「外国人」であるということ
「外国人」であることは、人と人を近くする。
自分の国から出てしまえば、人と人を分けるのは「外国人」かそうでないかという極めて単純な二項対立になるからだ。
今日は、ウズベキスタンに長期滞在するうえで必要な個人番号「PINFL」(Personal Identification Number)を取得するために、大学に在籍する外国人が集まって、なにがしかの行政施設へ向かった。(何の施設だったのかはわからずじまいだ。)
そこでは、実に多様な人々が同じように列をなし、密室で行われる謎の行政処理を待っているのだった。かくいう私たちのグループのメンバーも、スペイン、カザフスタン、中国、オーストリア、日本出身と国際色豊かであった。
メンバーのうち、3人は学生ではなく教師であった。日本であれば、教師、しかも大学で教えている研究者となれば、気軽に会話するのは気後れするものである。しかし、これから待ち受けている行政処理の前において、私たちはみな平等だった。同じように不安で、同じように戸惑っていた。そのことが私を少し勇気づけるのだった。
PINFLの取得自体は、きわめて単純で、ただオフィスに入って、指紋を採取され、電話番号を答え、パスポートを見せるというものだった。その後、指定された金額を支払い、手続きは終了。
しかし、いかんせん、手続きが密室で行われ、しかもそのオフィスが一つしかないので長い行列ができていた。
手続きがすべて終了した後は、お昼ご飯タイムである。
長い手続きを終え、ピザレストランBellissimo Pizzaにつく頃には、初対面だった私たちにも一種の絆のようなものが芽生えていた。
そのうち、メンバーの一人がグループのWhatsAppグループを作ろうという提案をした。彼女が提案したグループ名は「XXXAlien」(XXXは大学名)。
Alienというのは極めて暴力的なことばだ、と感じる。
このことばの中心的な意味は、「奇妙な、よくわからない」というものである。そこから派生して、「異なる人種、国、グループから来たもの」「地球外生命体」という意味もある。
つまり、このことばは、一人ひとりが持つ個性を消し、奇妙でよくわからない「Alien」というカテゴリに私たちを押し込めてしまうのである。
しかし、彼女の提案はメンバーに大歓迎で受け入れられた。
「Alien」という、ともすれば差別的なラベルを自分から貼りにいく。なんだかクールではないか。みんなそう思ったのだろう。
ここで私の頭に浮かんだのは「クィア Queer」ということばだった。このことばは、もともと性的少数者を侮蔑することばとして用いられ、「奇妙な、風変わりな」という意味を持っていたらしい。しかし、1990年代ごろから、クィアと呼ばれていた人々自身が、自分たちのアイデンティティを表象することばとして積極的に使い出したらしい。現在では、このことばは学術的にも極めて肯定的なことばとして扱われている。
Alienとして、この地で生きること、不安なことも山積みだが、なんだか頑張れそう、そう思えた時間だった。
