見出し画像

第四話 来年の夏(後編)

翌朝。

澄江は、廊下を行き来する足音で目を覚ました。

何時だろうと思って枕元の時計を見ると、六時を少し回ったところだった。

カーテンの隙間から、もう朝の光が入っている。

一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。

白い天井。

薄いカーテン。

腕につながった点滴。

それを順番に見て、兵庫医大にいることを思い出した。

身体を動かしてみた。

昨日とは違った。

まず右手を開いた。

それから握った。

ちゃんと指が動く。

今度は左手も握った。

昨日、救急車の中で救急隊員に「手、握れますか」と言われたことを思い出した。

あのときは握っているつもりなのに、自分の手ではないようだった。

今日は違う。

掛け布団の中で足の指も動かしてみた。

動く。

澄江はゆっくり身体を起こした。

少し頭が重かったが、昨日のようなだるさはない。

喉が渇いていた。

枕元の水を取って飲んだ。

冷たくはなかったが、おいしかった。

昨日は水を飲みたいとも思わなかった。

それを思い出して、もう一口飲んだ。

廊下では、看護師たちが話す声がしている。

どこかの病室からテレビの音も聞こえてきた。

少しすると、朝食の載ったワゴンが廊下を通っていった。

病院にも朝が来るんやな。

当たり前のことを思った。

カーテンを開けると、窓の外はもう明るかった。

線路をまたいで住宅街が広がっている。

屋根の間に細い道が見える。

ベランダに洗濯物を干している家もあった。

昨日、自分があれほど心細い夜を過ごしていた間にも、向こうの家では晩ご飯を食べ、風呂に入り、眠って、また朝を迎えたのだろう。

阪神電車が一本走っていった。

夫の見舞いに来ていたころは、自分があの電車に乗っていた。

武庫川駅で降りて、病院へ向かった。

暑い日もあった。

雨の日もあった。

帰りの電車では、空いていれば座った。

座れなければ、扉のそばに立った。

何を考えていたのかは、もう覚えていない。

病院の窓を見上げた記憶もなかった。

今は、その窓の内側に自分がいる。

朝食が運ばれてきた。

ご飯と味噌汁、それに小さなおかずがいくつか載っていた。

昨日なら食べたいとは思わなかっただろう。

今日は味噌汁の匂いを嗅ぐと、少し腹が減っていることに気づいた。

全部は食べられなかったが、ご飯は半分以上食べた。

味噌汁は残さなかった。

食器が下げられたあと、澄江はもう一度窓の外を見た。

身体を起こしているのもしんどくない。

昨夜とは違う。

そういえば。

ふいに思った。

豆腐、どうなったんやろ。

甲子園口で買った豆腐だった。

救急車に乗せられたとき、買い物袋をどうしたのか覚えていない。

誰かが娘に渡してくれたのだろうか。

ちゃんと冷蔵庫に入っているだろうか。

それから、ベランダの植木を思い出した。

鉢が三つある。

長く育てているゼラニウムと、去年買った花が二鉢。

花の名前は忘れた。

名前など知らなくても、水をやれば育つ。

澄江は枕元のスマートフォンを手に取った。

娘に電話しようかと思った。

けれど、やめた。

昨日、見舞いに来たときにも聞いている。

「植木、水やってくれた?」

「やったよ」

「朝?」

「朝」

「昼間はあかんで」

「分かってるって」

「鉢の下、乾いてへんかった?」

「お母さん」

娘は呆れた顔をした。

「病院におる人が植木の心配せんでええねん」

澄江はスマートフォンを枕元へ戻した。

今日も娘は来ると言っていた。

そのとき聞けばいい。

窓の外では、もう夏の日差しが住宅街を照らしていた。

テレビでは、夏休み最後の週末の話をしていた。

画面の中で、小学生くらいの子どもが笑っている。

宿題がまだ残っているらしい。

血圧を測りに来た看護師もテレビを振り返った。

「夏休み、もう終わりなんですね」

澄江が言った。

「そうみたいですね。うちの甥っ子も宿題終わってないって言ってました」

「毎年おんなじやねえ」

「田辺さんも最後にやるタイプでした?」

「どうやったかなあ」

澄江は笑った。

自分の夏休みは、もうどの夏だったのか分からない。

川で遊んだこと。

蚊帳の中で寝たこと。

そういうものだけが、年をなくして残っている。

子どもたちが小さかったころの夏には、麦茶を大きな容器いっぱいに作った。

洗っても洗っても、洗濯物が出た。

夜になると、日に焼けた肩に冷たいタオルを当てた。

何年だったのかは、もう分からない。

それでも、夏だったことだけは分かる。

昼前、医師が病室へ来た。

「田辺さん、調子どうですか」

「もう何ともないですよ」

澄江はすぐに答えた。

医師は手元の紙を見た。

「昨日までの検査結果ですけど、大きな異常は見つかっていません」

澄江は医師の顔を見た。

「ほら、何もなかったやろ」

医師が一瞬黙って、それから笑った。

「何もないのが一番です」

「そやったら、入院せんでもよかったんちゃいます?」

「そこは結果を見たから言えることですからね」

そう言われると、返す言葉がなかった。

澄江は布団の上に置いた手を見た。

指先の力は、もう戻っていた。

医師はいくつかの検査結果について説明した。

