【短編小説】『Money』
『プロローグ』
僕が初めてお金について本気で考えたのは、22歳の夏だった。
大学をやめて、古びたジーンズと無精髭のまま街をさまよい、手持ちの金はポケットの中でジャラジャラと音を立てていた。それは500円玉が2枚、10円玉が1枚、そして僕の人生の残り時間をかたどったような1円玉が数枚だった。
「金がすべてじゃないよ」って彼女は言った。
たしかにそれは正しいのかもしれない、と僕は思った。でも、そのとき彼女が着ていたのは、プラダのワンピースで、手に提げていたのは銀色に光るエルメスのバッグだった。
夜の公園で僕らは缶ビールを飲みながら、どうしても答えの出ない問いについて話した。
「ねえ、本当は何が欲しいの?」彼女が言った。
「自由かな」と僕は言った。
「自由って、金で買えると思う?」
「ある程度はね」と僕は応えた。でもその「ある程度」がどこまでの程度か、僕にはわからなかった。
ある晩、バイト先のジャズバーで、年老いたピアニストが言った。
「金があればピアノだって買える。でも魂は買えない」
彼はスコッチを飲み干して、それきり店には来なくなった。僕はそのとき、金で買えないものリストを紙に書いてみたが、途中でやめた。理由は簡単だ。ほとんどのものは金で“なんとか”なる気がしたからだ。
僕は少しずつ金を稼いだ。自分で稼いだ金で、オンボロのギターを買った。
そして街を出た。東へ向かって。海の見える町まで。
誰かが「この国じゃ金がなきゃ始まらない」と言っていた。
それはたぶん本当だ。でも、それは始まるだけで、続けるには別の何かが必要なんだ。
静かな港町のカフェで、僕はコーヒーを飲みながらこの手紙を書いている。
金があると、確かに少しだけ世界は静かになる。でも、僕の中のノイズは、まだ鳴り止まない。
それはたぶん、あの夏の音だ。500円玉がポケットでこすれ合う、あの切実な音だ。
カフェの隣の席に、父親と小さな男の子が座った。
男の子はチョコレートの入ったクロワッサンを食べていて、口の端についたクリームを気にすることもなく、窓の外の船をじっと見ていた。
「大きくなったら何になりたい?」と父親が聞いた。
「お金持ち」と男の子は答えた。
父親は少し笑ってから、カプチーノに口をつけた。
僕はそれを聞きながら、なんとなく心の奥がざわついた。
たぶん、彼が正しかった。いや、少なくとも僕より正しかった。
若い頃の僕は、「本当に大切なものは金じゃ買えない」って言葉を、まるで詩のように口にしていた。
でも、歳を重ねてわかるのは、「本当に大切なものを守るためには金が必要だ」という、ちょっと湿った現実だった。
愛も夢も、そう長くは裸ではいられない。
それでも僕は、今日も音楽を聴いている。
朝の光の中、レコードの上を針がすべって、ソウルの匂いが空気に混ざってゆく。
金では買えない時間が、ここにはある。たぶん。
海辺の小道を歩きながら、僕はかつて愛した人たちのことを考える。
彼女たちは僕の懐事情より、僕の瞳の奥にある「諦めの色」に敏感だった。
それが最終的に、彼女たちを遠ざけたんだろう。
金のせいじゃない。だけど、金があったら違った未来もあったかもしれない。
そう思うこと自体が、もう貧しい心なのかもしれないけれど。
コンビニで缶コーヒーを買って、ベンチに腰を下ろす。
スマホには誰からのメッセージもない。
でも風が吹いて、海がきらめいて、そしてどこか遠くで子どもが笑っている。
それで、ほんの少しだけ救われる。
金がすべてじゃない。でも、金がなきゃ始まらない。
そのあいだに挟まれた、このどうしようもなく曖昧な人生を、
僕は今日も静かに歩いている。
『静かな反抗(A Quiet Rebellion)』
詩を書くのは、息をするみたいなものだった。
誰かに見せるためじゃない。ただ、生きていくために必要だった。
僕は古いノートを一冊だけ持って、そこに自分の心の端っこを少しずつ書きつけていった。
朝の匂い、夕方の風、君の声、愛についての簡単な嘘。そして、金についてのちょっとした真実。
ある日、それにメロディが乗った。
何かがぴったりとハマった音だった。
それはまるで、見知らぬ街で偶然見つけた小さなカフェのコーヒーが、驚くほど自分の味覚にフィットしたときの感覚に似ていた。
僕はギターを担いで、街に出た。
地下鉄の出口、書店の前、酔っ払いが転がる駅のベンチ。
誰も聴いてないふりをして、少しだけ耳を傾けてくれる。
それでよかった。いや、それが、よかった。
「売れることを目指してるの?」と、ある夜、女の子が聞いた。
彼女はキャラメルのような匂いがした。
「違うよ。ただ、生きるために歌ってるんだ」って僕は答えた。
たぶん、僕はそのとき、嘘をついていなかった。
投げ銭の中には、時々手紙が紛れていた。
「あなたの歌で少し救われました」って書いてあった。
僕はそれをポケットに入れ、いつまでも捨てられずにいた。
月のきれいな夜、風がギターの弦を撫でるように吹いた。
そのとき僕は、ほんの一瞬だけ思ったんだ。
金がなくても、何も持っていなくても、
人は歌えるし、愛せるし、詩を書くことができるって。
でもその一瞬は、やっぱり一瞬で、
朝になればまた、現実の匂いがしてくる。
それでも僕は、今日もギターを弾く。
詩をノートに書きつけ、コードを鳴らし、少ししゃがれた声で歌う。
この世界の片隅で、静かに反抗しながら。
それは、雨上がりの夕方だった。
街は濡れていて、ネオンは路面ににじみ、タクシーのタイヤが水をはじく音が、リズムのように耳に残っていた。
僕は駅前のガード下でギターを弾いていた。
誰も足を止めなかった。冷たい日だったし、風も強かったから。
それでも僕は、ポケットの中で右手を温めながら、左手の指でコードを押さえ、声を絞り出した。
それは、愛について書いた詩だった。
僕がひとりで過ごした夜に、誰にも渡すことのなかった気持ちを、言葉にしたものだった。
曲の終わり際に、誰かが近づいてくる気配がした。
黒いコートに、白いイヤホン。手には紙袋。
そして、ふわっと甘い匂いがした。キャラメルの匂いだった。
「ねえ、その曲、オリジナル?」
