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「いけず」という言葉が語る、京都のやわらかい距離感

京都に住みはじめてしばらく経ちます。

暮らしの中でたびたび耳にするようになった言葉のひとつが、「いけず」。
でも正直なところ、私自身が“いけずな扱い”を受けたと感じたことはありません。それでも、「いけず」という言葉には、どこか残り香のような存在感があります。
直接耳にしなくても、その空気感のようなものが、京都という街の静かな輪郭を形づくっているように思えるのです。

はっきり言わない優しさ

「いけず」とは、はっきり言わずにやんわりと断ったり、遠まわしに否定したりするような言葉づかいのこと。
たとえば、「それはちょっと…」とストレートに言うのではなく、「それ、面白い発想やね。ただ、この場には合わへんかもしれんね」といった具合に。
聞きようによっては、遠まわしで回りくどい。
でも、その奥には“相手を傷つけないための気づかい”が込められているように感じます。

いけずの背景にある京都の美意識

『Kyoto: A Cultural History』という本の中で、京都在住の作家ジョン・ダグルさんは、京都の人々が自らの文化的な洗練さに誇りを持っていたことを紹介しています。
平安の昔から続く都としての歴史、貴族文化、詩や書、茶の湯といった繊細な美意識。
そういった積み重ねが、人と人との間にある言葉にも、自然と影響してきたのだと思います。
争わないこと、場の空気を壊さないこと。
そうした価値観が、直接的な表現を避ける言葉づかいを生んだのかもしれません。

「いけず」は思いやりの裏返し?

「いけず」という言葉には、“意地悪”という意味合いも含まれているようですが、それだけではない気がします。
相手の立場や面子を尊重しながら、本音を伝えようとする。
そこには、一見わかりづらくても、細やかな思いやりが含まれていることもあるのではないでしょうか。
思えば、平安時代の文学——たとえば清少納言の『枕草子』など——では、「言わないこと」や「余白」がとても大切にされていました。
いけずの話し方もまた、そうした“言葉にしないで伝える”という文化の延長にあるような気がします。

現代社会の中で、いけずをどう捉えるか

今は、率直さやわかりやすさが重視される時代です。
メールでも、できるだけストレートに伝えることが良しとされる風潮があります。
そういう時代の中で、「いけず」は時に“わかりにくさ”として捉えられ、誤解を生むこともあるでしょう。
でも一方で、言葉がどんどん鋭くなっている今だからこそ、あえてぼかす、あえて言い切らないという優しさも、必要なのではないかと思います。

心理学者のアダム・グラントが紹介した「感じのいい搾取者」「感じの悪い善人」という話があります。
京都のいけずにも、そうした“印象と実際”のギャップがある気がします。
表面的には少し冷たく感じるけれど、じつは相手を守るために言葉を選んでいる——そんなことも、あるのかもしれません。

「余白」をもつ言葉のかたち

いけずを、単なる京都の言い回しだと捉えてしまうのは、もったいない気がします。

むしろこれは、「どのタイミングで、どの言葉を、どれくらい出すか」という感情のペース配分のようなもの。
音楽でいえば休符、絵でいえば余白。
言葉においても、余白はときに情報よりも多くを語るものです。
もちろん、いけずが“人を遠ざける手段”として使われてしまうこともある。
でも本来は、「傷つけずに伝える」ことを大事にしてきた京都の知恵のひとつなのではないかと、私は思っています。

さいごに

ふとした言葉づかいや、やりとりの間に流れる沈黙のようなものに触れるたびに、この街が大切にしてきた“人との距離のとり方”に、何か学ぶことがある気がするのです。

いけず。

それは単なる回りくどさではなく、「言葉の奥にある思いやり」の一つのかたち。
その存在が薄れつつある今だからこそ、もう一度立ち止まって味わってみたい、日本語の美しさのひとつだと感じています。


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