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「創作大賞2026恋愛小説部門」【愛を知ると】春の夜の迷子が、双子の命とひとりの男に出会って見つけた、朝になっても消えない温もりの物語-TALESで公開中

「夜の迷子が、愛を知るまでの物語」

春の夜は柔らかく、少し冷たく、どこか許されるような気がした。

27歳のフリーランスWebデザイナー・私は、
夜になると、バーに出かけ、
背が高く、ガタイのいい男とだけ、一夜を過ごしていた。

朝が来れば、静かに部屋を出る。
名前を覚えていることもあるし、
覚えていないこともある。
それでよかった。
夜の温もりは、朝になれば消える。
それが私の日常だった。

でも、ある日、妊娠がわかった。
双子だった。
父親が誰なのか、わからなかった。

私は大阪のマンションを引き払い、
実家に戻った。
母は「困った子ね」と笑った。
怒ることもなく、責めることもなく、
ただそこにいてくれた。

そして私は、
過去に出会った男たちの中から、
父親を探すことにした。

もう一度会った彼らの中に、
ひとりだけ、
私のことを本気で想い続けていた人がいた。

IWハーパーをロックで飲む、
建築現場監督の彼。

「俺の子じゃないかもしれない。
でも、お前の子だ。
それだけで十分だ」

彼はそう言って、
私に指輪をくれた。

愛を知ると、世界が変わる。
そんな大げさなことではない。

ただ、朝が来ても消えない温もりがある。
それだけのことだった。

でも、それだけのことが、
私にはずっとわからなかった。

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【作品について】

この物語は、
春の夜に迷い続けた女性が、
双子の妊娠をきっかけに、
本当の愛を知っていくまでを描いた、
静かで深いラブストーリーです。

バーの灯り、
母の「困った子ね」という言葉、
IWハーパーの琥珀色、
赤ん坊の小さな指。

日常の中にある小さな温もりを丁寧に描きながら、
「愛されるとはどういうことか」を、
ゆっくりと問いかけていきます。

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【登場人物】

・主人公(名前なし)
27歳、フリーランスWebデザイナー。
大阪で一人暮らしをしていたが、
妊娠を機に実家に戻る。
夜の迷子だった彼女が、
少しずつ「帰る場所」を見つけていく。

・母
「困った子ね」が口癖の、
穏やかで受容的な女性。
父の浮気も、娘の妊娠も、
すべてを静かに受け入れる強さを持つ。

・彼(名前なし)
建築現場監督。
IWハーパーをロックで飲む。
主人公に本気で恋をしていた唯一の男性。
「俺の子じゃなくても、お前の子なら育てたい」
と言う誠実さを持つ。

・マスター
還暦を迎えた、元商社マンのバー経営者。
余計なことは聞かず、
でも必要なときは手を貸してくれる。

・姉
オーストラリア在住。
妊活中。
遠く離れていても、
血のつながりは静かに続いている。

・父(故人)
地主の長男。
マンション経営をしていた。
言葉の少ない人だったが、
家族を静かに見守っていた。

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【こんな方におすすめ】

・静かで深いラブストーリーが好きな人
・「愛とは何か」を考えたい人
・母と娘の関係を描いた物語が好きな人
・バーや夜の街の空気感が好きな人
・妊娠・出産を通じた成長物語に興味がある人

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【全23章・21,000字超の長編小説】

春の夜の迷子
静かな春の約束
母の笑い声
春の引っ越し
投資という名の静かな時間
画面越しの仕事
姉からの電話
双子と母の笑い声
母の台所
散歩道
父親探しの春
バーの灯り
静かな待ち時間
秘密のままの約束
期待と沈黙
もう一人の影
静かに溶ける氷
静かに染み込むもの
夏の入り口
最初の蹴り
丸くなる心
二人の部屋
名前のない気持ち
指輪の重さ
夏の終わり
愛を知ると

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この物語を、
布団の中で、
電車の中で、
台所で、
ふと開いて読んでもらえたら嬉しいです。

朝になっても消えない温もりを、
あなたにも感じてもらえますように。



「春の夜の迷子」

春の夜は柔らかく、少し冷たく、どこか許されるような気がする。

酔いが回るたびに、私は男の人の腕に引かれて、どこかへ流れていく。街灯の滲む路地を歩いて、タクシーの後部座席で肩に頭を預けて、エレベーターの中で唇を重ねて。気づけば知らない天井、知らない毛布、知らない寝息。