僕は顔を上げた。彼女は僕より少し年下に見えた。けれど、瞳の奥には、僕と同じような孤独があった。
「うん、自分で書いた」と僕は言った。
彼女はうなずいて、紙袋の中から温かい缶コーヒーを取り出し、僕に差し出した。
「冷えてるでしょ、声」
僕はありがとうも言えず、ただ受け取った。
缶の熱が、手のひらから胸の奥にまで届いたような気がした。
彼女は僕の隣に腰を下ろし、靴の先でリズムを刻んだ。
「続き、聴かせてくれる?」
僕はギターを持ち直して、別の曲を弾いた。
それはまだ詩も途中で、タイトルも決まっていなかった。
でも、その夜、彼女の前で演奏したことで、曲はどこか完成に近づいた気がした。
「ねえ、名前は?」と僕が聞いた。
彼女はしばらく考えてから、言った。
「ナツミ。漢字で書くと“夏美”。でも、冬に生まれたの」
「じゃあ、僕の歌のタイトル、“ナツミ”にしようかな」
「それ、ちょっとダサくない?」
「たしかに」と僕らは笑った。
その夜、僕は久しぶりにちゃんと眠れた。
誰かに歌が届いた、という実感が胸に残っていて、それが毛布みたいに僕を包んでくれた。
『ナツミの秘密 ― 胸の奥で鳴っている音』
それは、三度目にナツミと会った夜だった。
コンビニで買った焼き芋と缶チューハイを持って、僕たちは川沿いの公園に座った。
彼女が僕の隣に自然に腰を下ろすのは、もう当然みたいな空気になっていた。
僕はギターを持っていなかった。今日は演奏しない日。
ただ話すだけの日だった。
「ねえ、秘密ってある?」とナツミが突然言った。
僕は少し考えて、「あるよ。たぶん、誰にでも」と答えた。
ナツミはうなずいた。
風が吹いて、川面がさざ波を立てた。彼女の髪が頬にかかり、彼女はそれを指先で払った。
「私さ、高校のときまでピアノやってたの」
「そうなんだ」
「音大に行くって決めてた。でも、やめた」
「なんで?」
彼女は焼き芋の皮を少し剥いて、ゆっくりかじった。甘い香りが夜に溶けていった。
「手、壊しちゃったの。腱鞘炎。演奏どころか、ドアを開けるのもつらかった時期があった」
僕は言葉を見つけられずにいた。
ただ、ナツミが手を少しだけ見せてくれた。細くて、白くて、確かにどこか怯えているような手だった。
「だから今は、音楽を聴く専門。演奏はもうしないって決めてるの」
彼女は空を見上げた。星がいくつか、冷たい光で瞬いていた。
「でもね、あなたの歌、ちょっと困る」
「どうして?」
「なんか…また音に触りたくなるんだよ。手が、うずくの」
ナツミはそう言って笑った。でもその笑いには、少しだけ涙の匂いが混じっていた。
僕はその夜、彼女のために曲を書こうと思った。
それは「慰め」でも「励まし」でもなくて、ただ彼女の痛みと寄り添うような曲だった。
言葉にできない思いを、音にして伝えるしかなかった。
僕たちはまだ名前も住所も知らない関係だったけれど、
夜の匂いや風の温度を、たしかに共有していた。
それは、どんな秘密よりも深いものだった。
『二人で旅に出る章 ― 世界から少しだけ離れて』
春が始まる少し前の朝、ナツミが言った。
「ねえ、旅に出ない?どこでもいいから」
僕はトーストにバターを塗っていた。バターは少し溶けかけていて、彼女の言葉と同じように、ゆっくりと染み込んでいった。
「どこに行きたい?」
「海が見えるところ。でも寒すぎないところ。でも人が少ないところ」
「それ、結構むずかしい注文だな」
ナツミは肩をすくめて笑った。「わがままだから」って。
僕たちは古いワゴンをレンタカーで借りて、地図も見ずに南へ走った。
後部座席にギターと寝袋と、ナツミが持ってきた赤いトランジスタラジオが転がっていた。
旅の途中で泊まった安いモーテルの壁は薄くて、隣の部屋のテレビの音がずっと聞こえていた。
でもナツミは平気な顔をして、「音楽みたいでいいじゃん」と言った。
それが彼女らしかった。
海辺の町に着いたのは、三日目の夕方だった。
日が傾いていて、海はまるでスローモーションの映画みたいだった。
「ほら、あったでしょ。寒すぎなくて、人がいなくて、海が見えるとこ」
ナツミはポケットからチョコレートを出して、ひとかけらを僕の口に押し込んだ。
僕はむせて、それで二人とも笑った。
夜、僕らは海の音を聞きながら、車の中で寝た。
ナツミは僕の肩にもたれて、ふいに言った。
「このまま、どこにも帰らなくていいって思わない?」
「思うよ。でも、帰る場所があるから旅になるんだと思う」
彼女はしばらく黙っていたけれど、やがて静かにうなずいた。
その夜、僕は夢を見た。
ナツミが砂浜に立って、壊れたピアノを弾いていた。音は出なかったけれど、彼女の手は確かに音を紡いでいた。
それが現実なのか夢なのか、僕にはもうわからなかった。
『ナツミのピアノ ― 再生と約束のデュオ』
旅から帰ったあと、ナツミはしばらく無口になった。
昼間はカフェのバイトに行って、夜はラジオを聴きながらソファにうずくまっていた。
まるで何かと距離を測っているみたいだった。
僕はあえて何も言わなかった。
代わりに、部屋に小さな電子ピアノを置いた。中古で、鍵盤に少し傷があったけれど、音は悪くなかった。
「なにこれ?」とナツミが言った。
「オブジェ。たぶん弾けるよ」
「ふーん」と彼女は言って、指で1つだけ鍵盤を叩いた。
やわらかい、まるで目を覚ましたばかりの音が部屋に漂った。
ナツミはそのまま、何も言わずに窓の外を見た。
それから1週間後の夜、僕が帰ると、部屋の中で音がした。
コードとメロディのあいだを揺れるような、不安定だけど美しい即興だった。
ナツミは弾いていた。両手で。慎重に、でも確かに。
僕は黙ってギターを取り出し、コードを乗せた。
ふたつの音は、まるで長い間会っていなかった兄妹みたいに、少しぎこちなく再会し、そして静かに抱き合った。
「ライブ、やってみない?」と僕が言ったのは、その翌日だった。
ナツミはコーヒーを飲みながら、言った。
「怖い。でも、やってみたい。逃げたくないって、初めて思った」
そのときの彼女の目は、どこかで見たことがあると思った。
たぶん、あの旅の途中、海辺でチョコレートを押し込んできたときの目だ。
僕たちは夜な夜な音を重ねた。
僕が詞を書き、ナツミがメロディを添えた。
