人は、「意味」を通して世界を見ている
最近、SNSを見ていて、ふと思うことがあります。
同じ投稿なのに、受け取り方が違う。
「励まされた」という人もいれば、
「傷ついた」という人もいる。
同じ出来事を見ているはずなのに、
まるで違う世界の話をしているように、
会話が噛み合わなくなる。
昔のわたしは、これを単なる「価値観の違い」だと思っていました。
でも、
『具体と抽象』を読んで、
少し見え方が変わったのです。
もしかすると人は、“現実そのもの”を見ているわけではないのかもしれない。
『具体と抽象』は、「世界の見え方」を変える本だった
今回、紹介するのは、
細谷功さんの
『具体と抽象 ― 世界が変わって見える知性のしくみ』です。
タイトルだけを見ると、
ロジカルシンキングや思考術の本に見えるかもしれません。
でも、わたしは、
「人は、どうやって世界を理解しているのか」
を考える本に見えました。
たとえば、
リンゴ。ミカン。バナナ。
これは具体ですよね。
でも、
果物。食べ物。栄養。
となると、抽象になる。
ここまでは、わりと普通の話です。
でも、この本のおもしろさは、その先にありました。
人は、
“抽象”を持った瞬間に、
現実をそのまま見ているのではなく、
「意味づけ」
を始めるのです。
人は、「意味」を通して世界を見ている
哲学者カントも、
人は世界をそのまま見ていない、と考えたそうです
人は、認識のフィルターを通して、世界を理解している。
つまり、
同じ現実を見ていても、
人によって意味が変わる。
この本は、その構造を、
仕事や会話、教育やコミュニケーションレベルまで降ろして説明しています。
例えば、ある事件に対しての2つの意見。
A「加害者の人権も認めるべきだ」
B「お前は自分の家族が被害者でも同じことが言えるのか?」
Aは抽象派。
「極論で言い切る」という手法を取ります。
ところが、それを見た、Bの具体派の人たちは、
切り捨てられた部分が気になって仕方ありません。
「こんな意見もあるじゃないか!」と反論するのですが、
当の言い切った側の抽象派は
「そんなことはわかった上で切り捨てている」わけです。
つまり、
スタンスの違いが存在すること自体が認識されていない。
だから、議論が噛み合わない。
だから、SNSで終わらない対立が起きる。
人は、違う意見と戦っているようで、
実は“違う抽象度”で話している、
ということなのかもしれません。
抽象度が高い人は、
目の前の現象だけではなく、
構造や共通点を見る。
逆に、
具体だけに閉じ込められると、
人は目の前の出来事に振り回され続ける。
わたしは、ここに少し怖さを感じました。
抽象化は、人を賢くもするし、冷たくもする
ただ、この本がおもしろいのは、
「抽象化=良いこと」
として終わらせていないところです。
抽象化には、“光”と“闇”がある。
光は、本質を見抜く力です。
たとえば、売れている商品を見て、
なぜ売れるのか。どんな欲求に刺さっているのか。共通する構造は何か。
それを考える。
これは知性です。
でも、抽象化しすぎると、人は世界を“概念”として扱い始める。
顧客。KPI。労働力。ユーザー属性。
そんな言葉だけで世界を見ると、生身の痛みが消えていく。
最近、SNSを見ていると、
人間同士ではなく、「立場」同士が戦っているように感じることがあります。
そこにはもう、“誰かの日常”が存在していない。
わたしは、ここに現代の怖さがある気がしています。
本当に優れた人は、最後に具体へ戻ってくる
本当に優れた人とは、
“抽象と具体を往復できる人”なのだと思います。
禅の教えも、きっと同じ構造なのでしょう。
「空(くう)」を理解しても、
最後は、茶を飲む。掃除をする。誰かに声をかける。
という具体へ戻ってくる。
つまり、抽象とは、具体から逃げるためにあるのではない。
具体を、もっと深く理解するためにある。
私は、この視点にかなり救われました。
哲学とは、「自分の当たり前」を疑うこと
この本を読んでから、私は時々、自分に問いかけるようになりました。
わたしはいま、何を「現実」だと思っているのだろう。
売上。
不安。
人間関係。
日々のタスク。
では、その背後に、どんな“意味”を置いているのだろう。
承認欲求。
自由。
恐れ。
愛。
存在証明。
あるいは、「成功」「成長」「幸せ」という言葉を、私は本当に理解しているのだろうか。
哲学って、難しい言葉を覚えることではない、と私は思うのです。
“自分が無意識に使っている抽象概念”を疑い始めること。
もしかすると、世界が変わるのではなく、
“見え方”が変わるだけなのかもしれません。
でも、人生はたぶん、そこから変わり始める。
そう感じています。
