見出し画像

人狼も大喜利も交渉ゲームも、苦手な理由は同じだった

人狼系ゲーム、交渉ゲーム、大喜利系ゲーム。私はこの3つが苦手だ。ここでいう苦手とは「不得意」ではなく「嫌い」の方だ。嫌いという言葉は強すぎるので、苦手と呼んでいる。この後出てくる「苦手」は基本的に後者の方だと思って読んでほしい。

同じようにこの3つが苦手と言っている人を見かけることがある。一見、3つはバラバラなジャンルに見える。なぜだろうか。

嘘と論理の人狼、駆け引きの交渉、瞬発力の大喜利、それでも私は同じ理由で苦手だと考えている。それはなぜか、つらつら書いてみようと思う。

いくつか仮説はあるけれど

まず思いつくのは「会話が必要だから」という仮説だ。たしかにこの3つは、黙々と最適手を計算するタイプのゲームではない。だが私は人と話すのが好きだし、会話を前提とする共感系のパーティーゲームは平気で楽しめる。「コミュニケーションが必要」というラベルだけでは、この線引きを説明できない。

次に「嘘をつくのが嫌だから」という仮説。これは人狼については確かによく言われる。日本人は嘘に抵抗を感じる人が多い、といった文脈で語られたりもする。実際、人狼の理由としてはかなり当てはまる。しかし交渉ゲームは別に嘘をつかなくても成立するし、大喜利系はそもそも嘘の話ですらない。3つを束ねる説明にはなっていない。

私なりの答えはこうだ。この3つの共通項は「ロールプレイ要求」である。ちゃんと攻略しようとすると、自分以外の人格を演じることが必要になる。私が苦手なのはそこだ。

ただし、ここで言う「ロールプレイ」は、TRPGや演劇のような「架空のキャラクターになりきること」ではない。私の言うロールプレイとは、普段の自分なら選ばない価値観や行動原理を「ゲームだから」という理由で引き受けることだ。エルフの魔法使いを演じる話ではなく、ゲーム中だけ「人を騙す」という行動原理にスイッチを入れる、そういう話だ。この呼び方自体が、この文章で言いたいことの半分でもある。

人狼系:嘘と詰めのロールプレイ

人狼系で要求されるのは、嘘でごまかし、論理で人を詰めるロールプレイだ。素のままで「嘘がうまく、人を詰める人」として振る舞える人はそう多くない。私はその方向に振る舞いたいと思っていないし、振る舞おうとすると行動原理の切り替えが必要になる。

他にも、信頼を勝ち取るために言葉を尽くすというロールプレイも必要だろう。それもロールプレイなの?と思われるかもしれないが、私は普段の振る舞いとして、言葉を尽くして信頼を得ようとしていない気がする。だからロールプレイになってしまうのだ。勘違いされることも多いが、まぁそれは仕方ない。

嘘をつく点では、人狼の縮小版とも言えるブラフ系ゲーム(ごきぶりポーカーやチャオチャオなど)も、同じグラデーション上にある。私はブラフ系程度の嘘ならゲームの戦術内として許容できているが、「嘘をつくキャラを演じたくない」という理由でブラフ系すら苦手にしている人はわりと見かける。これも構造としては人狼と地続きの問題だと思う。

交渉ゲーム:人心掌握のロールプレイ

交渉ゲームで要求されるのは、人心掌握のロールプレイだ。ここで言う交渉とは、相手をだまして自分を有利にすることだけではない。むしろ、大局観で先を見据えて信頼を勝ち取る力に近い。普段の生活でそういう交渉が得意な人はそのまま交渉ゲームが得意で、好きでもあるはずだ。私は普段から交渉事が得意でも好きでもない。だからゲームの中でそれをやろうとすると、行動原理の切り替えが起きる。

ちなみに私はリアルのカタンよりアプリのカタンのほうがまだ楽しめる。アプリ版は顔を合わせていないため交渉がシンプルで、ロールプレイをしている感じがない。つまり私が苦手なのは交渉という要素そのものではなく、リアルな交渉の世界をゲームの中に持ち込むロールプレイの部分だ、と切り分けられる。

ここまでで見えてきたこと

人狼と交渉の話をしてきて、共通しているのは「普段の自分の行動原理から切り替えて振る舞うことが攻略上要求される」という構造だ。素でできる人もいるが、私はそうではない。だから切り替えるしかなくなる。

このあと触れる大喜利も、表面的には別ジャンルに見えて、同じ構造を持っている。

大喜利系:面白い人のロールプレイ

大喜利系で要求されるのは、面白い人のロールプレイだ。本当に面白い人はこれを演じていない。素で面白いから、そのまま強い。だが私のように素では面白くない人にとっては、面白い人として振る舞う切り替えが攻略要件になる。

しかも大喜利系には二重の構造がある。面白いお題やワードを出す「作り手の演技」と、出てきたものに反応する「受け手の演技」だ。場が盛り上がらないとゲーム自体が成立しないので、微妙な答えにも笑ったり乗ったりすることがプレイヤー全員に薄く要求される。私はどちらの演技もあまりやりたくない。

演技しなければいいじゃないか、という声もあるかもしれないが、私は全員で楽しくボードゲームを遊びたいのだ。ワードを発表した人に対してシーンとすることがいいことだとは、とても思えない。

