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第三話 父の夏休み(後編)

「親父も結構若かったんやな」

口にすると、それだけだった。

蚊が腕に止まった。

直人は叩いた。

外れた。

もう一度スポンジを動かした。

記憶の中の父は、ずっと大人だった。

けれど、甲山で蝉を追いかけていた男は、今の自分より若かった。

父は子どもを楽しませるために、あんなに走っていたのだろうか。

そうだったのかもしれない。

そうでなかったのかもしれない。

ただ、蝉を見つけるたびに、

「おった、おった」

と言っていた。

あの声は楽しそうだった。

直人は花を替えた。

線香に火をつける。

一度ではつかなかった。

風で消えた。

もう一度ライターを押す。

今度はついた。

線香を立てると、細い煙が上がり、途中で横へ流れた。

直人は手を合わせた。

目を閉じる。

何を言えばいいのか分からなかった。

元気でやっています、と言うのも妙だった。

母さんも元気です、と言ったところで、昨日母が来ている。

息子も大きくなりました。

そこまで考えて、やめた。

甲山の木が浮かんだ。

虫取り網が動く。

「直人、おったぞ」

父がこちらを振り返る。

直人は目を開けた。

線香の煙が消えかかっていた。

墓地を出るころには、シャツの背中が汗で張りついていた。

車に戻り、冷房を強くする。

スマートフォンを見ると、妻からメッセージが届いていた。

息子がリビングの床に寝転がっている写真だった。

横には夏休みの宿題らしい冊子が開かれている。

鉛筆を持ったまま、テレビを見ている。

《全然やらへん》

直人は写真を少し拡大した。

《帰ったら俺から言うわ》

そう打った。

送信する前に消した。

《まあ、まだ間に合うやろ》

と打ち直した。

すぐに返事が来た。

《甘い》

直人は笑った。

スマートフォンを助手席へ置き、車を出した。

満池谷から香櫨園へ戻る。

山から海側へ下っていく。

途中の交差点で、また考える前に車線を変えた。

帰り道も覚えていた。

実家のマンションに着いた。

駐車場へ車を入れる。

朝、女の子がいた植え込みの前には、もう誰もいなかった。

直人は車を停め、エンジンを切った。

外へ出る。

熱気が身体を包んだ。

駐車場の向こうから母が歩いてきた。

日傘を差し、スーパーの袋を提げている。

「どこ行ってたん」

直人が聞いた。

「買い物」

「暑いやろ」

「暑いよ」

「俺帰るまで待っといたらよかったのに」

「そんなん待ってたら昼ご飯遅なるやん」

直人は母の持っている袋を受け取った。

思ったより重かった。

「墓、きれいにしてくれた?」

「一応」

「暑かったやろ」

「暑かった」

「せやから帽子かぶっていき言うたのに」

またそれだった。

二人でマンションへ向かった。

近くの木で蝉が鳴いた。

直人は足を止めた。

幹を探す。

声は近い。

けれど姿は見えない。

「何してんの」

少し先を歩いていた母が振り返った。

「いや」

直人は木から目を離した。

「何でもない」

スーパーの袋を持ち直して、母のあとを追った。

後ろで、蝉はまだ鳴いていた。

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