第二話 まだ夏休み(前編)
八月二十八日
目を覚ましたとき、部屋の中はもう明るかった。
枕元のスマートフォンを手探りでつかむ。
十時二十三分。
藤原航平は画面を見たまま、もう一度目を閉じた。
階下から掃除機の音がする。
母親が休みなのだろう。
このまま寝ていたら、そのうち呼ばれる。
そう思ったが、すぐに起きる気にはならなかった。
夜中に切れたエアコンのせいで、部屋には朝の熱気が戻ってきている。カーテンの隙間から差し込んだ光が、床に脱ぎっぱなしになっているTシャツを照らしていた。
スマートフォンを見る。
高校時代の友人たちとのグループに、いくつかメッセージが来ている。
〈今日どうする?〉
〈昼からでええ?〉
〈西北で〉
航平は布団の中から、
〈おけ〉
と返した。
その下に、大学のキャリアセンターからメールが届いていた。
「秋冬インターンシップに向けた――」
件名の途中まで見たところで、階下から声がした。
「航平、起きてんの?」
「起きてる」
「もう十時半やで」
「分かってる」
航平はようやく身体を起こした。
窓の外では蝉が鳴いていた。
階下へ降りると、テレビがついていた。
母親は掃除機を壁際に置き、冷蔵庫を開けている。
「パンあるで」
「うん」
「今日どっか行くん?」
「高校のやつらと遊ぶ」
「晩ご飯は?」
「たぶんいらん」
「たぶんが一番困んねんけど」
「分かったら連絡する」
食パンをトースターに入れて、航平はリビングのソファに座った。
テレビでは、夏休みの終わりを前にした子どもたちの様子を流していた。
どこかの小学校で、先生たちが始業式の準備をしている。画面が切り替わり、机に向かって宿題をする小学生が映った。
「夏休みも、残すところあとわずかとなりました」
アナウンサーが言った。
「もう夏休み終わるんか」
航平が呟くと、母親が振り返った。
「あんたはまだやろ」
「うん」
「いつから?」
「九月の半ばぐらい」
「まだだいぶあるやん」
「三週間ぐらい」
「長いなあ、大学生」
トースターが鳴った。
航平は立ち上がった。
三週間。
改めて数えると、かなりある。
今月はまだ三日残っているし、九月に入ってからも一週間、二週間と休みが続く。
旅行に行ってもいい。
何日か予定を入れても、まだ余る。
食パンにバターを塗りながら、航平はテレビを見た。
画面では、小学生が夏休みの宿題をランドセルの横に並べていた。
昼過ぎ、西宮北口に着いた。
改札を出ると、陽介が柱にもたれてスマートフォンを見ていた。
「おう」
「久しぶり」
「いうても二か月ぶりぐらいやろ」
「そんなもんか」
少し遅れて亮太と森田も来た。
「腹減った」
亮太が言った。
「俺も」
「航平は?」
「パン食った」
「昼?」
「朝」
「何時に起きたん」
「十時半」
「大学生やなあ」
四人で笑った。
駅近くの店に入る。
高校を卒業して三年目になったが、こうして集まると話すことはあまり変わらなかった。
「あいつ太ったよな」
「誰?」
「中川」
「インスタ見た?」
「見た見た。彼女できたんやろ」
「そうなん?」
陽介がスマートフォンを取り出した。
「ほら」
「ほんまや」
「誰これ」
「大学の子ちゃう」
「知らんけど」
画面を回して、また笑う。
「そういや田村まだ高校おるらしいで」
「嘘やろ」
「この前、妹が見た言うてた」
「あの先生、俺ら卒業するとき辞めるみたいな雰囲気出してなかった?」
「毎年出してるんちゃう」
「あと学校の前のラーメン屋なくなったらしいで」
「まじ?」
「何になったん?」
「知らん。美容院かなんか」
「最悪やん」
「お前、あそこ好きやったもんな」
次々と話題が変わる。
誰かが言った名前に別の誰かが反応して、そこからまた昔話が始まる。
大学で知り合った友人なら説明が必要なことも、この四人なら一言で通じた。
そんな話がひとしきり続いたあと、陽介が唐揚げを箸でつまみながら言った。
「そういや、お前らインターン行った?」
「俺、この前一個行ったで」
亮太が答えた。
「どこ?」
「メーカー」
「何すんの?」
「グループワーク。新規事業考えろとか」
「めんどそう」
「意外と普通やったで」
「飯出た?」
「出えへん」
「じゃああかんやん」
森田が笑った。
「陽介は?」
「俺も一個だけ」
「お前も行ってんの?」
「周り行ってるから、とりあえず」
「森田は?」
「俺は行ってへん」
「なんで?」
「公務員考えてる」
「え、公務員なん?」
「たぶん」
「市役所?」
「県庁とか。まだ決めてへんけど」
「似合わんな」
「うるさいわ」
笑いが起きた。
亮太が航平を見る。
「航平は?」
「行ってへん」
「なんも?」
「なんも」
「大丈夫なん?」
一瞬だけ、答えが出てこなかった。
それから航平は笑った。
「まあ、なんとかなるやろ」
「出た」
「それ高校んときから言うてるやん」
「実際なんとかなってるし」
「受験のときも言うてたな」
「なんとかなったやろ」
また笑いになった。
そのあとすぐ、話は別の同級生の話に変わった。
「そういや佐野、留学行くらしいで」
「どこ?」
「カナダちゃうかった?」
「英語喋れんの?」
「知らん」
航平は唐揚げを食べながら、さっき亮太が言った会社の名前を思い出した。
知っている会社だった。
テレビCMで見たのか、電車の広告だったか、それは分からない。
亮太はあそこへ行ったのか。
それだけ思った。
「航平、それ食わんの?」
森田が、皿の端に残っていたポテトを指さした。
「食うで」
「早よ食えや」
「今食う」
航平はポテトを口に入れた。
店を出て、四人はボウリングへ行った。
高校時代にも何度か来た場所だった。
「ここ全然変わってへんな」
「テスト終わった日に来たよな」
「森田めっちゃ下手やった」
「今はうまいから」
「三年で何があったん」
靴を借り、名前を入力する。
一ゲーム目、航平の最初の球は一本だけ残した。
「あー」
「惜しい」
「次取れるやろ」
二投目は外れた。
「下手なってるやん」
「久々やから」
ゲームが始まると、昼飯のときの話はすっかり消えた。
ストライクが出れば騒ぎ、ガターになれば笑う。
誰かのフォームを真似して、また笑う。
「お前、それ絶対腰痛めるで」
「うるさい。これが正解やから」
「何の正解やねん」
二ゲーム目の途中、陽介がベンチでスマートフォンを見ながら言った。
「九月、俺またインターンあるわ」
「また行くん?」
「うん」
「そんな行くもんなん」
「知らんけど」
亮太が言った。
「俺ももう一個応募してる」
「まじで」
「九月八日締切やったかな」
「早」
森田がスポーツドリンクを飲みながら言った。
「俺もそろそろ勉強せなあかん」
「公務員?」
「うん」
「大変そうやな」
「お前もやろ」
「俺はまだ何もしてへんし」
「それが一番大変ちゃう?」
森田が笑った。
航平も笑った。
レーンの先では、十本のピンがきれいに並んでいた。
「航平、次やで」
「あ、ほんまや」
航平は立ち上がった。
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