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惚れ薬

おとぎ話の「惚れ薬」を科学で解き明かす、なんて、少し野暮なことを考えてみる。
けれどもし、あの甘いシロップが本当に存在するなら、それはきっと魔法なんかじゃない。
私たちの頭のなかで、静かに、けれど完璧に行われる「ハッキング」のようなものだ。

「正しさ」や「意味」で固められた私たちの日常が、ある日突然、誰かの手によってめちゃくちゃに書き換えられてしまう。
あの恋という名の、不条理で、あまりにも愛おしいバグ。
あれはどんな風に、私たちの心を乗っ取っていくのだろう。

誰かに一目惚れをするとき、胸の奥がぎゅっと痛くなる。
あの瞬間、頭のなかでは激しい雨のように、せっかちなアドレナリンが降り注いでいるらしい。
それは、たった一つの存在に視線を釘付けにする代わりに、冷たい理性のスイッチをきれいに切ってしまう雨。
もしも私を狙う惚れ薬があるなら、あなたと目が合った瞬間に、その雨を強制的に降らせればいい。
埋まらない心の隙間を強烈なときめきで埋め尽くされ、私はあなたのことを「運命の人」だと信じ込んでしまう。
損得も、未来のことも、すべてがどうでもよくなる。
それが、静かな乗っ取りの始まり。

けれど、一瞬の嵐だけでは、人は隣にい続けられない。
もっと深く、静かに縛りつけるために、今度は「安心」という名の罠が仕掛けられる。
他者への恐怖や警戒心を消し去り、無防備な親密さを育む、心の鍵。
特定の誰かの前でだけ、その鍵が勝手に開くようにされてしまう。
すると、その人の存在は、息をするのと同じくらい、自分の生存に不可欠なものへと変わっていく。
そこからはもう、姿が見えなくなるだけで、身体がじわじわと痛むような寂しさに襲われるようになる。

「その人なしではいられない」という切ない状態は、実のところ、ひどい依存症の回路とよく似ている。
あなたの笑い声や、ふとした瞬間の匂いが、私のなかで「生きるための快楽」とがっちり結びつけられたとき、私の自由意志は静かに消滅する。
あなたの声や体臭にだけ、心が過剰に跳ね上がるようになってしまえば、私はただ、あなたという光を追い続けるだけの、壊れた永久機関になってしまう。
自分が愛しているのか、それとも動かされているのか、もうそれすらも分からない。

薬なんて使わなくても、私たちは簡単に騙される。
たとえば、高い吊り橋を渡るときの、あの足の震え。
あるいは、息が詰まるような情報の波に溺れそうになるときの、あの心細さ。
そんな切迫した状況が作り出す心臓のバクバクを、私たちは「恋のときめき」だと簡単に勘違いしてしまう。
身体が先に震え、心がそれを「愛」だと後から必死に翻訳する。
仕組まれた鼓動の波に、私たちはどうしても抗うことができない。

理由なんて、本当はどこにもないのだと思う。
ただ、すれ違いざまに体温が混ざるような、あの生々しい匂い。
耳の奥に滑り込んでくる、低くて、少し掠れた声の重み。
商売道具のような教科書の言葉、遺伝子の相性だとかホルモンだとかいう言葉で片付けられるほど、それは綺麗なものじゃない。

ただ、理詰めで作られた「正しい世界」の土台が、指先ほどの小さな気配だけで、音も立てずに崩れていく。
じっと見つめ合ったときに、相手の黒目がほんのわずかに広がる、あの静かなゆらぎ。
そういう、言葉にならない異性の気配を前にしたとき、私の身体は、私の意志よりもずっと早く、降伏の準備を始めている。
その不条理さを、私の心はどこかで、ひどく待ち望んでいるような気さえする。

意味のないものに、ぜんぶ奪われてしまいたいのだ。
あの遮断機が下りる一瞬のように、「正しく生きるルール」を、あの人の匂いや声で、めちゃくちゃに書き換えられてしまいたい。

正しいこと、意味のあること、得をすること。
そんな「ルールの世界」で器用に生きているつもりでも、頭のなかのプロトコルがほんの少し書き換わるだけで、私たちはあっけなく、恋という名の迷宮に迷い込んでしまう。

私たちが「自分の意志で、あの人を愛している」と信じているあの感情も、本当は、誰かが仕組んだハッキングのあとに訪れる、不自然なほどの静けさに過ぎないのかもしれない。



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