私は二十七歳で、フリーランスのウェブデザイナーで、大阪の古いマンションの四階に一人で暮らしている。昼間はパソコンに向かい、クライアントのホームページを作り、夜になるとバーに出かけた。特に寂しいわけではない。ただ、夜になると、部屋の空気が少しだけ重くなるのだ。天井のシーリングライトが白すぎて、部屋の隅に影ができる。その影が、なんとなく自分の輪郭に似ている気がして、落ち着かなくなる。

バーのカウンターで一人で飲んでいると、声をかけてくる男がいる。私はそういうとき、彼の身長を見て、肩幅を見て、顔を見て、それからゆっくりと微笑む。

条件はひとつだけ。背が高くて、体格のいい男。

それが私のくだらないルールだった。理由は自分でもよくわからない。強いて言えば、大きな体に包まれると、自分が小さくなれる気がしたからかもしれない。小さくなると、考えなくていいことが増える。

朝が来ると、私は静かに服を拾い集め、足音を殺して部屋を出る。昨日の彼の名前を覚えていることもあるし、覚えていないこともある。でも、それが何になるというのだろう? 夜の温もりは朝になると嘘のように冷めて、私はまた一人に戻るだけだ。帰り道のコンビニでペットボトルの水を買い、マンションの階段を四階まで上がり、自分の部屋の鍵を開ける。昨日と同じ部屋。昨日と同じ空気。何も変わっていない。

それでも、あの瞬間は確かにそこにあった。甘い言葉、指先の優しさ、孤独を忘れさせる体温。それが全部偽物だったとしても、私はその偽物にすがることを選んできた。

自分が壊れているとは思わない。ただ、夜だけは、自分のかたちが少し曖昧になる。輪郭が溶けて、誰かの一部になれる気がする。それが心地よかった。

けれど今、私は新しい命を抱えている。

誰の子かはわからない。でも、それはきっと関係のないことなのだ。春の夜の記憶が交差する中で、たったひとつ確かなことは、私の中に小さな鼓動が生まれたということ。それだけが、いまの私の真実だった。

「静かな春の約束」

薬局で買った検査薬の、二本の線を見つめていた。

春の風がカーテンを揺らす。窓の外では、桜が咲き始めている。私はベッドに座り、しばらくその小さなプラスチックの棒を手のひらの上で転がした。

不思議と、動揺はなかった。

体の変化には気づいていた。朝の吐き気、食べ物の匂いへの敏感さ、いつもより長く眠ってしまう午後。パソコンに向かっていても、ふと手が止まって、自分の体に耳を澄ましてしまう瞬間があった。でも、認めたくなかっただけかもしれない。

二本の線は、静かに、でも確実に、私の人生を分けた。

翌日、産婦人科に行った。待合室には、お腹の大きな女性が何人か座っていた。隣に夫がいる人、一人で雑誌をめくっている人。私はその中に混じって、自分の名前が呼ばれるのを待った。

医者は淡々と事実を伝えた。妊娠七週目。

「おめでとうございます」

その言葉が、不思議と胸に響いた。おめでとう。誰に言われるとも思っていなかった言葉だった。

父親が誰なのか、それはもうどうでもいいことだった。夜の優しさはいつも一時的で、朝が来れば霧のように消えてしまう。けれど、この子だけは違う。確かに私の中にいて、誰のものでもない、私だけの存在だった。

私は今までずっと、誰かに愛されたくて、誰かの温もりを求めて生きてきた。でも、それはまるで砂を握るようなもので、どれだけ手を握りしめても指の間からこぼれ落ちていく。どれだけ男の腕に抱かれても、朝にはまた一人になっていた。

でも、この子は違う。私がどこへ行こうと、何をしようと、この子は私の中で静かに育っていく。誰のものでもなく、誰にも奪われることのない、たった一つの確かなもの。それだけでいい。それだけで、私はもう十分だった。

