何も起きなかった、には値段がつかない
建物を管理していると、ときどき妙なことが起きる。
設備が壊れれば、修理費が出る。営業が止まれば、その間の損失も計算できる。事故になれば、復旧費や補償だけでなく、場合によっては信用の毀損まで金額として扱われる。
何かが起きた後の世界には、かなり細かく値札を付けることができる。
ところが、何も起きなかった場合は少し違う。
設備を点検し、異常の兆候を拾い、まだ動いている機械を交換し、事故になる前に修繕する。そのために人が動き、金も使う。結果として設備は止まらず、事故も起きず、テナントから大きな苦情も出なかった。
帳簿に残るのは、そのために使った費用である。
その費用によって回避された損失は、どこにも載らない。
予防は、成功すると証拠を失う
売上が100万円増えれば、その100万円は数えられる。コストを20万円削減すれば、その20万円も数えられる。設備が壊れて300万円かかった場合も、損失額は明確である。
難しいのは、起きなかった損失である。
たとえば100万円をかけて設備を更新し、その後事故が起きなかったとする。
更新しなければ500万円の事故が起きていたのかもしれないし、何もしなくてもあと5年間は普通に動いていたのかもしれない。
どちらだったのかは分からない。
私たちが観測できるのは、設備を更新した後の世界だけだからである。
利益は発生すれば数えられる。損失も発生してしまえば数えられる。しかし予防によって回避された損失だけは、「本当に起きるはずだったのか」という反実仮想の中に残る。
予防という仕事は、成功すると、自分の価値を証明する材料まで消してしまう。
だから、予防は削られやすい
この性質は、安全管理や設備更新の判断にかなり直接的に効いてくる。
設備はまだ動いている。昨年も事故はなかった。点検結果も、直ちに停止しなければならないほどではない。一方で、交換すれば数百万円かかる。
そうなると、「もう少し使えるのではないか」という話になる。
もちろん、その判断自体がおかしいわけではない。安全を理由にすべてを早期交換すればいいわけでもないし、予防には予防の費用対効果がある。どこまでのリスクを許容し、どこから先を金を払って潰すのかは、本来きちんと判断しなければならない。
ただ、予防には構造的な不利がある。
交換費用は、今日支払う確実な金額として見える。一方で、交換によって防げるかもしれない事故は、将来起きるかどうか分からない。
しかも、それまで予防がうまく機能していればいるほど、「今まで何も起きなかった」という実績が積み上がる。
その実績は、本来なら管理が機能していた結果かもしれない。しかし同時に、「これまで大丈夫だったのだから、今回も大丈夫だろう」という予防を削る材料にもなる。
何も起きなかったことが、次の予防を不要とする根拠になり得る。
利回りで考える社会と、予防という仕事は、あまり相性がよくない。
それでも、汗そのものには価値がない
ここで、現場の人が頑張っているのだから評価しよう、という話にはしたくない。
汗をかいた量そのものには、価値はない。
毎日長時間働いたから価値があるわけではないし、点検回数を増やせば増やすほど安全になるわけでもない。不要な確認、効果の薄い修繕、誰も読まない報告書にも、人はいくらでも真面目に時間を使える。
見るべきなのは、その行為によって何が変わったのかである。
どの異常を早く見つけられるようになったのか。どの事故の発生確率を下げたのか。停止した場合の損失を、どこまで小さくしたのか。
安全管理に価値があるとすれば、頑張ったからではない。
将来発生するかもしれない損失の確率や規模を、実際に下げているからである。
ただし、そこで生まれた価値は、売上のようにそのまま数字として現れるとは限らない。
ここから先が少し厄介になる。
最後に現れた数字だけを見ると、前工程が消える
noteで有料記事を500円で販売し、それが1本売れれば、500円という売上が表示される。
これは非常に分かりやすい。
何本売れたのか、いくら売れたのか、どの記事が売れたのか。数字として残るので、成果として扱いやすい。
しかし、その500円だけを切り取ると、その数字がどうやって生まれたのかはかなり消えてしまう。
購入した人は、その前に無料の記事を何本か読んでいたかもしれない。普段の投稿を通じて、この人の文章なら読んでもいいと思っていたかもしれない。有料記事を買っても、少なくとも露骨に損をさせられることはないだろうという信用が先にできていたのかもしれない。
無料記事を一本だけ取り出せば、その売上は0円である。
それでも、その0円の記事群がなければ、後から発生した500円も存在しなかった可能性がある。
安全管理とnoteの売上は、もちろん別の話である。
ただ、最終的に観測された数字だけを取り出すと、その数字を成立させた前工程が消えるという点では似ている。
事故が起きれば500万円の損失が見える。しかし、その事故を防ぐために日常的に行われていた判断の寄与は見えにくい。
有料記事が売れれば500円が見える。しかし、その500円を成立させた無料記事や信用の寄与は見えにくい。
私たちは、最後に現れた数字から価値を逆算しがちである。
見える成果だけで人を定義すると、用途も狭くなる
他人が、見える成果から人や仕事を評価するのは、ある程度仕方がないと思う。
見えないものは測りにくいし、「私がいなければ事故が起きていた」「この無料記事のおかげで有料記事が売れた」と本人が言っても、外からその寄与を正確に確認することは難しい。
だから組織も市場も、売上、利益、件数、工期、PV、完成した成果物といった観測しやすいものを使う。
問題は、それによって人の機能まで決めてしまうことである。
たとえば、一枚の資料を完成させた人がいる。
外から見えるのは、その一枚なので、「資料を作った人」と評価されるのは自然である。
しかし、その資料を作るまでに、多数の情報から必要なものを選び、不要なものを捨て、論点を整理し、事実と推定を分け、最後に意思決定できる形へ変えていたのであれば、その人の機能はPowerPointの操作ではない。
価値が発生しているのは、情報を判断可能な状態へ変換する部分である。
ところが、完成した資料だけを成果として扱い続ければ、その人は資料作成係として使われやすくなる。
安全管理でも同じことが起こる。
外から見えるのが点検作業だけなら、点検する人として扱われる。しかし本当の機能が、異常を拾い、リスクを比較し、金を使う場所と使わない場所を分け、必要なときに止める判断をすることにあるなら、点検だけを切り出すと機能をかなり狭く捉えることになる。
値段だけではなく、用途まで変わる。
自分の機能くらいは、自分で分かっておく
これは、自分の価値を高く見積もろうという話ではない。
自分では重要だと思っていた仕事が、実際にはなくても困らないこともある。時間をかけた仕事に、ほとんど効果がなかったということも普通にある。
だから「見えない価値があるはずだ」と主張するだけでは意味がない。
必要なのは、自分が何に時間を使ったかではなく、自分の行為がどこに作用していたのかを理解することである。
何を成立させたのか。何を防いだのか。どの判断を可能にしたのか。その機能がなくなった場合、何が変わるのか。
そこまで考えて初めて、自分が見える成果のどの部分に寄与していたのかが分かる。
だからこそ、自分が何をしている人なのかまで、他人から見える成果だけに任せる必要はない。
何も起きなかったことには、値段がつきにくい。
それでも、その「何も起きなかった」がどうやって作られたのかくらいは、自分で分かっていた方がいい。
値札の付いた部分だけを、自分の全部だと思わないために。
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この構造整理やレイヤー観測が刺さったら、チップで投げてもらえるとうれしいです。