ある夜、彼女は言った。
「弾けないと思ってたの、音がこわかった。でもあなたとやると、音が…音じゃなくて、風みたいに感じる」
「風?」
「そう。止められないけど、悪いものでもない」
僕はその言葉を心のノートに書き留めた。ナツミが言う言葉は、いつも詩みたいだった。
そして、ある小さなライブバーで、初めてのステージの日が決まった。
ギターとピアノ。名前のないデュオ。
でも、確かな音がそこにはあった。
了解、「ライブ当日の夜」。
たまたま居合わせた音楽業界の人物が、二人の音に何かを感じる——そんな偶然に導かれる、人生の転がり方。
でも浮かれすぎず、静かな熱と余韻を残す感じで描いてみるね。
『ライブ当日の夜 ― 音が、誰かの心に届くとき』
ステージは、思ったよりも小さかった。
客席との距離も近くて、息づかいが届いてしまいそうなほどだった。
ナツミは本番前、トイレの鏡の前で5分くらい固まっていた。
僕は黙ってコーヒーを飲みながら、彼女が戻ってくるのを待った。
「緊張で死にそう」
ナツミがぼそっと言って、僕は「死んだら曲はどうなるの」と返した。
ふっと彼女が笑って、その笑いだけで僕の心も少しほぐれた。
開演時間になり、照明が落ちて、ステージに光が差した。
僕たちはスポットライトの中にいた。
最初の曲は、旅から戻ったあとに作った「潮の匂い」。
僕がコードを刻むと、ナツミが鍵盤に手を置いた。
彼女の指先からこぼれる音が、静かに、でも確実に空気を変えた。
客席はしんと静まっていた。
それは退屈の静けさじゃなかった。
呼吸を忘れてるような、耳が感覚だけになってるような、そんな静寂。
曲が終わったとき、最初の拍手が一拍遅れて聞こえた。
そして、次の曲。
ナツミが詞をつけた「Still」。
彼女の声は震えていたけれど、その震えが逆にまっすぐ届いてくる。
ライブが終わって、僕たちは楽屋という名の狭い物置部屋で、缶ビールを半分ずつ飲んでいた。
ナツミは目を閉じて、深呼吸をしていた。
「やったね」
「うん。まだ心臓バクバクいってる」
「生きてる証拠だよ」
「そうかな」
「うん、間違いなく」
そのとき、ノックの音がして、男が入ってきた。
グレーのジャケットにデニム、年のころは五十前後。
どこにでもいるような顔。でも目だけが、異様に鋭かった。
「突然すみません。今日の演奏、聴いてました」
名刺を出された。レコード会社のA&R。つまり、新人発掘の担当者だった。
「話だけでも、今度よければ」
そう言って彼は、軽く頭を下げて出ていった。
ナツミは何も言わなかった。
でも、その目は少しだけ、遠くを見ていた。
『プロとしての誘い ― ナツミのソロへの誘いだった』
数日後、あの男から連絡があった。
「ぜひ、詳しく話したい」と。
僕たちは駅前のホテルラウンジで、白いカップのコーヒーを前に座っていた。
ナツミは黒のタートルネック、僕は古びたジーンズにネルシャツ。
その場だけ、まるで現実がふたつ並んでるようだった。
男は要点をすぐに切り出した。
「ナツミさん。あなた、ソロでやる気はありませんか?」
その瞬間、空気が変わった。
あのときのライブで、彼が聴いていたのは――ナツミの音だったのだ。
僕のギターではなく。
「デュオではなく?」
僕は尋ねた。
男は申し訳なさそうに、しかしはっきりと首を横に振った。
「あなたも悪くなかった。でも彼女の声と鍵盤は、もっと広い場所に行ける。きっと誰かの人生にまで届く音だと思います」
ナツミは黙っていた。
カップに手を添えたまま、唇をきゅっと結んでいた。
僕は何も言わなかった。ただ、それがナツミの人生にとって大事な瞬間だということだけは、よくわかっていた。
帰り道、ふたりで川沿いを歩いた。
空は少し曇っていて、風が冷たかった。
「どう思う?」ナツミが言った。
「それは、きみがどうしたいかだよ」
「怖い。でも、ほんとうは――やってみたい」
「うん」
「でも、あなたとじゃないって言われたのが、いちばん痛かった」
「俺もそうだった。でも、それで終わるわけじゃない。きっと」
ナツミは立ち止まって、僕を見た。
「ほんとに、そう思ってる?」
「うん。音楽はさ、いろんなかたちで続いていくものだから」
僕の言葉に、彼女はしばらく黙って、そして小さくうなずいた。
別れ道の交差点で、ナツミが言った。
「しばらく、ひとりでやってみるね。私、自分の音、もっとちゃんと知りたい」
「うん。見つけたら、また聴かせてよ」
「必ず」
そう言って彼女は、手を振って歩き出した。
ナツミの足音が遠ざかっていく音に、僕の心の中でギターが小さく鳴った。
今夜だけは、ほんの少しだけ音が狂っていた。
『ナツミのソロデビューと葛藤 ― そしてナオトの決意』
ナツミのデビューは、思っていたよりも早く決まった。
レーベルが用意したのは、一流の作詞編曲家、スタジオミュージシャン、そして有名プロデューサー。
まるで、魔法のようにことが進んでいった。
「夢みたいだよ」と彼女は言った。
けれど、その目はどこかで迷っていた。
「わたし、こんなに歌が上手かったかな」
「そうだよ」
「でも、わたしがやりたかったのって、これだったのかな」
スタジオ帰りのカフェで、ナツミがぽつりと言った。
用意された衣装、言葉の隙間を削った歌詞、少しだけキーを変えられたメロディ。
プロの現場は、正確で、効率的で、冷たくなかったけれど温かくもなかった。
ナツミは、音楽が「作品」になっていく過程を見ながら、自分が「商品」に変わっていくような不安を抱えていた。
僕はそれを、近くで見ていることしかできなかった。
だけど、そのときだった。僕の中にも、何かが芽生え始めていた。
「ナツミの隣で演奏していた俺」が、「ただの伴奏者」で終わることに、耐えられなくなっていた。
僕はギターを改めて握り、1日5時間の練習を始めた。
曲を作り直し、コード理論を学び、ボイストレーニングにも通った。
バイトのシフトは減り、生活は少しギリギリになった。
でも、今まででいちばん生きている感じがした。
ある日、ナツミの初めてのテレビ出演の日、僕は彼女からのメッセージを読んで、深く息を吐いた。
「わたし、うまく笑えるかわからないけど、やってみる。