窓の外の桜が、風に揺られて静かに舞った。私はその花びらを眺めながら、そっとお腹に手を当てた。

「一緒に生きよう」

そう呟くと、お腹の奥で小さな鼓動が響いた気がした。

「母の笑い声」

春の午後、私は母に電話をかけた。陽の光が窓辺に落ちて、部屋の隅を静かに照らしている。

受話器を握る指が少しだけ汗ばんでいた。母に何かを報告するとき、いつも少しだけ緊張する。怒られるかもしれないという不安ではなく、母の反応が読めないという緊張だった。

「お母さん、私、妊娠した」

電話の向こうで一瞬の沈黙があった。でも、それはほんの一瞬だけだった。

「困った子ね」

母はそう言って笑った。まるで天気の話でもするような、軽やかで、どこか温かい笑い声だった。

私はスマートフォンを握りしめながら、窓の外を眺める。桜の花が風に揺れている。

「怒らないの?」

「怒ったって、もういるんでしょう?」

母はいつもこうだった。私がどんな失敗をしても、どんな道を選んでも、怒ることはなかった。まるで川の流れを見つめるように、ただ受け入れる。何があっても、時間は進むし、人生は続く。だから、彼女は私を責めない。ただ、「困った子ね」と笑うだけだった。

母は昔からそうだった。父が生きていた頃、父の浮気を知ったときも、母は怒らなかった。姉がそのことで父を問い詰めたとき、母は台所で黙って夕飯を作っていた。私が高校のとき、学校から呼び出しを受けたときも、母は先生の話を黙って聞いて、帰り道に「お腹空いた?」と聞いただけだった。

許しているのとは違う。ただ、この人には、起きてしまったことに対して怒るという回路がないのだと思う。それは強さなのか、それとも諦めなのか、私にはわからない。でも今、自分が母になろうとしている今、その強さが少しだけ理解できる気がした。

「どうするの?」

「産むよ」

「そう。それなら、頑張るしかないわね」

それだけの会話だった。でも、それで十分だった。

電話を切ったあと、私はコーヒーを淹れた。カップから立ちのぼる湯気を眺めながら、母の笑い声を思い出す。

私はきっと、この子にも同じように笑ってあげられるだろうか。

「困った子ね」

そう言って、いつかこの子を笑って抱きしめられるだろうか。

カップの縁にそっと唇をつけながら、私は小さく息を吐いた。

「春の引っ越し」

桜の花びらが風に乗ってベランダに舞い込んでくる。私はパソコンの画面を眺めながら、コーヒーを一口飲んだ。冷めかけたコーヒーの味は少し苦い。

引っ越しを決めたのは、突然のことだった。母に電話をした次の日、私はふと気づいた。ひとりでいることに、もう意味がないのかもしれない、と。

フリーランスの仕事は相変わらず続いている。ホームページの制作と管理。クライアントのメールに返信し、コードを書き、画像を調整する。仕事は手のひらの中にあり、インターネットの波に乗ってどこへでも流れていく。この仕事の良いところは、場所を選ばないことだった。カフェでも、電車の中でも、母の家の二階でも、やることは変わらない。

「育てていける?」

母にそう聞かれたとき、私はすぐに答えた。

「うん、大丈夫」

「そう。それなら一緒に暮らせば?」

母は当たり前のことのように言った。私は少し考えた。母のいる家には、古いソファがあって、使い込まれたダイニングテーブルがあって、冬になるとストーブの上にやかんが乗る。台所の窓からは小さな庭が見えて、母が植えた紫陽花が梅雨になると青く膨らむ。私の部屋にはないものばかりだ。

「そうだね」

私はそう答えた。

静かな春の午後、私は荷造りを始める。使い古したマグカップ、本棚に並ぶペーパーバック、ノートパソコン。ひとつずつ箱に詰めながら、私はお腹にそっと手を当てる。

部屋を見渡す。四年間暮らした部屋だった。この部屋から何度、知らない男の部屋に出かけて行っただろう。この部屋に何度、一人で戻ってきただろう。壁にかけた小さな絵と、キッチンの隅の調味料と、ベランダで枯れかけた鉢植え。それが私の四年間のすべてだった。

