「意味になる前に惹かれるもの」を、わたしはまだ信じたい
最近、
「なんで、わたしはこれに惹かれるんだろう」
と、不思議に思うことがあります。
同じ景色を見ているはずなのに、
立ち止まる場所が、人によってまるで違う。
ある人は、
整った美しさに心を奪われる。
ある人は、
むき出しの熱量に反応する。
そしてある人は、
説明できない『ズレ』に、なぜか目を離せなくなる。
昔のわたしは、
それを単なる「好み」だと思っていました。
でも、
最近はそうではない気がしているのです。
人は、
世界を客観的に見ているのではなく、
最初から、
『どこに反応してしまうか』という感受性ごと、世界を生きているのかもしれない。
そんなことを考えさせられたのが、
千葉雅也さんの『センスの哲学』でした。
『センスの哲学』は、「センスを良くする本」ではなかった
タイトルだけを見ると、
美意識やセンスを磨くための本に見えるかもしれません。
でも、
この本がおもしろかったのは、
「センス」を、単なる能力や才能として扱っていないところでした。
むしろ著者は、
センスという言葉が、
どこか残酷な響きを持っていることから話を始めます。
「あの人、頑張っているけどセンスがないよね」
そんなふうに、
努力では届かないものとして扱われる。
だから、
センスという言葉には、
少し棘がある。
でも、
著者はそこで終わりません。
センスとは、
生まれつき固定されたものではなく、
「たくさん触れ、選び、組み合わせてきた蓄積」でもある、と言うのです。
ここが、わたしには希望に見えました。
正解が増える時代に、「自分のズレ」を守れるか
この本を読みながら、
わたしはずっと、
SNSのことを考えていました。
最近のSNSは、
「正解」が流れてくる速度がとても速い。
伸びる言葉。
強い構成。
刺さるフック。
何が届くのかが、
すぐに共有されてしまう。
それはもちろん便利です。
実際、
わたし自身も、
何度も助けられてきました。
でも、
正解ばかりを見続けていると、
少しずつ怖くなることがあります。
『わたしは何に惹かれたんだろう?』
より先に、
『どうすれば正しく見えるか』
を考えるようになるから。
すると、
世界を見るというより、
『評価される世界』を見始めてしまう。
もちろん、
型を学ぶことは悪ではありません。
でも、
型ばかりを見ていると、
自分の感覚が少しずつ薄くなっていく。
「なぜかわからないけど気になる」
その小さな違和感を、
置き去りにしてしまうのだと思います。
センスとは、「正しく見る力」ではなく「反応してしまう力」
この本を読んでいて、
とくに印象的だったのが、
センスとは、
『直感的に分かること』だという話でした。
でも、
ここでいう直感って、
単なる勘ではない気がします。
もっと、
身体に近いもの。
頭で整理するより前に、
「なんか気になる」
「妙に引っかかる」
「理由はないけど好き」
と反応してしまう感覚。
つまり、
センスとは、
『何を知っているか』より、
『何に反応してしまう人なのか』
なのではないでしょうか?
この視点に立つと、
センスは、優劣ではなくなります。
ある人は、
余白に反応する。
ある人は、
熱量に反応する。
ある人は、
不格好さやズレに惹かれる。
それは、
能力というより、
世界との関係性に近い。
そんなふうに思えるのです。
「ヘタウマ」の話が、今の時代に刺さる
この本の中で、
特におもしろかったのが、
「ヘタウマ」の話でした。
普通、
センスがあるというと、
上手いことだと思ってしまう。
でも著者は、むしろ逆へ向かいます。
正確に再現することより、
「自分の線の運動」が先にある状態。
つまり、
再現性から少し降りたところに、
その人らしさが出るのだと。
これ、
AI時代にものすごく重要な感覚だと
わたしは思いました。
正確さだけなら、
AIはどんどん強くなる。
文章も、構成も、整理も、最適化も、
人間以上にできるようになるでしょう。
でも逆に言うと、
「どんなふうにズレるか」には、人格が出る。
どこで違和感を持つか。
どこで崩すか。
どこで妙な熱量が出るか。
そこに、人間らしさが残る。
「意味になる前に惹かれるもの」を、大事にしたい
AIが、どんどん正確になっていく時代。
だからこそ、最後に残るのは、
「何を知っているか」ではなく、
『何に反応してしまう人なのか』
なのかもしれません。
最近、わたしは、
うまく言葉にできないものを、
前より少し大事にしたくなっています。
説明できないのに、
なぜか気になるもの。
意味になる前に、
先に惹かれてしまうもの。
たぶん、
センスって、
そういう場所から始まるのだと思います。
