、
コミュニケーションの定義が少し変わりました。
会話とは──
「この人は、どんな世界を見ているんだろう」
と、想像し続けること。
そして、
ほんの少しだけ、
その景色を共有しようとすること。
そして、
そうやって誰かと向き合える人を、
わたしたちはきっと、
「また会いたい人」と呼ぶのだと思います。
たぶん、安心とは、
「うまく話せること」ではなく、
「ここにいてもいい」を、
互いに感じられることだから、
ではないでしょうか。