大喜利系の中にもグラデーションがある。「私の世界の見方」のように手札を一枚出すだけのタイプは、作り手の演技がほぼ不要で、まだ許容できる(といっても積極的に遊ばないが)。逆に、言葉を組み合わせて面白いワードを作るようなタイプは、作り手と受け手の二重演技が全開で要求されて、私には負荷が高い。

余談だが、私は大喜利系のゲームが割と得意だ。完全な大喜利はできないが、ボードゲームの大喜利にはガードレールがあり、指標がある。その上での「面白い人のロールプレイ」が得意なのかもしれない。ただ実際の私は特段面白いことを言う人ではない。得意かどうかと好き嫌いは別物のようだ。

3ジャンルの構造の違い

ここまでは「3つともロールプレイ要求があるから苦手」という同じ理由で並べてきた。ただ、もう一段深く見ると、3ジャンルの間には微妙な違いがある。

交渉ゲームと大喜利系は、素で強い人がそのまま強いジャンルだ。素で人心掌握が上手い人は交渉ゲームで強い。素で面白い人は大喜利系で強い。私はどちらでもないので切り替えで埋めるしかない。

人狼系はこれと少し違うと思っている。人狼で必要な「信頼を勝ち取る能力」と「人を詰める能力」は、普段の生活の中で両立しにくい。人を詰める振る舞いをする人は、その振る舞いのゆえに信頼を得にくい。だから両方を素のままで備えている人は構造上ほぼいない。仮に弁が立って、人から信頼され、嘘がうまい人がいたとしても、その人は普段の生活で人を詰めてはいないはずだ。だから人狼では「人を詰める」部分をロールプレイすることになる。結果として、ほとんどのプレイヤーは何かしらの演技で補うことになる。

だから人狼が好き(得意)な人は、「性格が悪い」でも「人を詰めるのが好き」でもなく、「演技(ロールプレイ)が好き」なんじゃないか、と私は考えている。

ロールプレイかどうかは、人による

「結局、ゲーム外能力を持ち込まされるのが嫌なんだろう」と思った人もいるかもしれない。だがそれは違う。

そもそもボードゲームというのは、それ自体が「みんなで楽しく遊ぶ」というゲーム外の能力をプレイヤーに要求している。パーティーゲームと呼ばれるジャンルでは、その要求がさらに強い。盛り上げ、リアクション、テンポを保つ会話。これらはすべてゲームのルールには書かれていない、プレイヤーが持ち込む能力だ。私はパーティーゲームも普通に楽しめる。ゲーム外能力の持ち込み自体が嫌なら、ボードゲーム趣味そのものが成立しない(とまではいわないが…)。

例えば共感を扱い、メジャー思考を目指すような協力ゲームでは、私は相手に共感して合わせようとする。これもゲーム外能力の持ち込みだ。だがこの行為は、私にとって価値観の切り替えを伴わない。普段の自分が拒否していない行為だからだ。だから演技にならない(なお、共感しようとした結果、実際にできているかどうかは別問題で、それは私の共感力の話だ)。

つまり、私が嫌なのは「ゲーム外能力を持ち込むこと」ではない。自分の行動原理を切り替えて、普段とは違う振る舞いをすることが嫌なのだ。人狼で人を詰めるとき、交渉で人心掌握するとき、大喜利で面白いことを言おうとするとき、私は普段の自分ならしない選択をしている。だから切り替えが起きる。

だとすると「共感が苦手な人にとっては、共感ゲーこそが演技を強いる苦手ジャンルになるのでは?」と思った人がいるかもしれない。その通りだ。「相手に合わせる」ことが普段の自分の行動原理に含まれていない人にとっては、共感ゲーで「共感しようとする」ということ自体が切り替えになる。

同じゲームで同じ行為をしていても、プレイヤーの素と要求される行為の距離によって、それが演技になるかどうかは変わる。ジャンル側の固定的な性質ではなく、プレイヤーごとに何が「自分の行動原理の切り替え」になるかという主観の問題だ。

なぜ演じるのが嫌なのか

ここまで「ロールプレイが苦手だから3ジャンルが苦手だ」という話をしてきた。ではなぜ演じることがそんなに嫌なのか。

実はこれはゲームに限った話ではない。私はマダミスもTRPGもあまり好きではない。謎解きも、謎を解く部分は好きだがロールプレイに偏ったものはいまいちだ。演劇をしたいと思ったこともないし、別人になりきるコスプレのような願望も一切持ったことがない。

つまり私は、ゲームというフィクションの枠組みを使ってもなお、素の自分のままで世界と対峙したい人間なのだと思う。もう少し正確に言えば、「ゲームだから」「ロールだから」「フィクションだから」という理由で自分の行動原理を切り替えること自体が、私には根本的に向いていない。普段の自分は人を騙さない。だから人狼で「ゲームだから人を騙す」というスイッチを入れる、その切り替えが苦手なんだろう。

おわりに

「パーティーゲーム」「コミュニケーションゲーム」というジャンル名では、私が苦手なものと苦手でないものを区別できない。「ロールプレイ要求度」という軸で見ると、私の好みの内訳はきれいに説明できる。そしてその軸は、人によって何が「切り替え」になるかが違うので、同じゲームでも好き嫌いの理由は変わる。 

こんな考え方もある、というだけの話だ。私と同じように人狼・交渉・大喜利が苦手な人がいたら、自分がどんな「スイッチ」を入れているのか考えてみると、案外すっきりするかもしれない。


いいなと思ったら応援しよう!