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第一話 あと五日(前編)

八月二十七日

「ひまり、宿題、全部終わってるの?」

台所からお母さんの声がした。

宮本ひまりは、テレビの中のスイカを見たまま返事をしなかった。

目隠しをした男の人が、棒を持って右へ行ったり左へ行ったりしている。

そこ。

もうちょっと。

「あー」

棒はスイカの横の砂を叩いた。

「ひまり」

今度は少し声が大きかった。

「なに?」

「宿題」

「ああ」

「全部終わってるの?」

ひまりは少し考えた。

終わっている、と言っていいと思った。

算数のドリルは終わった。

国語のプリントも終わった。

絵日記は二枚のうち一枚を書いた。もう一枚も何を書くかは決めている。御影のばあばの家に泊まった日のことだ。

読書カードは三冊のうち二冊。

残りの一冊は、まだ本を半分くらいしか読んでいない。

計算カードもある。

でも、あれは毎日やるものなので、宿題とはちょっと違う。

「終わってるで」

「ほんまに?」

「うん」

テレビでは次の人が棒を持っていた。

台所からお母さんが顔を出した。

「じゃあ、あとで見せてな」

「え?」

「宿題」

「あとでな」

お母さんはそれ以上何も言わず、台所へ戻った。

ひまりはテレビを見た。

次の人はスイカに当てた。

半分に割れた。

でも、もうあまり面白くなかった。

部屋の隅にランドセルがあった。

その横に、夏休みの宿題をまとめた青いファイルが立ててある。

ひまりはしばらく見ないようにしていた。

それから、見た。

何か忘れている気がした。

「あ」

立ち上がってファイルを開く。

算数。

国語。

夏休みの生活。

絵日記。

読書カード。

その一番下から、四つ折りになった紙が出てきた。

夏休みの思い出新聞。

ひまりは手を止めた。

大きな紙に、夏休みの思い出を絵と文章で書く。

白紙だった。

しばらく、そのまま見ていた。

すっかり忘れていた。

思い出したというより、見つけてしまった、という感じがした。

ひまりは紙を閉じた。

もう一度開いた。

やっぱり白紙だった。

壁のカレンダーを見る。

八月。

ところどころに、お母さんの字が書いてある。

須磨。

盆おどり。

ばあば。

今日のところには小さな磁石がついていた。

二十七日。

ひまりはその先を指でたどった。

二十八。

二十九。

三十。

三十一。

「……五日」

もう一度数えた。

二十七、二十八、二十九、三十、三十一。

五日しかなかった。

夏休みが始まったころは、八月三十一日なんてずっと先だった。

七月のカレンダーの横に八月があって、その一番最後にある日だった。

今は、指一本ずつで数えられる。

「ひまり」

お母さんが呼んだ。

「宿題持ってきて」

やっぱり忘れていなかった。

午前十時半。

ひまりは机に座っていた。

窓の外では蝉が鳴いている。

一匹が鳴き終わる前に、別の蝉が鳴く。

その上から、また別の蝉が鳴く。

ときどき家の向こうから阪神電車の音が聞こえた。

ひまりは鉛筆を持ったまま窓を見ていた。

「おねえちゃん」

蒼太が部屋に入ってきた。

「なに?」

「今日、どっか行くん?」

「知らん」

「夙川?」

「まだ決まってへん」

蒼太は机の横に立った。

「ぼくも行きたい」

「まだ行くって言ってへんやん」

「でも行くんやろ」

ひまりは新聞を見た。

「宿題終わったら」

「じゃあ早くやったら?」

「今やってるし」

蒼太は白い紙を覗いた。

「全然書いてないやん」

ひまりは紙を腕で隠した。

「今から書くねん」

「何書くん?」

「知らん」

「知らんのにできるん?」

「できるねん」

蒼太は納得していない顔をした。

それから部屋を出ていった。

ひまりは少しだけ腹が立った。

四歳のくせに、たまに余計なことを言う。

目の前には『夏休みの思い出新聞』がある。

何を書こう。

須磨。

盆踊り。

ばあばの家。

須磨へ行ったのは、ずいぶん前のような気がした。

三週間くらい前だった。

朝からお父さんの車に乗った。

蒼太は海が見える前から何度も「もう海?」と聞いた。

須磨海岸の砂は熱かった。

お父さんに浮き輪を引っ張ってもらった。

波が来ると身体がふわっと上がった。

蒼太は最初、お母さんから離れなかったのに、帰るときには泣いた。

盆踊りでは、近所の小学校の校庭に提灯が並んでいた。

ひまりは青いかき氷。

