【ホラー小説】戻れない廊下
午前三時十七分、目を開けた。
枕元のスマートフォンは、伏せたまま黒い画面を向けていた。部屋の中には、冷蔵庫の低い唸りと、窓枠の隙間から入る風の音しかなかったはずなのに、廊下のほうで、何かが擦れる音がした。
かす、と。
乾いた布を床に置いたような音だった。
私は息を止めた。止めたつもりでも、喉の奥が勝手に狭くなり、胸の内側だけが小さく跳ねた。布団の中で指を動かすと、汗ばんだシーツが皮膚に貼りついた。
もう一度、音がした。
かす、かす。
玄関の外ではない。部屋のドアの向こう、アパートの共用廊下から聞こえてくる。そう思った。けれど、ドアの下の隙間には、廊下の蛍光灯が落とすはずの細い光が見えなかった。
私は枕元のスマートフォンに手を伸ばした。画面を点けると、白い光が指の節を照らした。時刻は三時十七分のままだった。秒の表示だけが、動いていなかった。
口の中が急に乾いた。舌で上顎を探っても、唾液が残っていない。
廊下から、薄い匂いが流れてきた。濡れた段ボールのような、古い水道管の内側のような匂いだった。冷たい空気が、ドアの下からではなく、部屋の奥へ向かって這ってくる。
私は起き上がり、足を床につけた。
床板は、いつもなら体重を受けて一度だけ鳴る。けれど今夜は、足の裏が触れた場所から、廊下の奥へ向かって、順番に軋みが伝わっていった。
ぎ、……ぎ、……ぎ。
私の足は、まだ一歩目の位置にあった。
ドアの向こうで、何かが立ち止まったように音が消えた。
私は取っ手を見た。銀色の丸い金具に、部屋の暗がりが歪んで映っている。その表面に、私の顔が映っていた。目を見開き、口を少し開けた顔。
その背後の廊下に、私の知らない奥行きがあった。
壁紙の継ぎ目が、見覚えのある玄関へ続かず、まっすぐ暗闇の中へ伸びている。私は目をそらした。次に見たときには、いつものドアだけがそこにあった。
取っ手が、ゆっくり下がった。
金属が擦れる音のあと、廊下から私の声が聞こえた。
「……まだ、そこにいる?」これどう?


いいなと思ったら応援しよう!
はぁ、はぁ……っ! お願い、です……!
『怪獣の腹の中で』を……どうしても、私の手で「紙の本」にしたいんです……っ!
あなたの、そのサポートが……本の、一ページに、なります……っ。
はぁ……応援、してくれませんか……っ?