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「あなたの人生に、僕の思い出を入れませんか」第1章:好きです

第1章:好きです

その春、クラス替えで、彼女は隣の席になった。

窓際の、一番後ろの席。 午後になると、西日がそのまま差し込んで、 机の端だけが白く光る場所だった。

色あせたカーテンが、風にゆっくり揺れる。 外では、部活の掛け声が、少し遅れて聞こえてくる。

その隣に、彼女は座っていた。

最初の印象は、わりと普通だった。

大きな声で笑うわけでもなく、目立つわけでもない。 けれど、ふとしたときに、左の頬にだけえくぼができる。

それに気づいたのは、 何日か経ってからだった。

ただ、教室の空気を少しだけ薄くするような、静かな人だった。

教科書の隅に、小さな落書きがある。

丸い線で描かれた、名前のない顔。 少しだけ歪んでいて、でも、どこか笑っているようにも見える。

それが、わざと前から見える位置に置かれている。

風でページがめくれるたびに、 その絵が、ほんの一瞬だけ現れて、また隠れる。

その繰り返しを、なぜか覚えていた。

話すようになったのは、数学の授業だった。

黒板には白い式が並んでいて、 先生の声が一定の速さで続いている。

途中でわからなくなって、 僕は鉛筆で机を軽く叩いた。

その音に気づいたのか、 彼女がノートを少しだけこちらに寄せる。

「ここ?」

小さな声だった。

ノートには、細い字で途中式が並んでいる。 何度か書き直した跡が、薄く残っていた。

僕はうなずいて、その続きを目で追った。

そのとき、彼女の指先が、ページの端を軽く押さえていた。

それだけのことだった。

でも、それから、 授業の合間の数分が、少し長く感じるようになった。

ある日、雨が降っていた。

放課後、昇降口の前で、 みんなが傘を開いていく。

彼女は、少しだけ立ち止まっていた。

「忘れた?」

僕が聞くと、 彼女は小さくうなずいた。

少しだけ迷ってから、 僕は傘を差し出した。

「途中までなら」

彼女は少し考えてから、 「じゃあ、そこまで」と言った。

肩が触れないくらいの距離で、 同じ傘の中に入る。

雨の音が、近くなる。

会話はほとんどなかった。

水たまりを避けるときだけ、 少しだけ歩幅がずれる。

それだけだった。

夏になるころには、 その時間は当たり前になっていた。

放課後の図書室。 窓際の席に座ると、 西日が机の半分だけを照らす。

ページをめくる音。 遠くで本が閉じられる音。 誰かの小さな咳払い。

彼女はあまり話をしなかった。

でも、何か言うときだけ、 少しだけ顔を上げて、はっきりした声を出した。

そのとき、左の頬にえくぼができた。

僕は、その瞬間だけを覚えている。

「この辺、好きだ。」

夏休み前、 商店街の氷屋の前で、彼女が言った。

ガラスケースの中で、氷が少しだけ溶けている。 水滴が、ぽたりと落ちて、小さな音を立てる。

赤や青のシロップの瓶が並び、 光に当たるたびに、色がゆっくり揺れる。

氷を削る音が、奥から聞こえてくる。

店先に置かれた木のベンチに、二人で座った。

かき氷のカップが、手の中で少しずつ冷たくなっていく。

スプーンで表面をすくうと、 シロップが混ざって、淡い色になる。

人の流れが、途切れずに続いていた。

買い物帰りの人、 立ち止まる人、 通り過ぎていく人。

彼女は、その流れを見ていた。

ストローを軽く噛みながら、 少しだけ目を細めている。

「人が行き交うのを見るのが好き。」

「なんで?」と聞くと、

彼女は少し考えてから、

「みんな、なにかを背負ってる気がするから。」

そう言った。

遠くを見るような視線だった。

そのあと、少し笑った。

左の頬に、えくぼができた。

その笑顔を、僕はすぐに好きになった。

忘れたくない、と思った。

好きだ、と思った。

その言葉を、胸の中で何度も繰り返した。

けれど、口には出さなかった。

言葉にした瞬間、 それが形になってしまう気がした。

まだ曖昧なままのものを、 そのまま外に出してしまうのが、少し怖かった。

だから、言葉じゃない方法で、 少しでも近づこうとしていた。

けれど、そのやり方を、僕は知らなかった。

告白したのは、冬の始まりだった。

放課後の教室。 窓の外で、風がカーテンを揺らしている。

床に落ちたチョークの粉が、 夕方の光に浮かんで見えた。

彼女は、ひとりで机を整えていた。 机を引く音が、静かに響く。

「帰っていいよ」

そう言われて、 そのまま帰ることができなかった。

数歩、近づく。

距離が、少しだけ変わる。

「ちょっと、いい?」

彼女が振り向く。

その表情は、いつもと変わらなかった。

一瞬、言葉が出てこない。

呼吸だけが、少し速くなる。

「僕……」

声が、少し遠かった。

「好きです。」

その一言で、 教室の空気が止まった気がした。

彼女は少し驚いて、 それから、わずかに笑った。

「えっと……」

視線が、ほんの少しだけ下がる。

「ごめんね。」

短い言葉だった。

何かが、静かにしぼんでいく。

「でも、ありがとう。」

彼女はそう言った。

「大事な言葉、ありがとう。」

そのときも、 左の頬に、うっすらえくぼができていた。

僕は、なにも言えなかった。

帰り道、空は暗くなりかけていた。

風が冷たくて、 指先の感覚が少し鈍かった。

それから、少しずつ距離ができた。

席が変わり、 話すことが減り、 同じ時間は、自然となくなっていった。

ある日、帰り道で彼女とすれ違った。

友達と並んで歩いていた。

僕に気づくと、少し笑った。

左の頬に、えくぼができた。

氷屋の前で見たのと、同じ笑顔だった。

数ヶ月後、 彼女は転校した。

理由は、知らない。

教室の空気は変わらないまま、 ただ一人分だけ、静かに抜けた。

思い出すとき、浮かぶのは、いつも同じ場面だった。

氷屋の前。 少しだけ溶けた氷。 光に揺れる瓶。 人の流れ。 そして、横顔。

そこに、左の頬のえくぼだけが、 はっきり残っている。

「好きです」と言ったあの日のことを、 ときどき思い出す。

もう少し違う言い方があったのかもしれない。

けれど、その形は、最後まで見つからなかった。

ただ、 まっすぐに言うことしか、できなかった。

その冬の終わりに、 僕の最初の恋は、静かに終わった。


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