蒼太は赤いかき氷。

二人とも舌に色がついた。

御影のばあばの家へ行った日は、従姉妹とトランプをした。

香櫨園から阪神電車に乗った。

すぐに着いた。

でも、泊まったので旅行だった。

どれも楽しかった。

どれを書くかは決まらなかった。

窓の外で、自転車のベルが鳴った。

ひまりは顔を上げた。

二人の子どもが道を走っていく。

夙川の方だった。

「お母さーん」

返事がない。

「お母さーん!」

「なにー?」

「夙川行ってきていい?」

「宿題は?」

ひまりは白い新聞を見た。

「今やってる!」

「終わってから!」

それで終わった。

ひまりは新聞の一番上に、

『なつやすみのおもいで』

と書いた。

そこから、またしばらく止まった。

十分ほどして、お母さんが麦茶を持ってきた。

「進んだ?」

ひまりは新聞を見せた。

「見出しだけやん」

「考えてんねん」

「何を?」

「何書くか」

お母さんは紙を見た。

「一番楽しかったこと書いたら?」

それが分からないから困っているのだ。

大人はたまに、答えになっていない答えを言う。

昼はそうめんだった。

食べ終わってからも新聞を書いた。

午後になって、ようやくできた。

盆踊りのことにした。

かき氷の絵が一番描きやすかった。

青いかき氷と赤いかき氷。

自分と蒼太。

後ろに提灯。

文章は七行になった。

十行書くところだったので、途中から字を少し大きくした。

一番下まで届いた。

「できた」

新聞を持って台所へ行った。

お母さんが洗い物の手を止めた。

「ええやん」

ひまりは新聞をもう一度見た。

なかなかよくできていると思った。

「読書カードは?」

お母さんが言った。

ひまりは新聞を下ろした。

「今日読む」

「いつ?」

「あとで」

「昨日もあとでって言ってたで」

「今日は読む」

お母さんは少し黙った。

「五時半までに帰ってくるんやったら、遊びに行っていいよ」

「ほんま?」

「遅れたら明日はなし」

「分かった」

「水筒持って」

「うん」

「帽子も」

ひまりが立ち上がると、お母さんも冷蔵庫の横に置いていた買い物袋を手に取った。

「蒼太、そろそろ買い物行くで」

廊下で遊んでいた蒼太が顔を上げた。

「どこ行くん?」

「スーパー」

お母さんが答えた。

その横で、ひまりは帽子をかぶった。

蒼太がひまりを見る。

「おねえちゃんは?」

「夙川」

「なんで?」

「友達と遊ぶから」

蒼太は少し黙った。

「ぼくも夙川行く」

「蒼太はお母さんと買い物やろ」

「いやや」

「さっきスーパー行くって言ってたやん」

お母さんが言った。

「言ってない」

「言ったで」

「言ってない!」

蒼太は少し声を大きくした。

「ぼくもおねえちゃんと行く!」

「無理やって」

ひまりが靴を履きながら言った。

「なんで?」

「友達と遊ぶから」

「ぼくも遊ぶ」

「蒼太の友達ちゃうやん」

「遊べるもん」

「今日はあかん」

お母さんが言った。

蒼太の顔がくしゃっとなった。

「ずるい!」

「何が?」

ひまりが振り向く。

「おねえちゃんだけ遊びに行くのずるい!」

「ずるくないし」

「ぼくは買い物やのに!」

「買い物も楽しいやん」

「楽しくない!」

お母さんが笑った。

「この前、お菓子選んでたやん」

「今日はお菓子いらん!」

「ほんま?」

「いらん!」

少し間があった。

蒼太はお母さんの顔を見た。

「……グミは?」

「買わへんで」

「じゃあ行かへん!」

「行くで」

お母さんは淡々と言った。

蒼太はその場に座り込んだ。

「いやや。夙川行く」

ひまりは玄関で靴のかかとを直した。

少しかわいそうな気もした。

でも、一緒に来られるのは困る。

「帰ってきたら遊んだるから」

ひまりが言った。

蒼太は床に座ったまま顔を上げた。

「何して?」

「知らん」

「トミカ?」

「たぶん」

「絶対?」

「絶対は無理」

「なんで?」

「分からんもん」

蒼太は納得していない顔をした。

お母さんが買い物袋を持ち直した。

「ほら蒼太、行くで。お姉ちゃんももう行くんやろ」

「うん」

ひまりはドアを開けた。

外の熱気が玄関に入ってきた。

背中の方で、蒼太がまだ「ずるい」と言っている。

「行ってきます」

「五時半やで」

お母さんが言った。

「分かってる!」

ひまりは外へ出た。

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