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才能が見つからない理由


才能は、捨てるものではなく変換するもの

──外側ではなく“体つき”に宿る本質

変わることは、

これまでを捨てることではありません。

自分の中にあるものを、

時代や環境に合わせて、

別の形へ“変換”していくこと。

最近、

定年を迎えられたお客様と話していて、

そんなことを考えました。



話をしていると、

その方にとっては、

ごく普通のことが出てきます。

長年、

仕事の中で繰り返してきたこと。

人との接し方。

判断の仕方。

問題が起きたときの対処。

何気なく使っている言葉。

自然にできてしまうこと。

本人にとっては、

あまりにも普通なので、

「そんなの、大したことじゃないですよ。」

となる。

でも、

こちらから見ると、

全然普通ではない。

むしろ、

長い時間をかけて身についた、

その人にしかないものだったりします。



自分にとって、

“当たり前”になったことほど、

自分では見えなくなる。

これは、

身体でも同じです。

長年身についた立ち方。

歩き方。

手の使い方。

呼吸。

姿勢。

毎日使っている本人には、

その特徴が、

なかなかわかりません。

あまりにも、

自分だからです。

才能も、

それに似ているのかもしれません。



人から、

「すごいですね。」

と言われても、

「そんなの普通ですよ。」

と思ってしまう。

でも、

その“普通”こそが、

他の誰かにとっては、

非凡かもしれない。

いや、

長い時間をかけて、

自然にできるようになったものなら、

そこには、

本人が思っている以上の価値があります。

元々できたことなら、

なおさらです。

努力した記憶さえないから、

自分では才能だと気づきにくい。



だから、

人生の転換期には、

一度、

「才能の棚卸し」

をしてみるといいと思っています。

ただし、

資格や肩書きを並べることではありません。

「何ができるのか。」

だけを見るのでもない。

何が、自分の中に息づいているのか。

それを見る。

仕事がなくなっても、

肩書きがなくなっても、

場所が変わっても、

自分の中に、

まだ残っているものは何なのか。

そこに、

次の可能性が隠れていることがあります。



富士フイルムが変えたもの

この話をすると、

僕は富士フイルムを思い出します。

写真フィルムの需要が、

デジタル化によって大きく縮小していく中で、

富士フイルムは、

それまで培ってきた技術を、

写真フィルムだけのものとして、

終わらせませんでした。

フィルムをつくる過程で培われてきた、

コラーゲンに関する知見。

酸化を抑える技術。

微細な粒子を扱う技術。

乳化や分散。

精密な化学技術。

それらを、

「写真フィルムをつくるための技術」

という枠から外して見る。

すると、

化粧品やヘルスケアなど、

まったく違う場所に、

別の使い道が見えてくる。

写真と化粧品。

外側だけを見れば、

まったく違うものです。

でも、

その内側には、

長年培ってきた技術が残っている。

捨てたのではなく、

持っていたものの意味を、変換した。

僕には、

そんなふうに見えます。



僕にも、同じことがありました

長年、

整体で人の身体に触れてきました。

皮膚の温度。

筋肉の緊張。

筋膜のつながり。

呼吸のリズム。

触れたときの、

ほんのわずかな抵抗。

力が抜ける瞬間。

本人がまだ気づいていない、

身体の小さな変化。

そういうものを、

掌で感じながら、

身体を見てきました。

だから以前なら、

これは、

「触れなければできない仕事」

だと思っていたかもしれません。



でも、

オンラインで身体を見るようになって、

少しずつわかってきたことがあります。

触れなくても、

見えるものがある。

呼吸。

動き。

間。

声。

身体の反応。

そして、

相手自身に、

自分の身体を感じてもらうこともできる。

もちろん、

対面の施術と、

オンラインは同じではありません。

同じにする必要もない。

大切なのは、

何をしているかではなく、
その仕事の中で、
自分は何を見ていたのか。

そこでした。



僕が培ってきたものは、

「手で身体を整える技術」

だけではなかった。

身体の小さな変化を観ること。

その人の中で、

何が起きているのかを感じ取ること。

そして、

本人がまだ気づいていないものを、

身体を通して、

一緒に見つけていくこと。

そこまで掘ってみると、

場所や方法が変わっても、

使えるものが残っていました。

形は変わった。

でも、

本質は、

ほとんど変わっていなかった。



人は、

“変わる”ということを、

これまでの自分を捨てることだと、

考えてしまうことがあります。

新しい仕事。

新しい場所。

新しい生き方。

だから、

またゼロから、

何かを身につけようとする。

でも、

本当にゼロなのでしょうか。



何十年も生きてきた身体には、

すでに、

たくさんのものが残っています。

知識だけではありません。

判断。

感覚。

癖。

経験。

人との距離感。

失敗から身についた工夫。

それらは、

履歴書には、

なかなか書けません。

でも、

確実に、

その人の“体つき”になっている。

僕は、

才能とは、

そういうところにも宿ると思っています。



才能の棚卸しとは、

過去を手放すことではありません。

今までの自分を、
今の時代から、
もう一度見直してみること。

昔は、

一つの使い道しかなかったものが、

環境が変わったことで、

別の場所で使えるかもしれない。

弱点だと思っていたものが、

別の文脈では、

強みになるかもしれない。

当たり前すぎて、

価値がないと思っていたものが、

誰かにとっては、

ずっと探していたものかもしれない。



だから、

人生の節目に、

何かを始めようとするとき。

すぐに、

新しいものを探さなくてもいい。

まず、

自分の中に、

すでにあるものを見てみる。

そして、

信頼できる誰かと、

評価や結論を急がず、

ただ話してみる。

話しているうちに、

自分では見えていなかった、

自分の“普通”が、

浮かび上がってくることがあります。

ジャーナリングするのも、

いいかもしれません。



捨てるのではなく、

光の当て方を変えてみる。

形を守るのでもなく、

本質を捨てるのでもない。

残すものと、
変えるものを、
見極める。

変化とは、

別人になることではなく、

自分の中に、

ずっとあったものが、

新しい形で、

もう一度、

動きはじめることなのかもしれません。




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