「自分はここにいる」と言える根拠は何だろう?
人は、生まれただけでは
「存在している」とは言えないのかもしれません。
戸籍について、読む中で、
そんな感覚に出会いました。
これまで私は、
戸籍のことを深く考えたことがありませんでした。
結婚や手続きのときに必要になるもの。
そのくらいの認識だったと思います。
でも──
読み進めるうちに、少しずつ見え方が変わっていきました。
戸籍とは、
ただ「生まれた事実」を記録するものではなく、
「社会の中で認められた存在」を形にする仕組みなのではないか。
人は、生まれただけでは社会に存在しない。
名前が記録されて、はじめて“この世界にいる”と扱われる。
そう考えたとき、
足元が揺らぐような感覚がありました。
この本は「制度」ではなく「存在」を問い直す
今回読んだのは、
『戸籍の日本史』という一冊です。
古代から現代にいたるまで、
戸籍という制度がどう作られ、
どう変化してきたのかが描かれています。
でも、読みすすめるうちに気づくのです。
これは、単なる制度の歴史では終わらない。
戸籍という仕組みを通して、
「日本人とは何か?」
「家族とは何か?」
「人が存在するとはどういうことか?」
そんな問いを、投げかけてくる本でした。
戸籍は「日本人であること」を証明するもの
戸籍とは、いったい何なのでしょう?
この本を読んでいて、
いちばん強く心に残った一文があります。
それは──
「戸籍とは、日本人であることを証明するもの」
この一文を読んだとき、
背筋が伸びるような感覚がありました。
戸籍に記載されている人は、日本人。
逆に言えば、戸籍がなければ、日本人とはみなされない、ということ。
実際に、パスポートの取得や、
さまざまな手続きの場面で、
戸籍は「国籍を証明するもの」として扱われています。
つまり戸籍は、
「あなたは誰か」を記録するものではなく、
「あなたが、この国に属する存在かどうか」を決めるものでもある。
そう考えたとき、
この制度の見え方が、また少し変わりました。
私たちは「認められることで存在している」
生物としての人間と、
社会に登録された人間。
この2つは、本来別のものです。
戸籍があるから、日本人になる。
戸籍に記載されるから、家族になる。
つまり──
私たちは、
「存在している」から認められるのではなく、
「認められる」ことで、存在している。
「家」という枠の中で生きている
もうひとつ印象的だったのは、
戸籍が「個人」ではなく「家」を単位にしていることです。
名前も、関係も、所属も、
すべてが「家」という枠の中で整理されていきます。
明治の新政府は、戸籍に新しい役割を与えました。
人々を「国民」としてまとめるための装置として。
そのとき使われたのが、「家」という単位です。
人はまず「家」に属する存在として定義され、
その延長として「国家」に組み込まれていく。
そう考えると、
私たちが当たり前だと思っている「家」という感覚も、
どこかでつくられてきたものなのかもしれません。
「自分とは何か」を、自分で決めているか
戸籍は、私たちに安心を与えてくれます。
自分がどこに属しているのか。
誰とつながっているのか。
それがはっきりするからです。
でも同時に、
「自分とは何か」を、
どこかで他者に委ねている側面もあるのかもしれません。
無自覚に従えば、安定は得られます。
でも、その分だけ、考える必要はなくなります。
問い始めれば、不安定になります。
でもその分だけ、自分で選んでいる感覚が残ります。
どちらが正しい、という話ではなくて。
「それ、本当に“自分で選んだもの”だろうか。」
その問いだけが、残りました。
