見出し画像

「どうせ」の向こう側に、ある宝。


固定観念というを楽に登るために。


固定されたものは、
やがて古びて朽ちていく。

自由な想像は、
柔軟な創造を呼ぶ。

固定観念が「想定」という壁になり、
想像力が「想定外」という武器になる。


あなたは今、
どんな色眼鏡をかけて世界を見ているだろうか。

そもそも、レンズが
何色かも分からないかもしれない。

眼鏡をかけていること自体に、
気づいていないのかもしれない。

誰もが間違いなく、
何かしらのバイアスを持っている。

でも、それを持っていること自体は問題ではない。

問題は、
その眼鏡の存在に気づいているかどうか。

そこが、
いちばん重要なのだと思う。


脳は、省エネのために可能性を削る


人間の脳は、
構造上疲れることを嫌う。

過去の経験をパターン化し、
次の判断を素早く下せるように、
どんどん自動化していく。

昨日の続きが今日であるような生活。

それは、
脳にとっては非常に効率がいい。

もちろん、
これは正常な機能だ。

けれど、
何かを創り出そうとする瞬間、
この省エネ機能は、
静かに牙を剥く。

「これはこういうものだ」

という前提が強くなるほど、
そこから外れた可能性は、
視界から消えて盲点になる。


でも、
ここで一度立ち止まって考えてみてほしい。

そもそも、
その”前提”ですら、
誰かの想像力から生まれたものだ。

そして時代が変われば、
前提もまた、
静かに更新されていく。

固定観念は、
外から押しつけられるだけではない。

自分の内側で、
少しずつ天井を下げていくものでもある。


バイアスは消せない。だから飼い馴らす


では、
偏見やバイアスを、
完全になくせばいいのだろうか。

たぶん、
それは無理だ。

人間である以上、
完全に中立な視点など存在しない。

だから重要なのは、
ゼロにすることではなく、
理解することだ。

自分が、
どんな色の眼鏡をかけているのか。

どんな前提で、
世界を解釈しているのか。

それを知っているだけで、
思考の自由度は大きく変わる。

「なぜ自分は、それを当然だと思っているのか」

「それは、なぜか」

「本当にそうなのか」

この問いを、
繰り返す習慣を持つだけで、
思考は少しずつ柔らかくなる。

想像力は、
こうした静かなメタ認知の上でしか育たない。

(メタ認知とは、自分の思考や認識を、外側から眺める力のこと。)


「どうせ」という言葉が、宝の在り処を教えてくれる


ここから、
少し逆説的な話。

「どうせ」という言葉は、
かなり固定化された前提の言葉だ。

試しに、
声に出してみてほしい。

「どうせ、無理だ」

口にした瞬間、
胸のあたりが少し閉じる感覚はないだろうか。

呼吸が浅くなり、
視野が狭まるような、
あまり心地よくないあの感じ。

それは気のせいではない。

身体は、
思考よりも正直に、
「ここで止まれ」というサインを出している。

でも実は、
そのサインが出た場所にこそ、
豊かな空白が眠っている可能性が高い。

なぜなら、
誰もその先を考えなくなるから。

諦めた人たちが踏み込まなかった場所には、
手つかずの需要が残っている。

「どうせ続かない」

という声が多いなら、
継続を支える仕組みへの渇望がある。


「どうせ難しい」

と言われる分野には、
わかりやすく翻訳されることへの飢えがある。

冷笑は、
その人たちが動かないことを決めた宣言でもある。

だからこそ、
一歩先に踏み込んだ人間にだけ、
先に景色が見え始める。

他者の諦念は、
まだ天井が外されていない場所の目印なのだと思う。


創造する側に立ち続けるために


固定すること。

諦めること。

思考を止めること。

それらは、
とても近い場所にある。


そしてそれは、
身体の中にも同じように現れる。

胸が閉じ、
呼吸が浅くなり、
重心が後ろに引ける。

内側が先に、諦めの形をとる。

だからこそ、
大切なのは、
この姿勢なのだと思う。

自分のバイアスには敏感に。

他者の諦念(あきらめの気持ち)には鈍感に。

この少し非対称な在り方が、
固定観念という壁を越えるための、
地味だけれど確かな道になる。

そしてそれは、
創造の道であり、
価値ある勝ち筋にもなるのだと思う。




いいなと思ったら応援しよう!