【60代短編】今日の海
【60代短編】今日の海
竹内敏子、六十六歳。
夫と約束していた。定年したら船に乗ろう。世界を一周する船だ。
三十年そう言うてきた。
パンフレットを取っておいた。夫が定年した。旅の前に倒れた。半年で逝った。船には乗れなかった。
パンフレットはまだ簞笥にある。二人分の申込書も挟んである。
夫の椅子がベランダにある。海を見る椅子だった。
ノートを開いた。書いた。「世界を一周する船に乗る」。
そこから逆に数えた。一年後は。半年後は。今月は。今日は。
今日やることを一つ書いた。「申込書を出す」。
娘が本を置いていった。アドラー心理学の本だ。線を引いた言葉があった。
「人生はいま、ここの連続だ。いつかは来ない」。
「いま、ここ」という言葉だった。
申込書を出した。二人分ではない。一人分だ。
娘が言うた。「その歳で一人で船なんて」。
申込みを取り消そうとした。電話に手をかけた。夫がいないのに行っていいのか。
電話を置いた。
船に乗った。デッキに椅子が二つ並んでいた。一つは空いていた。
食事は一人だった。まわりは夫婦ばかりだった。部屋に戻った。
夕日を夫と見るはずだった。一人で見た。
港に着いても船から降りなかった。
ノートを開き直した。線を引いた言葉を読んだ。いつかは来ない。いまだけがある。
夫と見るはずだった夕日ではない。今日の夕日だ。
次の港で船を降りた。石畳を歩いた。知らない市場で果物を買った。
夜の甲板でダンスがあった。若い男が手を差し出した。
見覚えがあった。二十年前に公民館でダンスを教えた子だ。月謝は取らなかった。
その子が船のダンスの先生になっていた。
夫とはダンスホールで出会った。二人でよく踊った。夫が逝ってから踊るのをやめた。
若い男の手を取った。甲板で踊った。海が光っていた。今日の海だ。
夫の写真を持ってきていた。デッキの椅子に立てかけた。
二人分の切符のうち一枚は使った。もう一枚は海に流した。
船は世界を一周した。港をいくつも見た。ノートの一行に着いた。
家に帰った。ノートに次の一行を書いた。「次は汽車で日本を回る」。
いつかではない。今日から数える。
ベランダの椅子に座る。夫の椅子だ。海を見る。今日の海だ。

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