第四話 来年の夏(前編)
八月三十日
田辺澄江は、ベッドの背を少し起こして、窓の外を眺めていた。
雲ひとつない青空だった。
線路の向こうには住宅街が広がっている。戸建ての屋根も、その間を通る細い道も、強い日差しを受けて白っぽく見えた。
窓の外を見ると、甲子園駅の方から阪神電車が走ってきた。
澄江は何となくそれを目で追った。
窓は閉め切られている。
外は今日もひどく暑いらしい。
けれど病室の中には、その暑さがまるで届かない。
むしろ寒いくらいだった。
澄江は薄い掛け布団を膝まで引き上げた。
テレビでは天気予報が流れている。
今日も阪神地域には熱中症への注意が呼びかけられていた。
不要不急の外出は控えてください。
若い気象予報士がそう言っている。
「そんなん言われてもなあ」
澄江は小さく呟いた。
昨日も、同じようなことを聞いた。
それでも出掛けた。
だから今、ここにいる。
***
昨日も朝から暑かった。
玄関を開けた瞬間から、むっとするような空気だった。
日なたへ出ると、腕がじりじりと焼けた。
家にいればよかったのだ。
今になって考えれば、そう思う。
けれど牛乳が切れていた。
冷蔵庫を開けると、紙パックの底にほんの少し残っているだけだった。
ついでに銀行にも寄りたかった。
どちらも今日でなければならない用事ではなかった。
それでも澄江は帽子をかぶり、日傘を持って家を出た。
甲子園口まで行けば、大抵の用事は済む。
銀行へ寄り、それから買い物をした。
牛乳。
豆腐。
きゅうり。
薄揚げも安くなっていたので、一袋買った。
買い物を終えて商店街を歩き始めたとき、何となく身体がおかしいと思った。
最初は、足が重いだけだった。
歳を取ったらこんなもんや。
そう思った。
少し歩けば家に帰れる。
帰ったら冷房をつける。
麦茶を飲んで、しばらく横になればいい。
それで済むはずだった。
ところが、数十メートル歩いたところで、急に周囲の音が遠くなった。
店から聞こえてくる音楽。
自転車のベル。
誰かの話し声。
全部が薄い膜の向こうから聞こえてくるようだった。
澄江は足を止めた。
日傘を持つ手に力が入らない。
近くの店の壁に手をついた。
口の中が妙に乾いていた。
それなのに、水を飲みたいとも思わなかった。
少し休めば大丈夫。
そう思った。
「大丈夫ですか?」
声をかけられた。
若い女の人だった。
買い物袋を提げている。
「大丈夫です」
澄江は答えた。
自分では、ちゃんと答えたつもりだった。
けれど女の人は心配そうに顔を覗き込んだ。
「顔、真っ白ですよ」
「ちょっと暑かっただけやから」
「座れます?」
「家、帰ったら大丈夫やから」
そう言ったものの、足が動かなかった。
商店街の店から誰かが出てきた。
椅子を持ってきてくれた。
「ここ座り」
澄江は仕方なく腰を下ろした。
水を持ってきてくれた人もいた。
誰かが救急車を呼んだ。
「いや、そんなん呼ばんでもええって」
何度か言った。
誰も聞いてくれなかった。
救急車が商店街へ入ってきたころには、澄江の周囲に小さな人だかりができていた。
それが恥ずかしかった。
こんな大げさなことをせんでもええのに。
そう思っていたのは、担架に乗せられるまでだった。
救急車の中で横になると、急に身体の力が抜けていった。
「手、握れますか」
救急隊員に言われた。
握ったつもりだった。
けれど、自分の手なのに、どれくらい力が入っているのか分からない。
「分かりますか」
「分かります」
答えた声も、自分のものではないように聞こえた。
天井が揺れている。
車が曲がるたびに身体がわずかに傾いた。
さっきまで歩いていた。
銀行へ行った。
買い物をした。
ほんの少し前まで、いつもの一日だった。
それなのに今は、身体を起こすこともできない。
暑さにやられただけや。
澄江はそう考えようとした。
熱中症やろ。
点滴でもしたら帰れる。
けれど、身体に力が入らないという事実だけが、その考えを何度も押し戻した。
救急隊員同士が何か話していた。
血圧や体温らしい数字が聞こえる。
そのあと、
「兵庫医大」
という言葉が聞こえた。
澄江は目を開けた。
「兵庫医大?」
「はい。兵庫医科大学病院に向かってますからね」
澄江はそれだけ聞いて、目を閉じた。
武庫川駅の改札。
病室の白いカーテン。
皮をむいて持っていった梨。
ほとんど手をつけずに残った皿。
夫の手。
ばらばらに浮かんだ。
数年前。
最後の日も、ここだった。
病室の匂いまで戻ってきた気がした。
行き先を変えてほしいと思った。
もちろん、そんなことを言えるはずもなかった。
あかん。
一緒にしたらあかん。
私は暑さで倒れただけや。
そう思った。
それでも、怖かった。
病院に着くと、次々に人がやってきた。
名前を聞かれた。
生年月日を聞かれた。
どこで倒れたのか。
何をしていたのか。
朝から何を食べたのか。
持病はあるか。
薬は飲んでいるか。
何度も同じようなことを答えた。
点滴の針が腕に入った。
しばらくすれば楽になると思った。
ところが、思ったほど身体は戻らなかった。
「まだしんどいですか」
「ちょっと」
血を採られた。
心電図を取られた。
検査が増えた。
念のためですから。
そう言われるたびに、不安になった。
念のため。
夫のときも聞いた言葉だった。
大きな病院だから検査するのだ。
慎重に見ているだけだ。
そう思っても、次の検査を待っている間には別のことを考えた。
もし、熱中症じゃなかったら。
何か見つかったら。
娘には、まだ連絡がついていなかった。
病院の天井を見ながら、澄江は初めて、自分が一人で暮らしていることを心細いと思った。
夫が生きていたら。
そこまで考えて、やめた。
看護師が来た。
「娘さんと連絡つきましたよ。こちらに向かってくださるそうです」
「そうですか」
それだけ答えた。
娘が来たとき、澄江はまだ点滴を受けていた。
「何してんの、お母さん」
娘の顔を見た途端、少し安心した。
だから、
「何もしてへんよ。買い物行ってただけ」
と言えた。
「この暑いのに?」
「牛乳なかってん」
娘は呆れた顔をした。
「牛乳くらい私が買って持っていくやん」
「そんなんで、いちいち呼べへんわ」
しばらくして、医師が検査入院を勧めた。
「家帰ったらあかんのですか」
澄江は聞いた。
「今日は泊まってください。念のため、もう少し検査しましょう」
また、念のためだった。
澄江は嫌だった。
けれど今度は、強く帰るとは言わなかった。
その夜は、あまり眠れなかった。
冷房の音。
廊下を通る足音。
遠くで何かを運ぶ車輪の音。
目を閉じると、白いカーテンの向こうに、別の年の夏が混じった。
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