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「身体を持たない知性」は、本当に理解しているのか

最近、AIについて考える時間が増えました。

便利に、そして、速くなりました。
知識にも、すぐにたどり着くことができます。

でも、その一方で。
わたしは時々、少し不思議な感覚になることがあるのです。

「考える」って、何だったんだろう。
「理解する」って、どういうことだったんだろう、と。

そんなことを考えていた時に出会ったのが、
『天使の哲学』でした。

タイトルだけ見ると、
少し変わった哲学書に見えるかもしれません。

でもこの本は、
「天使って本当にいるの?」という話では終わりません。

むしろ、逆。

天使という、
“人間ではない存在”を使いながら、
「人間とは何か」をを考え抜いていく本でした。


『天使の哲学』は、「昔の哲学」の本ではなかった

中世哲学と聞くと、
「難しい」とか、
「宗教っぽい」とか、
「昔の学問」というイメージを持つ人も多いのではないでしょうか。

わたしも最初は、
どこか遠い世界の話のように感じていました。

でも『天使の哲学』を読み進めると
・・・かなりの驚きでした。

彼らが考えていた問いが、
あまりにも“今”だったから!!

中世の哲学者たちは、
天使を単なる空想上の存在として扱っていませんでした。

むしろ、

身体を持たない知性とは何か。
意思はどこから生まれるのか。
感覚なしに理解は可能なのか。

そんなことを、
本気で考えていたのです。

ほら。

急に、AI時代の話に見えてきませんか。

天使は、
「身体を持たない知性」として考えられていました。

そして今、
AIもまた、
身体を持たない知性として現れています。

だから、この本は、
単なる宗教史ではなくて、

知性とは何か。
理解とは何か。
人間固有のものは何か。

そこを探究する、
かなり現代的な哲学書だったのです。


「身体を持たない知性」は、本当に理解しているのか

最近、AIに慰められた夜がありました。

たしかに、返ってくる言葉は優しかった。

否定もしない。
ちゃんと受け止めてくれる。

でも、ふと途中で、
不思議な感覚になったのです。

この優しさは、
“傷ついたことのある優しさ”ではないのかもしれない、と。

正しい答えは返ってくる。

でも、
“痛みを知っている”わけではない。

その時、わたしは初めて、
「身体を持つ知性」とは何かを、考え始めました。

『天使の哲学』の中で特に面白かったのが、
天使は「身体を持たない存在」として議論されているところです。

眼もない。
耳もない。
触覚もない。

だから、
人間のように感覚を通して世界を理解することができない。

それでも、
天使には知性があると考えられていた。

ここで、わたしは少し立ち止まりました。


人間は、身体を通して世界を理解しています。

暑い。
痛い。
怖い。
嬉しい。

そういう感覚の積み重ねの中で、
言葉を覚え、意味を知り、他者を理解していく。

でももし、
身体を持たずに、
情報だけを扱う存在が現れた時。

それは本当に、
「理解している」と言えるのだろうか、と。

この問いを、
中世の人たちは、
もう何百年も前から考えていたのです。


「天使はどこにいるのか」という問いは、笑えない

『天使の哲学』の中では、
今の感覚で見ると、
少し奇妙な問いも真剣に考えられています。

天使はどうやって移動するのか。
同時に複数の場所に存在できるのか。

現代人からすると、
思わず笑ってしまうかもしれません。笑

でも、読んでいて途中から気づくのです。

彼らは、
“存在とは何か”を考えていたのだ、と。

存在とは、
場所に縛られるものなのか。

意識とは、
一点に宿るものなのか。

情報は、
空間を超えられるのか。

これって実は、
現代のインターネットやAIにも繋がる問い、ではないでしょうか?

つまり彼らは、
天使を使って、
存在そのものを実験していた。

そう考えた瞬間、
中世哲学が急に、
古い学問ではなくなったのです。

むしろ、
今のわたしたちのほうが、
「存在とは何か」を考えなくなっているのかもしれません。

中世人は、「世界には意味がある」と信じていた

この本を読んでいて、
もう一つ印象に残ったことがあります。

それは、
中世の人たちは、
世界全体を“意味のつながり”として見ていたこと。

星の動き。
倫理。
音楽。
自然。
人間。

それぞれが、
バラバラに存在しているのではなく、
一つの秩序の中にある。

現代は逆に、
「世界は偶然の集合」
として見ることが増えました。

もちろん、
その視点によって得られた自由もあります。

でも一方で、
わたしたちは少しずつ、
“世界とのつながり”を失っているのかもしれない、と感じるのです。

全部が情報になり、
全部が効率になり、
全部が比較になる。

その中で、
「なぜ生きるのか」
という問いだけが、
置き去りになっている気がするのです。

中世哲学は、
今の感覚からすると不自由に見える部分もあります。

でも彼らは、
世界を「意味のネットワーク」として見ていた。

だから、
石ころにも、
星にも、
倫理にも、
存在理由があった。

この感覚を失った時、
人は便利にはなる。

でも、
生きる意味だけが、
薄くなっていくのかもしれません。

哲学は、「問いの温度」を取り戻すためにある

この本を読んで、
わたしが一番面白いと思ったのは、
中世哲学の“正しさ”ではありませんでした。

むしろ、

なぜ彼らは、
ここまで本気で
「存在」や「知性」を考えたのか。

その熱量だったのです。

AIが賢くなるほど、
わたしたちは逆に、
「人間とは何か」を説明できなくなっている。

便利になるほど、
「考える」とは何かが分からなくなっている。

だから今、
中世哲学は、
意外なくらい現代に近い場所にあります。

哲学は、
知識を増やすためだけのものではない。

世界を、
もう一度“自分の問い”として引き受けるためのものなのかもしれません。


AIが、どれだけ賢くなっても。

たぶん最後まで残るのは、
「人間は、なぜ問い続けるのか」
という問いなのだと思います。

便利さでは埋まらない空白を、
人は昔から、
「哲学」と呼んできたのかもしれません。


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