ステージの途中であなたの顔が浮かんだら、それはたぶん、まだわたしの中に“本当の音楽”が残ってるってことだと思う」
僕はスマホをポケットにしまい、小さなライブハウスに向かった。
オーディションだった。出番は最後のほう。
ギターを背負い、ステージに上がったとき、ふと彼女の声が胸の奥で鳴った。
「音楽は風みたいなもの」
止められなくて、でも、きっと誰かに届いている。
僕は、ナツミが見ていない場所で、僕の音を鳴らしはじめた。
もう誰かの伴奏ではなく、自分自身の旋律として。
『ナオトがチャンスを掴む ― 音と時を超えて』
日々の練習が、徐々に成果として現れ始めた。
ギターを弾きながら、ふと「音楽が自分を選んでくれる瞬間」があることに気づいた。
それは、計算でも努力でもなく、ただ自然にやってくるものだった。
ある夜、カフェのオーナーから連絡があった。
「お前、明日のオープンマイク出ないか? ゲストが来るんだ」
ゲスト? その瞬間、心臓が止まりそうになった。
でも、僕はすぐに答えた。「出ます」
その日の夜、オープンマイクのステージは緊張の連続だった。
初めての観客、初めてのライブハウスの空気。
僕は、普段の練習で作った曲を弾きながら、どこかでナツミのことを考えていた。
「まだ、音楽が自分の中にあるのか?」
でも、答えは自然に出た。
「ある」
曲が終わり、静寂の中、最初の拍手が鳴り響いた。
そこから、少しずつ拍手が広がり、ステージの上で、僕は本当に「音楽をしている」という実感を得ることができた。
その後、ステージを降りたところで、一人の男性が近づいてきた。
「お前、悪くないな。今度、うちのレーベルでライブやってみないか?」
その言葉に、僕は少し間をおいた。
まさか、僕にそんなチャンスが来るなんて思っていなかったから。
「レーベル?」
「うん、最近、自分の音楽を発信したいっていう新しいアーティストを探してるんだ。君、どうだ? 一緒にやってみないか?」
男は名刺を差し出してきた。
その名刺には、確かに有名なレーベルの名前が記されていた。
僕はその場で、言葉が出なかった。
でも、心の中ではすでに「これがチャンスだ」という確信があった。
その夜、帰り道に僕はナツミにメッセージを送った。
「今日、レーベルの人から誘われた。これが、俺のチャンスかもしれない」
彼女から返事はすぐに来なかった。
でも、どこかで彼女も同じように、この瞬間を感じているような気がした。
その翌日、ナツミからメッセージが届いた。
「すごいじゃん。あなたがやったんだね」
それだけだった。
でも、その一言が僕にとっては、何よりも大きな意味を持っていた。
『バンドメンバーとの出会い ― 個性という名の音たち』
レーベルのスタジオに呼び出されたのは、風の強い午後だった。
グレーの空に時折、飛行機が低く飛んでいた。
東京の、空気の重たい平日の昼。
「ここが、お前の音と重なり合う奴らだ」
プロデューサーがそう言って、僕を一室に通した。
部屋の中には、3人の男女がいた。
それぞれが椅子に腰かけていて、まるでそれぞれの人生をそこに置いているようだった。
最初に口を開いたのは、長身で髪の長い男だった。
革ジャンに破れたジーンズ、手には煙草。
「トオル。ベース。元はジャズだけど、いまは音楽って言葉を信じてない。
でも、俺はグルーヴだけは裏切らない主義なんだ。よろしく」
彼はそれだけ言って、口の端で笑った。
その隣、フードをかぶったままスマホをいじってた女子が、小さく手を上げた。
「ユメ。ドラム。喋るの苦手。…リズムで話すほうが好き」
声は小さかったけど、彼女の指先はずっと何かを刻んでいた。
たぶん、心の中でビートが止まらないタイプなんだろう。
最後に、ちょっと気だるそうな目をした男が手を挙げた。
「カイ。キーボードと、ちょっとDTM。クラブ系から来たけど、最近バンドやりたくなって。理由?
うーん、“人間って音がズレるから面白い”って思って」
彼はそう言って、缶コーヒーを一口飲んだ。
プロデューサーが口を挟む。
「この4人で、しばらくスタジオ入ってみよう。バンド名は後回しでいい。
音が合えば、こいつらと一緒にデビューさせるつもりだ」
僕はギターケースを下ろしながら、彼らをぐるりと見た。
それぞれが全く違う世界から来たようで、でも、何かがどこかで共鳴している気がした。
音楽って、きっとそういうものだ。
「ナオトです。ギターと歌。
…ちゃんとやるの、初めてなんで、足引っ張ったらごめん。でも、ちゃんと、まっすぐやります」
トオルが言った。
「おう、まっすぐでいいよ。俺たち、だいぶ曲がってるから」
ユメは小さく笑った。カイは「そのギター、いい音しそうだね」と言った。
バンドは始まったばかりだったけど、もうすでにどこかで“何かが始まってる”感じがしていた。
『ぶつかり合いとひとつの音 ― スタジオの夜に生まれたもの』
スタジオに入ると、空気は少し重かった。
最初の音合わせは、まるでそれぞれが別の部屋で演奏してるみたいだった。
トオルのベースはうねりすぎて、カイのシンセとぶつかりまくる。
ユメのドラムは正確だけど冷たくて、僕のギターは、その間で居場所を探して迷っていた。
1時間経っても、まともに1曲すら通らない。
「…ごめん、テンポが合ってない」
僕が言うと、カイが鼻で笑った。
「テンポのせいじゃない。音が合ってないだけ」
トオルがタバコを咥えながら言った。
「お前、コードに頼りすぎ。もっと空間感じろよ」
言い方が少しキツくて、僕の中で何かがカチンときた。
「…俺は俺なりに、ちゃんと感じて弾いてる。
空間って、そんな曖昧な言葉で済ませないでくれよ」
ユメが、スティックを静かに置いて言った。
「みんな、自分のことばっか考えすぎじゃない? これって、バンドだよね」
しばらく、誰も何も言わなかった。
でもその沈黙のあと、カイがぼそっと呟いた。
「…1回、全員で“音じゃなくて、空気”だけ出してみない?」
「空気?」
「そう。音は出さなくていい。リズムもコードもやめて、ただ、ひとつずつ“何か”を置いてくみたいな」
理解不能だったけど、試してみることにした。
