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三連画

第一部 セイレネ――塩と葡萄

セイレネ島では、海の青さよりも風の向きのほうが重要だった。青い海は一年じゅうそこにあるが、風は葡萄を乾かし、船を遅らせ、山羊を崖へ追い、同じ家に住む者たちの機嫌まで変えたからで、島の者は挨拶の代わりに空を見、よその土地から来た者だけが「美しい島ですね」と言った。そう言われるとピロンは、決まって「見るぶんには」と答えた。

ネリネが見つかったのは、そのピロンがまだ三十にもならず、妻ミュルタとのあいだに子がなく、山羊を数えるときだけ自分が何者であるかについて確信を持てた頃である。秋の雨の翌朝、群れから離れた若い牝山羊を追って崖下の洞へ入ると、濡れた羊歯と古い焚火の灰のあいだに麻布の包みがあり、中から赤子が片手を出していた。赤子は泣かなかった。ピロンが抱き上げると眉を寄せただけで、その顔つきがあまりにも不機嫌だったので、彼はまず笑い、次に誰かが戻ってくるかと洞の外を見、それからようやく、これは面倒なことになったと思った。

胸もとには銀の細い金具が縫いつけてあった。矢にも、針にも、葡萄の枝を留める留具にも見えたが、島には同じものを知る者がなく、教会の司祭は異教の印だと言い、鍛冶屋は銀の質が悪いと言い、ミュルタは赤子に触れる者が多すぎると怒った。三日目には、銀の金具が何を意味するかより、誰が乳を分けるかのほうが問題になり、その一週間後には、ピロンが群れを散らして一頭なくしたせいで、赤子の出自は山羊一頭分の損失と結びついて村じゅうに記憶された。

同じ冬、谷を一つ隔てた羊飼いの家には男の捨て子が来た。こちらは松の根もとに置かれ、泣きすぎて声が枯れていた。リノスと名づけられた二人目の捨て子が現れたことで、村には双子説、海賊船説、都の貴婦人説、巡回劇団説が生まれた。司祭は双子説を嫌い、港の酒場では海賊船説が人気で、ミュルタはその種の話を聞くたび「乳をくれなかった人ほどよく喋る」と言った。翌年には細部が食い違い、二年後には誰も最初に言い出した者を覚えていなかった。

二人は、誰かが意図したわけでもないのに、ほとんど一緒に育った。リノスは柵の杭が一本浮いていること、山羊の蹄に小石が挟まっていること、革袋の縫い目から水が一滴だけ滲むことをよく見つけ、黙って直した。ネリネは雲の層が昨日より低いこと、隣家の葡萄酒に別の樽の酸味が混じったこと、祭りの日だけ司祭の説教が長くなることを口にした。役に立つこともあれば、誰にも相手にされないこともあった。

十四の夏、村の娘たちが彼女に「リノスはあんたを見るときだけ、顔が馬鹿みたいになる」と言ったときも、ネリネはまず、顔が馬鹿みたいになるとはどの筋肉のことかを考えた。娘たちは笑い、その笑いが自分ではなく、問いの立て方へ向けられていると理解するまでに少し時間がかかった。彼女はその日の夕方、リノスの顔を正面から観察しすぎて、「何だよ」と怒らせた。

「別に。馬鹿みたいか見てた」

「誰が」

「あなたが」

「おまえのほうが馬鹿だ」

「それは知ってる。知らないことが多いから」

リノスは返事をしなかった。彼には、その言い方が自慢なのか自嘲なのか区別できず、区別できないまま腹を立てた。翌朝、彼は何もなかったように壊れた柵のところへ来て、ネリネも前日の話を持ち出さなかった。二人で杭を打ち直しているうち、どちらが先に腹を立てたのかさえ曖昧になった。

文字は、ネリネにとって海より遠いものだった。港の倉庫には荷札があり、教会には聖人の名があり、税吏は折り畳んだ紙束を持っていたが、島で字を読む者は必要な分だけ読み、必要以上に読める者はたいてい島を出ていった。ピロンは自分の名だけ書けた。ミュルタは書けなかったが、誰がいくら借りているかを二十年前まで覚えていたので、実務上の不便はほとんどなかった。

十五の秋、本土から若い税吏が二か月滞在した。痩せた男で、数を間違えるたび耳が赤くなり、酒を飲むと文学を語った。ある日、ネリネが倉庫の葡萄酒を数えていると、彼は樽の側面に白墨で書かれた「二十七」を教えた。彼女はその場で二十七だけ覚え、その夜には一から三十までを覚えた。翌週には荷札の地名を拾い読みし、冬には短い手紙なら時間をかけて読めるようになった。

読めるようになると、港で見慣れていたものの顔つきが少し変わった。樽の横の地名、薬草袋の名前、教会の戸口に貼られた知らせ。声で聞いた話と書いてあることが違えば、ネリネは両方を知っている人を探して訊いた。たいてい一度では済まず、ピロンは「字は口よりしつこい」と言った。