荷物は思ったより少なかった。段ボール箱にして、七つ。二十七年分の人生が、七つの箱に収まる。そのことが少しだけ滑稽で、少しだけ清々しかった。

「新しい生活が始まるね」

誰にともなく呟いた。

窓の外では、風が吹いている。桜の花びらが、静かに舞っていた。

「投資という名の静かな時間」

母の家に越してきて最初の朝、私は庭に面した縁側に座って、朝の空気を吸い込んだ。土の匂いと、かすかな花の香り。マンションの四階では感じることのなかった匂いだった。

父が亡くなったのは、私が高校生のときだった。地主の長男として生まれ、土地を持ち、マンションを経営し、駐車場を貸し出していた父。彼は多くを語らない人だったけれど、土地の管理はまるで季節の移り変わりのように自然なことだった。

父のことで覚えているのは、背中ばかりだ。庭に立って空を見上げている背中。車を洗っている背中。新聞を広げている背中。彼は私に「勉強しろ」とも「早く寝ろ」とも言わなかった。ただそこにいて、時々、食卓でぽつりと「味噌汁うまいな」と呟くだけだった。私はその背中を見て育った。父がいなくなったあとも、その背中だけは鮮明に覚えている。

彼が亡くなったあと、母はすべての土地を相続した。姉と私は現金を受け取った。

「好きに使えばいいわよ」

母はそう言った。でも私はそのお金には手をつけなかった。何か大きなものを買うわけでもなく、旅行に行くわけでもなく、ただ淡々と投資に回した。まるで、何かを待っているように。

春の風がレースのカーテンを揺らす。私はパソコンの画面を開き、証券会社のサイトを眺めた。株価のチャートがゆっくりと波を描いている。

姉はオーストラリアに渡り、結婚し、今は向こうで暮らしている。きっと同じ時期に子どもを産むことになるだろう。でも、私たちはお互いの生活について、あまり深く話さない。年に一度か二度、短いメッセージをやり取りするくらいだ。遠く離れていても、血のつながりは静かに続いている。それでいい、と私たちは思っている。

私は画面を閉じ、ソファに身を沈めた。お腹にそっと手を当てる。

「この子のために使うべき時が来たら、使おう」

誰に言うでもなく、そう呟く。

窓の外では、新緑が陽に照らされて光っていた。

「画面越しの仕事」

つわりがひどい日は、パソコンの画面がぐらぐらと揺れて見えた。

午前中、クライアントとのオンライン会議がある。カメラをオンにして、画面の向こうの担当者と話す。新しいコーポレートサイトのデザインについて。色味の方向性、フォントの選び方、トップページのファーストビュー。私は淡々と提案を説明しながら、画面の下でそっとお腹を押さえていた。

「素敵ですね。この方向でお願いします」

担当者が笑顔で言った。画面越しの笑顔は、いつも少しだけ遅れて届く。

会議が終わると、私はすぐにパソコンを閉じて洗面所に駆け込んだ。胃の中のものを全部吐き出して、冷たい水で顔を洗う。鏡に映った自分の顔は、少しやつれていた。

フリーランスでよかった、と思った。会社勤めだったら、こうはいかない。つわりのたびにトイレに駆け込んで、上司の顔色をうかがって、同僚に気を遣って。それを考えるだけで疲れる。

私の仕事は、画面の中で完結する。コードを書き、デザインを整え、メールで納品する。顔を合わせるのはオンライン会議のときだけ。それ以外の時間は、パジャマのままでも、泣いていても、吐いていても、誰にも知られない。

午後、コーディングの作業に入る。HTMLとCSSの海に潜るとき、不思議と吐き気は収まった。論理的な作業に集中すると、体の不調を忘れられる。タグを閉じて、スタイルを整えて、ブラウザでプレビューを確認する。画面の中に、少しずつ形が出来上がっていく。