僕はギターを持ったまま、ピックを置き、指で1音だけ鳴らして止めた。
ユメが、ドラムのリムを軽く叩いた。
トオルが、深い低音を伸ばして、途中でフェードアウトさせた。
カイが、シンセのフィルターを開いて、風のような音を出した。
たったそれだけ。
でも、その瞬間、部屋の空気が変わった。
誰かが「音」じゃなく「空気の流れ」を支配しようとし始めたのを、全員が感じた。
そこに、今までなかった“バンドの呼吸”みたいなものが生まれた。
僕はギターを構え直し、もう一度イントロを鳴らした。
今度は、違った。
トオルはちょっとだけシンプルにした。
ユメが、細かいビートを入れた。
カイは、メロディの下で泳ぐような音を鳴らした。
誰も何も言わなかった。
でも、曲は最後まで通った。
終わったあと、ユメがぽつりと言った。
「これ、いい。…今の感じ、バンドっぽかった」
トオルが笑った。「おう、やっとまとまってきたな」
カイがうなずいた。「この路線でいこう。ちょっと幻想的で、でもグルーヴがあるやつ」
その夜、僕らは初めて、“4人でひとつの音楽”になった気がした。
誰かが足りないと、たぶん完成しない。
でも、誰かひとりでも前に出すぎると、崩れてしまう。
音楽って、人間関係みたいだ。
そう思った夜だった。
『名前のない夜に ― バンド名を決める話』
初めて“ひとつの音”になった夜、僕たちはそのままスタジオのロビーに残った。
コンビニで買ってきた缶コーヒーとポテトチップスを囲んで、みんな妙に無口だった。
まるで、誰も“音がまとまった”ということを声に出すのが怖いように。
トオルが突然、言った。
「そろそろ名前、決めようぜ」
「バンド名?」と僕。
「そう。名乗らずに続けるってのもかっこいいけど、音楽って、ある種の“旗”が必要だ」
ユメがぽつりと、「名前って、誰のためにつけるんだろう」って言った。
「うちらのため? それとも、聴く人のため?」
カイはスマホで何か検索してたけど、ふっと笑って、
「俺はさ、昔、海辺の町に住んでたとき、よく“名前のない風”って言われるやつを感じてた。
誰がつけたかわからない風の名前。でも、確かに存在してた」
「風の名前か…」僕が繰り返した。
「“名前のない風”って名前でもいいかもな」とトオルが言ったけど、ユメが小さく首を振った。
「長いし、ちょっと、詩的すぎる」
カイが、ペンをくるくる回しながら言った。
「じゃあ、“Kaze”とか。“風”って意味で、音の流れもあるし、どこにも縛られない感じ」
僕は、ギターケースの隅に貼ってある古いステッカーを見ながら、ふと思い出した。
「“Sway”ってどうかな」
「Sway?」
「揺れる、って意味。風にも揺れるし、心も揺れるし、音もそうだよね。
強くなくても、ちゃんと届く揺れ。…そんな感じ」
静かな沈黙のあと、ユメが小さく、「好きかも」って呟いた。
トオルがうなずいた。「悪くない。どこにも偏らないのがいい」
カイが言った。「音が聞こえてきそうな名前だな、“Sway”。」
僕たちはその夜、名もなきバンドから、“Sway”になった。
意味なんて、あとからついてくる。
でも、名を持つことで、僕らはどこか、少しだけ遠くへ行ける気がした。
『Swayの初ライブ ― ナツミの姿』
初めてのライブは、高円寺の小さなライブハウスだった。
天井の低さと、汗の匂いと、ギターアンプのうなる音。
入り口のドアが開くたび、外の冷たい空気が少しだけ流れ込み、それがやけに新鮮に感じられた。
リハーサルのとき、僕の指は少し震えていた。
でも、カイがシンセを鳴らした瞬間、緊張が溶けていった。
ユメのドラムがしっかりと地面を作り、トオルのベースがその上を泳いだ。
Swayの音は、しっかりとそこに存在していた。
それだけで、充分だったはずなのに。
本番10分前、僕はギターのチューニングをしていて、ふと観客席の奥を見た。
明かりのまだ落ちていない薄暗い空間で、誰かが立っていた。
目が合った。
ナツミだった。
黒いニットの帽子、スリムなコート、変わらない背筋。
でも、どこか少し、遠くにいるように見えた。
僕の視線に気づいたのか、彼女はゆっくり小さく手を振った。
まるで「がんばってね」とでも言うように。
僕は、何も返せなかった。ただ、チューナーのランプが緑に変わったのを見つめるしかなかった。
ライブが始まった。
1曲目、「Blue Echo」。
2曲目、「Silent Driver」。
3曲目、「Wind Scene」。
ユメが叩くドラムが、まるで心臓のリズムのように聞こえた。
カイの音は空気を切り裂いて、トオルの低音がその余韻を拾い上げる。
僕は、自分の声がどこか別の場所から聞こえてくるような気がしていた。
曲が進むたびに、客席は揺れ始めた。
“揺れる”――Sway。
まるでその名前が、その空間に浸透していくようだった。
最後の曲が終わったとき、拍手が鳴り響いた。
思っていたよりも、大きな、あたたかい音だった。
でも、僕の視線は、ただひとつの場所を探していた。
ナツミの姿は――そこになかった。
もう、いなかった。
まるで、最初からいなかったみたいに。
でも、残像のように、彼女の手のひらが目の前に焼きついていた。
僕は、少しだけ深く、息を吸った。
ナツミがいたという事実は、幻じゃない。
彼女は、僕たちの音を、確かに聴いていた。
それがなんだか、すごく遠くて、でもすごく近い。
それで充分だと思った。
今は、まだ。
『再会と決意 ― ナツミ、マネージャーになる』
ライブから数日後、僕のスマホに短いメッセージが届いた。
「時間ある? 渋谷のカフェで話したいことがある」
差出人はナツミだった。
返信するまでに、5分かかった。
でも実際には、指先は2秒で「いいよ」と打っていた。
カフェはスクランブル交差点の近くの、小さなビルの2階だった。
音楽が静かに流れていて、窓の外は夕暮れの渋谷。
僕が入ると、ナツミはもう座っていて、カフェラテの泡をスプーンで丁寧にすくっていた。
「久しぶり」と僕。
「うん」と彼女。
それだけで、しばらく黙っていた。
「ライブ、すごく良かったよ」
「ありがとう」
「正直、ちょっと悔しかった。あんなにいい音出してるなんて思わなかった」
