HK27「下心は、悪いものだろうか。」──心に気づくと、人との関わりは少しずつ澄んでいく。
HK27「下心は、悪いものだろうか。」
──心に気づくと、人との関わりは少しずつ澄んでいく。
人に親切にするとき。
誰かに優しい言葉をかけるとき。
「ありがとう」と伝えるとき。
そこに、ほんの少しでも
「好かれたい」
「何か返ってきたら嬉しい」
「自分にも得があればいいな」
という気持ちがあったら。
それは「下心」なのでしょうか。
もしそうなら、完全に澄み切った心で人と関わることは、思っている以上に難しいのかもしれません。
でも最近、僕は思います。
大切なのは、
下心をなくすことではなく、自分の心に気づいていることなのではないか。
そんな話を、今日はしてみたいと思います。
彦ちゃん:
最近な、「下心」について考えることがあるんよ。
けんちゃん:
下心?
彦ちゃん:
例えばな。
「善いことをしたら、きっと良いことが返ってくる」
そう思って善いことをするのも、厳密に言えば下心なんかなって。
けんちゃん:
なるほどね。
純粋に相手のためだけ、ではないもんな。
彦ちゃん:
そうなんよ。
そう考えると、澄み切った心って、ものすごく難しいなと思って。
この前な、ひょんなことから知り合った韓国籍のお母さんと話してたんよ。
けんちゃん:
前に料理とか花をくれた人?
彦ちゃん:
そうそう。
ポテトサラダ作ってくれたり、観葉植物や花も何鉢かくれたり。
この前も電話で、
「この前のポテサラ、めっちゃ美味しかったです」
って伝えたんよ。
ほんまに美味しかったから。
そしたら、
「今度は肉じゃが作ってあげる」
って言ってくれてな。
けんちゃん:
嬉しいね。
彦ちゃん:
うん。
でも、そのときふと思ったんよ。
僕の中に、
「また何かもらえるかも」
っていう気持ちは、本当になかったんかなって。
けんちゃん:
そこまで自分の心を見るんだ。
彦ちゃん:
人を利用しようなんて気持ちは、もちろんないよ。
でもな。
「何か得られたら嬉しい」
くらいの気持ちは、どこかにあるのかもしれへん。
そのお母さん自身も以前、
「得があるから付き合うのよ。得がなかったら付き合わない」
みたいなことを言っててな。
最初は、
「じゃあ僕と会うのも、何か得があるからなんかな」
って、少し引っかかったんよ。
けんちゃん:
まあ、そう思うよね。
彦ちゃん:
でも、よく考えたら僕も同じなんよ。
その人と話すと元気になる。
面白い。
会うと何かをもらえる。
料理とか花やなくて、気持ちの話な。
だから会ってる部分だってある。
けんちゃん:
それなら、人間関係ってそもそも何かを与え合っているものなのかもしれないね。
彦ちゃん:
僕もそう思った。
「得があるから付き合う」
って聞くと、ちょっと冷たく感じるけど、
安心できる。
元気をもらえる。
楽しい。
自分を理解してもらえる。
それも全部、広い意味では「得」やもんな。
だから、
何かを求める心があること自体を、悪いものにせんでもええんちゃうかな
って思ったんよ。
けんちゃん:
でも、彦ちゃんが気になったのは、そこだけじゃないんでしょ?
彦ちゃん:
そうなんよ。
もう一段、奥があってな。
最近、自分のこれからについて考えることがあるやん。
このまま今の仕事を続けるのか。
いつか違う生き方をするのか。
でも、今より稼げる自信があるわけでもない。
だから心のどこかで、
「何か自分でできることはないかな」
「何か可能性はないかな」
って探してる自分もおるんよ。
けんちゃん:
それ自体は自然なことだと思うけど。
彦ちゃん:
うん。
ただな。
それが「可能性を探している」のか、
それとも、
「今の自分には何かが足りない」と思って探しているのか。
そこは全然違う気がしたんよ。
けんちゃん:
不足から動いているのか、可能性から動いているのか。
彦ちゃん:
そう。
同じ行動でも、
「足りない。欲しい。何とかしないと」
から動くのと、
「今も十分ありがたい。そのうえで、こんなこともできたら面白いな」
から動くのでは、
心の状態が全然違うやん。
僕らがよく話してる「周波数」って、こういうことなんかもしれへんな。
浄玄先生:
そこにお気づきになったことが、大切なんやと思いますえ。
彦ちゃん:
下心があることが、ですか?
