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オタクでなくなった私は、何という生き物になるんだろう?

突然ですが、私は生粋のオタクです。
あまりにもオタクとしての思考や生き方が根強くて、オタクになる以前の自分が思い出せないくらいには、オタクです。

と、考えると、もしオタクでなくなったら、私は一体何になってしまうんだろう?と思いました。(唐突)一般人に戻るには、ちょっとオタクとして生きすぎている気もするし、そもそも私はオタクという生き物であるからして、そんなこと可能なのか?と。

まあそんなこんな、考えてみたら、いろんなことに気づいたので、書いてみようと思います。


私はオタクというネジの外れたモンスターである

私には俳優、声優の推しがいます。
そして私は、そんな推しという他人に何年も時間・お金・熱量を傾け、遠征し、情報を追い、手紙まで書いています。

冷静に考えるとだいぶおかしい。ただ事ではない執念みたいなものを感じる。

たぶん私は、頭のネジが何本か外れているやつなのでしょう。絶対に冷静ではない熱量を持っている、人間という形をした、モンスターみたいな。

全部のネジが外れているわけではないんです。推しは他人だし、推しとオタクというある種ドライな関係性であることも心得て、自他境界は必要だとかなり冷静に考えてもいる。ただ、オタクでない人が保っているどこかの何かのネジが、爆裂に外れてしまっている。

私はそんな、オタクという愉快なモンスターなのだと思います。

ネジが外れると、起こること

オタクというモンスターとして、ネジを吹っ飛ばしてわかったこと。それは、すごくわかりやすく、感情のリミッターが外れることかなと思います。

オタクになる前は、芸術を楽しんだとしても、ある種一過性のブームみたいなものになるだけだった気がしています。でも、今は「これが好き!」と何かしらで表したり、作品を受け取って泣いたり笑ったり、そうしたセンシティブな感情を手紙にして届けたりする。

その瞬間の盛り上がりだけじゃなくて、それを自分の中で咀嚼して、味わって、何かを生むところまで、持続してやるようになった。

オタクとしてあれこれやるようになってから、感情の動きそのものに加えて、そこから何かをすることへのリミッターも外れたように思います。

オタクという生き方が、しっくりきた

オタクになってから失ったもの。真っ当な金銭感覚。自分の体力の限界への理解。丁寧な暮らし。

推しに関係することに使うお金の単位が諭吉やら栄一やらになって久しいし、長期休み前、同級生が恋人や夫との予定を立てる中、私は推しとのオントーやら遠征やらのスケジュール調整に追われていたりする。そんな私は、ともすれば世間で「普通」とされる人生のレールから外れてしまっている、と言えるのかもしれません。

それでも、私にはこの生き方がしっくりきた。婚活してみたりジムに通ったり、キラキラOL(死語か?)みたいな生き方を試してみたこともあるけれど、「おもしれー!」と何かに心を動かして、ネジを飛ばして熱量を傾けている方が自分らしい、に落ち着いた。

失ったものは大きいかもしれないけど、しっくりくる生き方を得られたので、無問題みたいな。私はそう思っています。

オタクという生き方の終わりを考える

ある時期、色々あって推しが「俳優を辞めるかもしれない」と感じたことがありました。
その時にふっとわいたのが、「あ、私この人が板の上で演技するのまだ見ていたいのにな」という執着心でした。

そして、その後いろんな活動を見る中で、私は「板の上でなくても、この人の表現するものをずっと見ていたいな」と思うようになりました。
それは、ファンにしてくれるいろんなお話から彼のバックボーンを知り、それでも表現するということをやめないという生き方に、尊敬を覚えたからです。

私の推したちは、俳優や声優である前に人間です。日々変わっていくし、迷うし、いつまでもどこまでも、知らない部分がある。だから、生き方を追って、そこから受け取るものがあったりする。

そしてその一方で、生き方を追った先に、何が待っているかも、予想できない。
いつか、本当に、推しが芸能界を辞めるという決断をしたら。想像してみて、ちょっと血の気が引きました。リアルに。

私はまあまあ社畜をしており、一生付き合うかもしれない病気を持っており、日々それなりに大変な中で生きています。
そんなこんなを跳ね返して、「おもしれー!」と思うものを見つけて、楽しむ。私にとってオタクをすることは、しっくりきた生き方で毎日の辛いことをやり過ごすことでもあるのかもしれない。

そう考えると、推しがいなくなった時、私は自分のしっくりくる生き方を再度見つけて、日々を再構成しないといけないのかも、と思うのです。
普通にしんどそうだし、嫌だ。笑

たとえ推しがいなくなったとしても

まあそんなしんどい想像をしましたが、たとえ推しがいなくなったとしても、消えないものもあると思うのです。遠征したこと、人と出会ったこと、何千字も文章を書いたこと、全力で喜んだり悲しんだりしたこと、とか。

何より、私は推しを推すことで「ここまで何かに心を動かしていい」というリミッターを外した。
何事もそうだと思うのですが、一度リミッターを外す経験をすると、そこまではできる、と思えるようになったりしますよね。

だから、まあ、推しがいなくなったとしても、何かに心を揺さぶられたり、感動したりはし続けられるのだろうなと。

結論、オタクでなくなった私は、何という生き物になるんだろう

究極、何になるかはわかりません。
ネジをはめ直して、世間一般の「普通」というレールに乗って出発することもあるかもしれませんし、なんとなく、別の何かを見つけて、また「おもしれー!!!!」とネジを吹っ飛ばしている気もします。

推しがいなくなることも、オタクでなくなることも普通に怖いな、と思います。でも、本当の意味で怖いのは、「オタクという肩書きを失うこと」ではなく「おもしれーものをおもしれー!と全力で感じられる自分がいなくなること」なのかもしれない。

オタクというモンスターから、何という生き物に変わったとしても、おもしれーものを全力でおもしれー!と言えていたなら、「あ、私まだ大丈夫だわ」と思える気がするのです。なんか別の意味で大丈夫ではないのかもしれないけども。

まあ、長々書いてきましたが、私はまだまだオタクとしてネジを飛ばして生きていきたいし、オタクをやめる気もさらさらないな、ということに改めて気づいたように思います。
推したち、これからもよろしくな!(?)

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