人は「見えている未来」にしか動けない
あの人、
なんでこんなに軽やかに動けるのだろう?
そう感じる人、いますよね。
思いついたら、すぐ動く。
やったほうがいいと思ったことを、先延ばししない。
もちろん、迷いがないわけではないとは思うのです。
でも、どこか“未来へ向かう流れ”が止まらない。
わたしは昔、
それを「行動力」と呼んでいました。
でも最近、
ある本を読んで、
少し見え方が変わりました。
もしかすると、動ける人は、
意志が強いのではなくて、
“未来に引っぱられている人”
なのかもしれない、と。
『瞬動力』は、「やる気」の本ではなかった
今回読んだのは、『瞬動力』という本です。
タイトルだけ見ると、
「すぐやる方法」や
「行動力を高める技術」
について書かれた本に見えるかもしれません。
でも、この本がおもしろかったのは、
「なぜ人は動けないのか」を、
根性論ではなく、
認知の仕組みから捉えていたことでした。
行動本の多くは、
やる気を出そう。
小さく始めよう。
習慣化しよう。
という方向で語られます。
でも、『瞬動力』は違う。
「人はなぜ止まるのか」を、
根性ではなく、“人間の自然な反応”として捉えています。
たとえば私たちは、
変わりたいと言いながら、
同時に、
変わることを怖がっている。
新しい挑戦。
新しい環境。
新しい自分。
未来へ進みたいはずなのに、
昨日までの自分に戻ろうとする。
しかもそれは、怠けているからではありません。
むしろ、
ちゃんと生き延びようとしている反応なのだ、
とこの本は語るのです。
「瞬動力」とは、未来の自分を現在に呼び込む力だった
この本を読みながら、
わたしは途中から、ある感覚を持ち始めました。
あれ?
もしかすると、“瞬動”って、
単純に「速く動くこと」ではないのではないか。
むしろ──
“未来の自分を、現在に召喚する力”
なのではないか。
だから、本当に動ける人は、
根性が強いわけじゃない。
未来側の重力が強い。
未来に引っぱられている。
逆に言えば、
動けない時って、現在に問題があるんじゃない。
未来が弱いのです。
昔のわたしは、
「やりたいことがない」のだと思っていました。
でも、違ったのかもしれない。
未来が、まだ見えていなかっただけだった。
未来像が、まだ身体感覚として届いていない。
だから脳は、
「今のままのほうが安全」と判断する。
極めて合理的に。
人は、「見えている未来」にしか動けない
この本には、
外発的動機
↓
自己効力感
↓
内発的動機
という流れが出てきます。
最初は、「変わりたい」「このままじゃ嫌だ」
という外側の理由から始まる。
でも、人は途中で変わっていくもの。
「やらなければ」だったものが、
「やったほうが気持ちいい」
へ変化していくのです。
ここが、とてもおもしろいと思いました。
なぜなら、多くの人は、
“努力して続けること”を良いことだと思っているからです。
でも本当は、
努力し続けないとできない時点で、
まだどこか無理をしているのかもしれない。
行動が定着した人とは、
頑張れる人ではない。
自然と、そちらへ向かってしまう人なのではないでしょうか?
そんなことを考えました。
「未来が見えていたら、人は止まれるのか?」
この本を読みながら、
わたしはずっと、ある問いを考えていました。
「わたしは、何を恐れて止まっているのか?」
でも、途中で問いが変わったのです。
「もし本当に未来が見えていたら、
わたしは止まれるだろうか?」
本当に重要なのは、こちらなのではないか、と。
たぶん、人は、
未来を信じ切れていない時に止まる。
「やりたい」はある。
でも、未来の輪郭が曖昧だから、
脳は現状維持を選ぶ。
先延ばしは、怠慢ではない。
未来の解像度不足、なのです。
“瞬動”とは、存在の方向性なのだと思う
この本は、「すぐやる技術」を教えてくれる本です。
でも、哲学的に読むと、
もっと違うものが見えてきます。
それは、
「人は、どちらの未来に引っぱられて生きているのか」
という問いです。
不安の未来。
失敗する未来。
恥をかく未来。
それとも──
やってしまったほうが、
きっと自分らしくいられる未来。
たぶん、“瞬動”とは、
行動速度ではない。
存在の方向性なのだと思います。
もし今日、
なかなか動けないことがあるなら。
それは、
意志が弱いからではなく──
まだ、
未来が身体に届いていないだけなのかもしれません。
そして人は、
未来が“現実よりリアル”になった瞬間、
驚くほど自然に動き始める。
たぶん、行動とは、
決意ではなく、引力なのです。