彼女はそう言って、ふっと笑った。
「ナツミ、音楽やってる?」
その質問は、あまりにも唐突だったかもしれない。
でも、聞かずにはいられなかった。
彼女は少しだけ目を伏せた。
「実はね、また再発したの。腱鞘炎。ロスにいたときもずっとだましだましやってたけど、最近はもう…ピアノに触れるのが、怖くなっちゃった」
「……そっか」
「だから、演奏者は終わり。ううん、終わらせる。これ以上、音楽を嫌いになりたくない」
その言葉は、彼女の口から出るにはあまりにも静かすぎて、
逆に痛いほど響いた。
「でもね」とナツミは続けた。
「私、音楽からは離れないって決めた。プレイヤーじゃなくても、やれることはあるから」
「やれること?」
「マネージャーになる。――あなたたちの。もし、迷惑じゃなかったらだけど」
僕は、ラテの湯気越しに彼女の目を見た。
そこには、あの頃よりもずっと強い光が宿っていた。
そして少しだけ、悲しみの色も。
「ナツミ」
「うん?」
「迷惑なわけないよ。むしろ、心強い」
「ほんと?」
「うん。Swayは、風でできてる。君の風が、また吹いた気がした」
ナツミは笑った。
僕たちの前で、また何かが始まろうとしていた。
『ナツミ、Swayのマネージャーになる』
スタジオの扉が開いて、ナツミが入ってきたとき、
その場にいた全員の空気が、一瞬止まった。
それは決して、気まずさとか緊張とか、そういう類いのものではなかった。
むしろ、ちょっとした季節の変わり目に気づいたときのような、言葉にしにくい種類の静けさだった。
「今日から、ナツミさんが正式にマネージャーだってさ」
と、ユメがいつもの調子で言った。
ドラムスティックをくるくる回しながら、彼女はナツミを見て笑った。
「よろしくね」とナツミ。
前より少し短くなった髪が、彼女の印象を柔らかくしていた。
でも、その目は明らかに“仕事の目”だった。
ナオトはギターの弦を張り替えながら、チラリと彼女を見た。
まだ、彼女の立ち位置に慣れていない自分を感じながら。
「まず、来月のブッキングの話をしたいんだけど、スタジオのあと10分だけもらえる?」
ナツミはそう言って、バインダーを取り出した。
手元にはメモがぎっしり書き込まれていて、字が少し右上がりだった。
トオルが目を丸くした。「ちゃんと仕事モードだな…」
「元・ピアニストなめんなよ」ナツミが冗談っぽく返す。
その瞬間、みんなの間にあった微妙な境界線が、すっと溶けていくようだった。
スタジオ練習のあと、彼女は机の前でメンバーに向かって話し始めた。
新しいブッキングの候補、SNSの運用スケジュール、レコーディング候補のスタジオ。
「やりたいこと」と「やらなきゃいけないこと」のバランスを、彼女は見事に整理していた。
「音楽だけやってればいい、なんて甘い時代じゃないからね」
とナツミは言った。
その言葉に、ナオトは少しだけドキッとした。
それはどこか、昔の彼女ではなく、今の彼女の芯を感じさせるものだった。
帰り道、ナツミと二人きりになった。
駅までの短い道を、並んで歩いた。
「うまくいくかな、マネージャー」
彼女はポケットの中で手を組みながら言った。
「うまくいくよ。だって、ナツミだし」
「根拠ないじゃん」
「根拠はないけど、信じてる」
「そういうの、ずるい」
「ずるいけど、いいだろ?」
彼女は何も言わなかった。
ただ、風に揺れる街路樹を見上げて、ふっと笑った。
『未発表曲 ― ナツミの音がSwayに加わる夜』
その日、スタジオには珍しく、深夜の空気が流れていた。
リハの後に残ったのは、ナオトとナツミ、それとユメの3人だけだった。
「これ、聴いてほしいの」
ナツミがそう言って、スマホを差し出した。
再生ボタンを押すと、すぐに淡いピアノのイントロが流れた。
それは、どこか空の高いところから降ってきたみたいな音だった。
透明で、それでいて体温があった。
風がないのに、カーテンが揺れるような――そんな曲。
「これ、ナツミが作ったの?」
ナオトが静かに聞いた。
彼女は頷いた。「4年前。ロスで最後に書いた曲」
「なんで出さなかったの?」ユメが言った。
「出せなかったの。まだ、自分の気持ちが整ってなかったから」
ナツミは少し笑った。「でも、今なら、誰かに歌ってほしいって思える」
沈黙がスタジオを包んだ。
「Swayでやろうよ」
とナオトが口にしたとき、ナツミは目を見開いた。
「ほんとに?」
「俺たちがやるべき曲だって思った。ナツミの音も、このバンドの一部にしたい」
「マネージャーが曲提供なんて、変じゃない?」
「そんなの関係ないよ。いい曲はいい。誰が書いたとか、どうでもいい」
ユメも頷いた。「私、この曲叩きたい。むしろ、今すぐ譜面ちょうだい」
ナツミはしばらく黙っていた。
まるで、何かと決別するように、ゆっくりとノートを取り出した。
「じゃあ、これが譜面。タイトルは『風のあと』」
その言葉のあと、彼女の声が少し震えた。
数日後、Swayはその曲に初めて合わせた。
ピアノはギターアレンジに置き換えられ、ドラムが静かに寄り添い、
ナオトの声が、まるでナツミの心をなぞるように旋律に乗った。
「これは、俺たちの新しい始まりになる曲かもしれない」
ナオトがそう言ったとき、誰も否定しなかった。
そして、「風のあと」はSwayのライブのラストナンバーに加わることになる――
バンドが一つの家族になった証のように。
『風のあと、空を越えて』
「おめでとうございます。『風のあと」に決まりました。あの新作アニメのエンディングテーマに」
事務所の会議室で、A&R担当の男が笑った。
その場にいたナオト、ユメ、トオル、それからナツミも、一瞬言葉を失った。
そのアニメは、公開前からすでに話題になっていた。
制作は有名なスタジオ、監督はあの“泣ける”で有名な人、しかも主題歌がSway。
誰かが見てくれていた、ちゃんと届いていた――その実感が、じわりと胸に満ちていく。
「ナツミさん、この曲…ほんとにすごいよ」
ユメがぽつりとつぶやくと、ナツミは少しだけ肩をすくめて笑った。
「ありがとう。でも、それをSwayが生かしてくれたから」
彼女の声は、どこか穏やかで、少し寂しげでもあった。