浄玄先生:
いいえ。
下心があるかもしれない自分に、気づかれたことです。
人の心いうものは、そんなに真っ白でも真っ黒でもおへんのです。
誰かに喜んでもらいたい。
でも、自分も喜びたい。
誰かの役に立ちたい。
でも、自分も認められたい。
そんな気持ちは、一つの心の中に一緒にあってもよろしいんやないでしょうか。
彦ちゃん:
なくそうとせんでもいいんですね。
浄玄先生:
無理になくそうとすると、かえって自分の心を偽ることになります。
それより、
「ああ、私は今、何かを求めているんやな」
と、静かに眺めてみる。
気づかれた心は、それだけで少し澄みますえ。
けんちゃん:
それって、言葉にも出そうだね。
彦ちゃん:
そう。それも最近思ってたんよ。
同じ言葉でも、
どんな心で言うかによって、全然違うなって。
例えば誰かに、
「あなたのためを思って言ってる」
って言っても、
心の奥に
「俺の言うことを聞け」
があったら、たぶん相手には何となく伝わる。
けんちゃん:
言葉は優しくても、圧を感じることはあるね。
彦ちゃん:
逆もあると思う。
少し厳しいことを言っていても、
「この人を責めたいんじゃない」
「一緒に良くしたい」
っていう気持ちが本当にあれば、それも伝わることがある。
だから最近は、
何を言うかより先に、どんな心から言うのか。
そこが大事なんちゃうかなって思うんよ。
浄玄先生:
言葉いうのは、器のようなものかもしれませんなぁ。
彦ちゃん:
器?
浄玄先生:
同じ器でも、
怒りを入れれば、怒りを運びます。
思いやりを入れれば、思いやりを運びます。
せやから、言葉だけを美しく整えても、心が荒れていたら、その荒れはどこかから伝わります。
けんちゃん:
じゃあ、伝え方を考える前に、自分の心を見る。
浄玄先生:
そうどすなぁ。
とくに言いにくいことを伝えるときほど、
「私はなぜ、この言葉を伝えたいのか」
そこを自分に問いかけてみる。
相手を動かしたいのか。
自分の正しさを証明したいのか。
それとも、本当により良い関係を願っているのか。
その違いは、言葉以上に伝わるものです。
彦ちゃん:
なんか、人を見るときも同じ気がしてきた。
けんちゃん:
どういうこと?
彦ちゃん:
例えば、
「あの人は嫌な人や」
って決めてしまったら、その人の嫌なところばっかり見えるやん。
けんちゃん:
確証バイアスみたいなものだね。
彦ちゃん:
そうそう。
逆に、
「この人にも、自分には見えてない一面があるんやろな」
って思えたら、少し見え方が変わる。
人そのものが急に変わったわけやない。
自分の観方が変わったことで、自分の世界に現れるその人の姿が変わる。
そんなことはあると思うんよ。
けんちゃん:
それなら、「相手を変える」より先にできることがあるね。
彦ちゃん:
うん。
自分の観方を整える。
自分の心を整える。
そこからなんやと思う。
浄玄先生:
人は、相手の心を完全に澄ませることはできません。
けれど、
自分の心を観ることはできます。
下心があれば、
「ああ、今の私にはこんな気持ちもあるんやな」
と気づく。
怒りがあれば、
「私は今、怒っているんやな」
と気づく。
不足を感じていたら、
「何をそんなに欲しがっているんやろ」
と、自分に尋ねてみる。
それでよろしいんやと思います。
彦ちゃん:
澄み切った人になるんやなくて、
濁ったときに気づける人になる。
そんな感じですか?
浄玄先生:
ええ。
人の心は、ずっと澄んだままではおれません。
せやけど、
濁ったことに気づけば、また澄ませることはできますえ。
彦ちゃん:
なんか、それならできそうな気がする。
下心をなくそうとせんでもいい。
怒らない人になろうとせんでもいい。
誰に対しても善人でいようとせんでもいい。
ただ、
「いま、自分はどんな心から、この人と関わろうとしているんやろ」
そこを見失わない。
そして、もし不足や怒りから言葉を発しそうになったら、
ほんの少しだけ、自分の心を整えてから話す。
それだけでも、人との関わり方は変わる気がする。
世界を変えることは難しい。
人を変えることも難しい。
でも、
自分がどんな心で世界を見るかは、少しずつ選び直せる。
澄み切った心とは、
一度も濁らない心ではなく、
濁った自分に気づき、何度でも澄ませ直せる心なのかもしれない。
そんなことを思った一日やった。
あとがき
自分の中にある「下心」に気づくと、
少し嫌になることがあるかもしれません。
でも、それは悪いことではないと思います。
気づけたということは、
その心に無意識に動かされるのではなく、
「どうありたいか」を選べるようになったということだから。
完璧に澄んだ心で生きる必要なんてない。
濁ったら、気づく。
気づいたら、整える。
そして、また人と向き合う。
その繰り返しで、
人の心は少しずつ透明になっていくのかもしれません。
