「助けてください」と言える人が、自立している理由
「助けてください」と言えたとき、
あなたは自立している。
この言葉を読んだとき、
正直、少しモヤっとしました。
自立とは、
人に頼らずとも生きていけること、だと思っていたからです。
迷惑をかけないこと。
自分のことは自分でなんとかすること。
それが“ちゃんとしている人”だと、
どこかで信じていました。
でも──
その「ちゃんと」は、
誰のためのものなのでしょうか。
福祉は誰のため?
今回読んだのは、
『福祉は誰のため?』という本です。
福祉というと、
困っている一部の人のためのもの。
そんなイメージを持っていました。
でもこの本は、書かれているのは
福祉とは、
「困っている人を助ける仕組み」
ではなく、
誰もが、支え合いながら生きるためのもの
だという考え方です。
元気な人も、
いつかは誰かの助けが必要になる時がくる。
そのときに、支え合える関係や仕組みがあるかどうか。
それが、社会のあり方を決めているのかもしれません。
助けてくださいと言えますか?
この本の中で、
特に印象的だったのは、
「助けてください」と言えることの意味でした。
できないことは努力で乗り越えるべき。
人に頼るのは甘え。
そんな価値観の中で生きていると、どうなるでしょう?
ひとりでは抱えきれない状況に直面した時、選択肢がなくなってしまう。
本当は頼っていいはずなのに、頼れない。
その状態こそが、人を追い込んでいくのだと思います。
そしてもうひとつ。
「障害のある子は、なぜ分けられるのか」
この問いも、心に強く残りました。
勉強についていけないから。
周りに負担がかかるから。
いじめられる可能性があるから。
どれも、一見すると正しい理由に見えます。
でも、その前提には、
「同じペースで、同じ内容を学ぶのが当たり前」
というルールがあるのです。
では、そのルールは、
いったい誰のためのものなのでしょうか?
ノーマライゼーションという考え方では、
障害のある人を「普通にする」のではなく、
環境のほうを変えることが大切だとされています。
つまり、
「合わない人を外に出す」のではなく、
「誰もがいられる形に変えていく」
という発想です。
この視点に立ったとき、
これまで「やさしさ」だと思っていたものが、
誰かを排除していた可能性に、はっとさせられました。
誰が定義し、誰が満足し、誰が置き去りになるのか
この本を読んで、
ひとつの問いが残りました。
善意とは、誰の視点で語られているのでしょう?
支援する側は、守っているつもりになる。
制度は、配慮しているつもりになる。
でも──
当事者は、
本当に自由になっているのでしょうか。
善意が「管理」になるとき、人は縛られる。
善意が「選択」を生むとき、人は生きられる。
その違いは、とても小さくて、
でも決定的なもの、なのだと思います。
そしてもうひとつ。
自立とは、
ひとりで生きることではなく、
誰かとつながりながら、生きること
なのかもしれません。
その「正しさ」は、本当に誰かのためのものですか?
それとも──
「自分が責められないため」に、守っているだけでしょうか。