数字を言われてもよく分からなかったが、ともかく心配するような病気は見つからなかったらしい。

「このあとも体調に問題がなければ、夕方には退院して大丈夫です」

「今日帰れるんですか」

「はい。ただ、帰ってからもしばらくは無理しないでください」

澄江の顔が少し緩んだ。

「ほな、よかった」

「ただ」

医師が続けた。

「今回、かなり暑い時間帯に歩かれてますよね」

「まあ、ちょっとだけですけど」

「今年は特に暑いですし、年齢もありますから。暑い日はあまり無理をしないようにしてください」

「はいはい」

澄江は答えた。

医師が病室を出たあとも、その言葉だけが残った。

年齢もありますから。

七十九なのだから、年齢はある。

そんなことは知っている。

それでも医者に言われると、自分の年齢を初めて他人から渡されたような気がした。

午後になると、点滴も外れた。

腕が自由になると、それだけで急に退院が近づいた気がした。

澄江はカーディガンを畳み、娘が持ってきた袋に入れた。

歯ブラシ。

充電器。

メモ帳。

昨日はどれも娘が持ってきてくれたものだった。

たった一晩なのに、病室の棚には自分の物がいくつか増えていた。

それを一つずつ袋へ戻していく。

家へ帰る準備だった。

三時を過ぎたころ、娘から電話があった。

「四時半くらいには着くから」

「そんなん急がんでええで」

「先生から迎えに来てって言われてるし」

「電車で帰れるのに」

「昨日倒れた人が何言うてんの」

「もう元気やって」

「はいはい」

電話が切れた。

澄江はスマートフォンを置いた。

自分も朝、医者に同じ返事をしたなと思った。

しばらくして、看護師が最後の血圧を測りに来た。

「田辺さん、もうすぐですね」

「やっと帰れるわ」

「一泊だけですけどね」

「一泊でも長いわ」

看護師が笑った。

「帰ったら何するんですか?」

「まず植木見なあかん」

「お花育ててるんですか」

「三つだけ」

「娘さんが水やってくれてるんですよね」

「やった言うてるけど、自分で見んと分からんから」

「この暑さじゃ、植物も大変ですね」

看護師が窓の方を見た。

「今年も暑いですねえ」

「ほんまに」

「来年はもっと暑くなるんですかね」

澄江は笑った。

「かなわんわ」

看護師も笑った。

それだけの会話だった。

看護師が病室を出ていったあと、澄江は窓の外を見た。

来年。

さっきの言葉が、なぜか少しだけ残っていた。

来年の夏。

別に珍しい言葉ではない。

七十九年間、何度使ったか分からない。

若いころは、来ることを疑ったことなどなかった。

今年の次には来年がある。

それだけだった。

澄江は線路の向こうの住宅街を眺めた。

来年も、暑いんやろか。

来年は、買い物は朝にしよう。

植木にも、朝のうちに水をやる。

そこまで考えて、澄江は少し笑った。

何を来年の予定まで考えてるんやろ。

四時半を少し過ぎて、娘が病室へ入ってきた。

「準備できてる?」

「とっくにできてる」

「せっかちやなあ」

「いつまでおらなあかんねん」

娘はベッド脇の袋を持ち上げた。

「これだけ?」

「一泊やから」

「忘れ物ない?」

「ない」

澄江はそう答えてから、

「あ、豆腐」

と言った。

娘が振り返った。

「何?」

「昨日買った豆腐、冷蔵庫入れてくれた?」

「ああ、入れたよ」

「賞味期限見た?」

「見てない」

「今日までちゃうかな」

「もう捨てたらええやん」

「何で捨てるの」

「また買えばええやん」

「もったいない」

娘は何も言わなかった。

こういうところは昔から話が合わない。

澄江はベッドの横に置いてあった小さなメモ帳を手に取った。

朝、何となく書こうと思って置いていたものだった。

牛乳。

その下に、

植木。

と書いた。

少し考えて、

豆腐 期限見る。

と付け加えた。

「何書いてんの?」

「帰ってからすること」

「今日くらい何もせんでええやん」

「植木は水いるやろ」

娘はまた何か言いかけて、やめた。

澄江はメモ帳を鞄に入れた。

病室を出る前に、もう一度窓の外を見た。

線路の向こうに住宅街が広がっている。

甲子園駅の方から阪神電車が走ってきた。

そのまま武庫川駅の方へ進んでいく。

「お母さん、行くよ」

娘の声がした。

「はいはい」

澄江は窓から離れた。

病室を出ると、廊下には冷房が効いていた。

エレベーターで下へ降り、手続きを済ませた。

病院の出口が近づくにつれ、ガラス越しの日差しが強くなった。

自動ドアが開いた。

むっとする熱気が身体を包んだ。

澄江は思わず立ち止まった。

「暑っ」

娘が横で言った。

「ほんまやな」

昨日は、この暑さの中から救急車で運ばれてきた。

今日は自分の足で外へ出る。

澄江は日なたを見た。

まだ夏だった。

「車、こっちやで」

娘が歩き出した。

澄江もそのあとをついていった。

帰ったら、まず植木を見る。

それから豆腐の期限を見る。

明日から買い物は朝にしよう。

来年も。

そこまで考えて、澄江はやめた。

駐車場の上に、まだ強い西日が残っていた。

今日も暑かった。

いいなと思ったら応援しよう!

Laughing Literati 記事内容や取り組み、少しでも面白いと思っていただけましたか? ちょっとでも心に残るところがあったなら、うれしく思います。