私はものを作る仕事が好きだった。目に見えないものを、目に見える形にする。お腹の中の子どもも、そうなのかもしれない。まだ見えない存在が、少しずつ形になっていく。

夕方、母が「ごはんよ」と呼ぶ。私はパソコンを閉じて、階段を下りる。今日の仕事は終わり。明日もまた、画面の向こうの世界と、お腹の中の世界を行き来する一日が始まる。

「姉からの電話」

ある夜、オーストラリアの姉から電話がかかってきた。

時差があるから、こちらは夜の十時で、向こうは夜の十一時。姉とこんな時間に話すのは珍しかった。

「お母さんから聞いた」

姉の声は落ち着いていた。でも、その落ち着きの奥に、微かな緊張があった。

「妊娠したって?」

「うん」

「……大丈夫なの?」

「大丈夫だよ」

しばらくの沈黙。電話の向こうで、風の音が聞こえた。姉の家は海に近い郊外にあるらしい。

「父親は?」

「わからない」

姉は何も言わなかった。責めるでもなく、心配するでもなく、ただ黙っていた。私たち姉妹は、昔からそうだった。大事なことほど、言葉を使わない。言葉にすると壊れてしまうものがあることを、二人とも知っていた。

「お母さん、元気?」

「元気だよ。相変わらず」

「困った子ねって言った?」

「言った」

姉は笑った。私も笑った。

母の口癖を知っているのは、世界中で私と姉だけだ。父が浮気をしたときも、私が学校で問題を起こしたときも、姉が大学を中退してオーストラリアに行くと言い出したときも、母はいつも同じことを言った。困った子ね。それだけ。

「私ね、こっちでも妊活してるんだ」

「そうなの?」

「うん。でも、なかなかうまくいかなくて」

その言葉には、姉の普段見せない脆さが滲んでいた。

「……ごめんね」

「何が?」

「先に妊娠しちゃって」

「バカ言わないで。おめでとうって言ってるの」

姉の声が少し震えた。泣いているのかもしれなかった。でも、私はそれ以上何も聞かなかった。

「ありがとう」

「元気な子を産んでね」

「うん」

電話を切ったあと、私は窓の外を眺めた。月が出ていた。オーストラリアでも同じ月が見えているのだろうか。時差はあっても、月は一つだけだ。

私はそっとお腹に手を当てた。この子たちには、オーストラリアに叔母さんがいることを、いつか教えよう。

「双子と母の笑い声」

春の午後、診察室の窓から柔らかな光が差し込んでいた。医者はモニターを指さしながら、静かに言った。

「双子ですね」

私は数秒間、その言葉の意味を考えた。双子。二人。同時に生まれる命。

「へえ」

とだけ答えた。

モニターの中で、二つの小さな影がゆらゆらと揺れていた。まだ人の形をしていない、曖昧な影。でも、そこには確かに二つの心臓が動いていた。医者は慣れた手つきでモニターの角度を変えながら、いくつかの数値を読み上げた。私はその数字の意味を半分も理解できなかったけれど、「順調です」という一言だけは聞き取れた。

病院を出ると、春風が頬を撫でた。携帯を取り出し、母に電話をかける。

「お母さん、双子だって」

数秒の沈黙のあと、母はケラケラと笑い出した。

「いっぺんにすむね」

「……驚かないの?」

「だって、もういるんでしょう?」

この人は本当に、何があっても驚かないんじゃないかと、私はいつもながら思った。

「お姉ちゃんと、どっちが先に孫を抱かせてくれるのかなあ」

母はそんなことを言いながら、まだ笑っていた。

私はスマホを握りしめたまま、歩道のベンチに腰を下ろした。桜の花びらが風に乗って舞っている。

双子。私は誰とでも寝ていたわけじゃない。身長が高く、ガタイのいいイケメンとしか寝ていない。でも、二人の命の父親が誰なのか、それを考えても答えは出なかったし、出る必要もなかった。

私はただ、春の空を見上げた。二つの命。私は思わず笑った。笑ってしまった自分に少し驚いた。

母の笑い声が、まだ耳の奥に残っていた。

「母の台所」

母との暮らしは、思っていたよりも静かで、思っていたよりも温かかった。

最初の数日は、どこか居心地が悪かった。十八歳で家を出てから九年。一人暮らしに慣れた体は、誰かと同じ屋根の下にいることの距離感を忘れていた。母の足音、テレビの音、台所で水を流す音。生活音がすべて、壁の向こうから聞こえてくる。それが最初は少し煩わしかった。でも、三日目には慣れた。五日目には、その音がないと落ち着かなくなっていた。