アニメの予告映像に、「風のあと」のイントロが重なる。
SNSでは、「誰が歌ってるの?」「この曲、鳥肌立った」と話題が爆発する。
Spotifyの再生数が日に日に伸びていき、YouTubeではMVのコメント欄が海外の言葉で埋まっていった。
「これが、世に出るってことか…」
とトオルがぽつりとつぶやいた夜、メンバー全員で小さな打ち上げをした。
居酒屋の隅っこで、ナオトは何度も「乾杯」を繰り返して、すっかり顔が赤くなっていた。
「ナツミ」
彼がその夜、ふと彼女の名前を呼んだ。
「もし、あの曲を誰にも聴かせないままだったらって思うと…ゾッとする」
「……わたしも、そう思うよ」
ナツミは静かにグラスを持ち上げた。
「ありがとう、ナオト。あの曲を“今”にしてくれて」
そして――
テレビのエンディングに流れる「風のあと」を、無数の子どもたちが口ずさむようになった頃、
Swayは次のステージに立つ準備を始めていた。
でも、その始まりの音は、たしかにナツミのピアノから始まったのだ。
彼女の“未発表”が、“みんなの記憶”へと変わっていくように。
『ひとつの音へ』
2025年、夏。
「風のあと」のヒットでSwayは一躍注目を集めた。
フェスへの出演依頼、雑誌の取材、MV撮影、そして全国ツアーの企画。
スケジュールは真っ黒になり、移動と打ち合わせとリハーサルが毎日のように押し寄せた。
けれど不思議なことに、疲れは不満には変わらなかった。
むしろそれぞれが、自分の役割を無言のうちに理解し、音の中で自然に呼吸を合わせていた。
ドラムのユメは、最初こそ感情の起伏が激しかったが、
今では楽曲のリズムを“物語”として構築するようになった。
彼女のドラムは、まるで歌詞を語るようだった。
ベースのトオルは、もともと職人気質で、自分の意見を口に出すのが苦手だったが、
ある日ナオトの歌詞に「低音の感情をもっと前に出していい」と言われてから、
プレイに明確な意思が宿り始めた。
そしてナオト。
彼の歌は、以前のように“届けばいい”ではなく、“突き刺す”歌に変わっていた。
不器用でも真正面から、言葉と声で世界に切り込んでいくその姿は、
まさにバンドの矢印そのものだった。
ある夜のスタジオ。
ツアーの新曲を作るために集まったメンバーは、
何も決めず、ただ各々の音を鳴らしていた。
コード進行も、リズムも、テーマさえなかったのに、
音が重なった瞬間、それは自然と一つの流れになった。
「これだ」
ユメがバチを置き、そう言った。
誰もが頷いた。
“この音が、今のSwayだ”――そう、確信できた。
ナツミは、その場にいなかった。けれど彼女が用意してくれたマイクの位置、照明のトーン、
その全部が「今」のSwayを照らすためにあった。
「やっと…バンドになったな」
トオルが静かに言ったその言葉に、誰も何も返さなかったけれど、
全員が心の中で、同じメロディを鳴らしていた。
ツアー初日、会場の照明が落ちる。
真っ暗な空間に、最初に鳴ったのは、ユメのハイハット。
続いて、ベース、ギター、そしてナオトの声。
「俺たちが、Swayです」
シンプルなその言葉に、客席が揺れた。
バラバラだったピースが、ようやく一枚の風景を作った。
その風景の中で、彼らはただ、音を鳴らし続けていた――自由に、確かに。
『Money, My Song』
「……俺、ひとつ、歌いたい曲があるんだ」
その日のリハ後、ナオトはギターを降ろし、しばらく黙っていた。
ユメがチューニングを止め、トオルが煙草に火をつけようとしてやめた。
「俺が音楽やりたいって思ったきっかけ…浜田省吾の“Money”だった」
そう言ってから、ナオトは照れたように笑った。
「13歳のときだったかな。深夜ラジオで偶然流れてさ。めっちゃ衝撃だった。
お金があればなんでも手に入る、でも、どうしても買えないものがあるって。
その歌詞が、ずっと胸に残ってた」
「で、どうするの?」
ユメが静かに聞いた。
「俺なりの“Money”を、今書きたくなった。
売れた今だからこそ、あの時の気持ちにもう一度向き合いたくて。
俺がこの世界で見てきた“買えるもの”と“買えなかったもの”、
それをちゃんと歌にして、届けたいんだ」
スタジオに、少しだけ沈黙が落ちた。
でもその沈黙は、否定ではなく、理解への一歩だった。
「やろうよ」
先に口を開いたのはトオルだった。
「俺たち、そういうバンドだろ?自分の根っこを音にするバンド」
「その曲…ナツミにも聴かせたいな」
ユメが笑った。
「“あの頃のナオト”がどうだったか、ナツミもちゃんと知ってる気がするし」
ナオトは頷いた。
このバンドに出会って、仲間ができて、ナツミという存在があって、
いま自分の中にある“答え”を、曲にすることができる気がした。
その曲は、「My Money」と名付けられた。
一見皮肉のようでいて、実はとても真っ直ぐな歌だった。
<金で夢は買えなかった
でも、夢の途中で必要だった
愛も、音も、孤独も
全部、俺の“My Money”>
ライブで初披露されたとき、会場の空気は不思議な静けさに包まれた。
誰もがそれぞれの“買えなかったもの”を胸に抱えて聴いていた。
照明の下、ナオトは目を閉じていた。
終演後、ナツミがそっと言った。
「いい曲だった。…ずっと聴いてたよ、ナオトの“Money”」
彼は笑って、言った。
「ありがとう。やっと、少しだけ報われた気がするよ」
『光の後に』
Swayは、3年後に解散した。
それぞれが求めていたものが少しずつ違ってきて、音楽の中で交わることがなくなったからだ。
ナオトはソロ活動を始め、ナツミと結婚した。
ユメは音楽プロデューサーとして新たな道を歩み、トオルはベーシストとして別のバンドに加入した。
みんな、それぞれのペースで音楽を続けていた。
解散ライブを終えた後、ナオトは静かな朝を迎えていた。
ナツミが隣で寝ているのを見ながら、彼はその日々を振り返った。
「こんな日が来るなんて思ってなかったな」
彼は、ぼそりと呟いた。
ナツミは寝返りを打ちながら、寝ぼけた声で返した。
「何が?」
「いや…Swayが解散してから、みんなそれぞれの道を歩んでるけど…