朝は母が先に起きる。台所から味噌汁の匂いが漂ってくると、私もゆっくりと布団から出る。階段を下りると、食卓には焼き魚と、漬物と、炊きたてのご飯が並んでいる。

「つわりは?」

「今日はまあまあ」

「無理しなくていいからね」

母はそう言って、私の前に温かいほうじ茶を置いた。

一人暮らしの四年間、朝食を食べる習慣はなかった。コーヒーを一杯飲んで、すぐにパソコンを開く。それが私の朝だった。でも、母の家では違った。ご飯を食べて、味噌汁を飲んで、漬物をかじる。それだけのことが、体を内側からゆっくりと温めていく。

午前中、私は自分の部屋でパソコンに向かう。クライアントからのメールに返信し、ホームページのデザインを調整する。昼になると、母が階段の下から「ごはんよ」と呼ぶ。子どもの頃と同じ声だった。

午後、母は庭に出て草むしりをしたり、近所の友人と電話で話したりしている。私は時々、縁側に座って母の背中を眺めた。腰を曲げて土をいじる母の姿は、父の背中を思い出させた。この家には、父がいた頃の空気がまだ残っている。玄関の靴箱に、父の革靴が一足だけ残されている。母は捨てないのだろうか、と思ったけれど、聞かなかった。

夕方になると、台所に二人で立つことが増えた。母が野菜を切り、私がそれを鍋に入れる。会話はほとんどない。でも、まな板の音と、鍋の煮える音と、時折聞こえるテレビの声が、静かに空間を満たしていた。

「お母さん」

「なに?」

「……何でもない」

母は少し笑って、何も聞かなかった。

お腹が少しずつ大きくなっていく。服がきつくなり、階段を上がるのが億劫になり、夜中に何度もトイレに起きるようになった。そのたびに、廊下の電気がついていて、母が台所で水を飲んでいた。

「起こしちゃった?」

「いいの。年寄りは眠りが浅いのよ」

母はそう言って、私にも水を一杯注いでくれた。

真夜中の台所で、二人で水を飲む。ただそれだけのことが、不思議なほど心を落ち着かせた。外では虫の声がして、冷蔵庫の低い唸りが聞こえる。この家の夜は、マンションの夜よりもずっと深くて、ずっと優しかった。

「散歩道」

母に勧められて、朝の散歩を始めた。

「妊婦は歩いた方がいいのよ。私もあんたたちがお腹にいるとき、毎日歩いてたわ」

母はそう言って、古い運動靴を玄関に出しておいてくれた。父の靴箱の隣に、私の運動靴が並ぶ。それがなんだか不思議な光景だった。

朝の六時半、まだ空気がひんやりとしている時間に家を出る。住宅街を抜けて、川沿いの遊歩道に出ると、ジョギングをしている人や犬の散歩をしている人とすれ違う。軽く会釈をして、また歩き出す。

この町は、私が生まれ育った町だった。小学校への通学路、中学校の帰りに寄り道した駄菓子屋の跡地、高校のとき初めてキスをした公園のベンチ。すべてが変わっているようで、どこか変わっていない。道の曲がり具合も、電柱の位置も、空の広さも。

私はこの町から逃げるようにして大阪に出た。十八歳のとき。狭い世界が息苦しかった。誰もが誰かを知っていて、誰もが誰かを噂している。そんな場所で生きていくのが嫌だった。父の葬式のあと、母に「大阪に行く」と言ったとき、母は「そう」とだけ答えた。引き止めもしなかったし、反対もしなかった。ただ、出発の朝、玄関にお弁当が置いてあった。中身はおにぎりと卵焼きだった。

でも今、こうして戻ってきて歩いていると、この町の空気は嫌いじゃない。むしろ、体に馴染む。私の体はこの町の水と空気で作られたのだから、当然なのかもしれない。あの頃逃げ出したかった場所が、今は帰る場所になっている。

川沿いの桜並木は、もう葉桜に変わっていた。緑の葉が風に揺れて、木漏れ日が地面に模様を作っている。私はベンチに座って、しばらく川を眺めた。水面がきらきらと光っている。

お腹の子どもたちも、いつかこの川を見るだろう。この遊歩道を歩くだろう。この町の空気を吸って、この町の水を飲んで、大きくなるだろう。

私はゆっくりと立ち上がり、また歩き始めた。朝の光が、少しずつ強くなっていた。

つづく

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