あの時の音楽、全部が今の俺たちに繋がってるんだなって。
バンドがあったから、今こうして…幸せだし」
ナツミは目を開け、彼の言葉に少しだけ微笑んだ。
「私も同じよ。でも、あの頃の熱気を今でも思い出すと、胸がいっぱいになる」
ナオトはナツミを見つめながら、少しだけ考えた。
「俺、これからも歌い続けるよ。君のためにも、みんなのためにも。
Swayで感じたあの瞬間を、大切にして」
ナツミは静かに頷いた。
「私も、あなたを応援するわ」
その後、ナオトはソロアーティストとして活動を本格化させ、幾つかのアルバムをリリースした。
彼の音楽は、以前のSwayのようなエネルギッシュな部分もあれば、静かで深い感情を表現する部分もあった。
どちらも、彼が音楽を始めた時の純粋な気持ちから生まれたものだった。
一方、ユメはプロデューサーとして、トオルは新しいバンドで全国を回り、
彼らはそれぞれの道で成長を続けていた。
数年後、あるライブの帰り道、ナオトはふと思い出した。
「あの頃、みんなで一緒に音楽を作っていたこと…あの感覚、すごく大切だなって」
ナツミが横で歩きながら言った。
「でも、あなたの歌を聴いてると、あの頃の熱を感じる。
Swayじゃなくても、音楽は続くのよ」
ナオトは笑いながら、ナツミの手を握った。
「そうだな。今でも、あの時の音楽が僕の中に流れてる」
そして、ナオトは新しいアルバムを作ることを決めた。
そのアルバムのテーマは「帰還」だった。
Swayというバンドがあったからこそ、今の自分がある。
あの頃の仲間たち、あの熱い瞬間が、今でも彼を支えているのだと、彼は改めて感じていた。
Swayが解散しても、音楽というものが持つ力は消えない。
それぞれが選んだ道の先で、必ず音楽は生き続けるのだ。
だから、ナオトは歌い続ける。
どこかで、またみんなが繋がる日が来ることを信じて。
ある晩、ナオトは自宅のスタジオでギターを弾いていた。
その曲は、まさに彼がずっと歌いたかった「Money」から続く、彼なりの答えだった。
夢を追い、仲間と音楽を作り、どんなに遠くに行っても、音楽が自分を支えてくれる。
最後のメロディを弾き終えたとき、ナオトは微笑んだ。
「ありがとう、Sway」
それが、彼が最初に歌った言葉だった。
『絆の音』
ナオトのスタジオには、少しだけ懐かしい香りが漂っていた。
あの頃の熱気、汗と涙と笑顔が、今でも壁にこびりついているような気がする。
彼はギターを手に取ると、静かな音を鳴らし始めた。
その音は、まるで時間を越えて、あの頃の自分たちの気持ちを呼び戻すかのようだった。
数ヶ月前、ナオトがリリースした新しいアルバムがヒットし、
ソロアーティストとしての道を確立したが、心の中で常に感じていたのは、
Swayというバンドが残した“音”だった。
それは今でも、ナオトの歌に響いている。
ある日、ナオトはふと、ユメから電話を受けた。
「ナオト、元気?」
その声には懐かしさが詰まっていて、彼は思わず笑みを浮かべた。
「元気だよ。お前は?」
「私は変わらず、色々やってるよ。あ、そうだ、ちょっと話したいことがあって」
ユメの声が少し真剣になった。
「実は、トオルが今度大きなライブをするんだ。バンドのメンバーも集まってるって言ってて、
ナオト、どうしても来てほしいんだ」
ナオトは一瞬沈黙した。
「それって、Swayのメンバー…?」
「うん。なんか、バンドとしてはもうできないけど、音楽でまた繋がりたいって言ってたんだ。
あの頃の熱を、もう一度感じてみたいんだろうな」
ナオトの心は、どこか温かくなった。
彼はギターを置いて、ゆっくりと答えた。
「分かった。俺も行くよ。久しぶりに、みんなで音を鳴らしてみよう」
その夜、ナオトはスタジオに向かう準備を始めた。
久しぶりに会うユメ、トオル、そしてあの頃のSwayのメンバーたち。
バンドとしての再結成ではなくても、その音楽の絆が今でも確かに存在していることを、彼は感じていた。
ライブの日、会場に足を運んだナオトは、ステージの裏で他のメンバーたちと再会した。
ユメが笑顔で迎えてくれて、トオルも少し照れくさそうに彼を見つめた。
「久しぶりだな、ナオト」
トオルの声に、ナオトは微笑んだ。
「お前のベース、どんどんカッコよくなってるな」
「お前の歌もな」
ユメが横から言った。「俺たちの音楽が、今でも続いてるみたいだなって思うよ」
その言葉に、ナオトは少しだけ胸が熱くなった。
あの頃のSwayが、形を変えて今でも音楽を通じて繋がっている。それが彼にとっては何よりの喜びだった。
ライブが始まり、ステージに立った彼らは、まるで時を超えて再び同じ空間に集まったかのような感覚を味わっていた。
一曲一曲、音を重ねるたびに、あの頃の熱い気持ちが蘇り、まるでバンドが再び一つになったかのようだった。
ライブが終わった後、楽屋にみんなが集まっていた。
「ありがとう、ナオト」
ユメが言った。「あの時の音楽が、今も続いてるって、信じてたよ」
ナオトは静かに頷き、ギターを手に取った。
「俺たちの音楽は、あの時だけじゃ終わらない。
俺はずっと歌い続けるし、お前らもそれぞれの場所で音楽を続けるだろ?」
トオルが微笑んだ。
「お前がそう言ってくれるなら、俺も音楽を続ける。
どんな形であれ、音楽が繋がる限り、俺たちはバンドだ」
ナオトは、ギターを弾き始めた。
その音が、部屋に響き渡る。
まるで、彼らの音楽が永遠に続くかのように。
その後、ナオトはソロとして活動を続けながらも、時折、Swayのメンバーと集まり、音楽を奏でた。
どんな形であれ、音楽が彼らを繋げている限り、Swayというバンドの絆は永遠に続くのだろう。
そして、ナオトは知っていた。
音楽は、形を変えても、決して消えることはない。
それぞれが歩む道の先で、いつかまた、彼らの音楽が交わる日が来ることを信じて。

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『怪獣の腹の中で』を……どうしても、私の手で「紙の本」にしたいんです……っ!
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