「葡萄は葡萄だ。飲んで酸っぱければ悪い、それで済む」

「売るときは済まないでしょう」

「売るのは番頭だ」

「番頭が盗んだら?」

「盗むほど頭がよければ、もう少し立派な家を建ててる」

番頭は実際に少し盗んでいたが、家は立派にならなかった。妻の兄に貸した金が戻らず、屋根は三年雨漏りしたままだった。ミュルタは金を返せと言いに行く日を相手の顔色で変え、病人のいる家には行かず、収穫のよかった家には夕食前を狙った。税吏はそれを勝手だと言い、ミュルタは鼻で笑った。ネリネは二人のやり方を、必要なときだけ真似した。

リノスは文字を嫌った。嫌ったというより、自分の手で確かめられないものに長く注意を向けることができなかった。税吏から名前を書けと言われ、「リノス」の最後の一字を三度間違えたあと、紙を丸めて火へ投げた。

「おまえは読めるんだから、おまえが読めばいい」

「ずっと隣にいると思ってるの」

「いないのか」

ネリネは答えなかった。まだ島を出たいと決めてはいなかったが、その問いを聞いた瞬間、出ないと決めることのほうが急に難しくなった。

身体についても、二人は同じ速さでは知らなかった。

狼を捕る穴へリノスが落ちた春、ネリネは縄を下ろして彼を引き上げ、泥だらけの身体を泉で洗った。子供のころから何度も見た肩、脇腹、腿が、その日だけ、昨日までは存在しなかったもののように目へ入ってきた。見慣れたものが見慣れなくなるとき、人は新しいものを見つけたのか、それとも自分の見る側が変わったのか、ネリネには判別できなかった。

翌朝、リノスが遠くにいると胸が重く、近づくと軽くなり、近づきすぎるとまた重くなった。ピロンへ相談すると、葡萄棚の下で長い講義が始まった。エロスという古い神がいて、人にも獣にも神にも矢を射る、という話に、港の娼婦の噂と山羊の交尾と結婚生活の愚痴が混ざった。ネリネは途中で三度質問した。三度とも、ピロンは別の話を始めた。

「つまり、わたしは何をすればいいの」

「何もしなくても春は終わる」

「終わったら治る?」

「来年また春が来る」

「役に立たないね」

「役に立つ話だけしてたら、年寄りは一日でしゃべることがなくなる」

ピロンはまだ四十代だったが、そのときから自分を年寄りの側へ置く癖があった。

ミュルタの説明はもっと実際的で、実際的すぎたため、ネリネはかえって怖くなった。妊娠、出産、血、病気、男の勝手、女の勝手、望まないことを断る方法、断っても聞かれない場合の方法まで、ミュルタは豆を選りながら話した。最後に「それでもやりたいなら、やればいい」と言い、ネリネは、その一言がそれまでの説明より難しいと思った。

数日後、彼女とリノスは野で口づけをした。最初は歯が当たり、二度目は笑い、三度目は笑わなかったが、笑わなかったからといって何かが完成したわけではない。服を脱ぎかけ、どちらも自信がなくなり、リノスが止まるとネリネは腹を立てた。

「知ってる顔してたじゃない」

「してない」

「してた」

「おまえが勝手にそう見たんだろ」

「じゃあ、わたしが悪いの」

「何でそうなるんだよ」

その日は喧嘩して別れた。二人は翌日も山羊を追い、三日目には一緒に柵を直し、五日目にもう一度試した。二度目は少しうまくいき、三度目には別の失敗をした。後年ネリネは、最初の恋を訊かれると、たいてい「寒かった」と答えた。春だったが、二人が選んだ場所が北風の通る岩陰だったからである。

その年の葡萄摘みは例年より早かった。日照りのせいで実は小さく、甘さだけが強く、地主の番頭は収量が落ちたと嘆いたが、醸造を任されている老人は「少ない年のほうが味はいい」と言い、誰が正しいかは酒ができる冬まで決まらなかった。島では、こうして答えが数か月先にしか出ない仕事が多かった。

葡萄摘みの日、村人は朝から畑へ入り、子供は籠を運び、老人は日陰で房から傷んだ実を外し、若者は大樽を転がした。昼には地主の家からパンと塩漬け魚が出た。いつもなら互いに口をきかない家同士も同じ斜面で働き、誰かが歌い始めると別の畑から違う歌で邪魔をし、そのうち二つの歌が混じってどちらの節かわからなくなった。

ネリネは午後、裸足で樽の葡萄を踏んだ。紫の汁が膝まで跳ね、隣では三人の女が男たちの悪口を言い、その男たちは少し離れた場所で女たちの悪口を言っていた。言われている内容は驚くほど似ていた。酒が入る前から皆よく喋った。

「都へ行ったら、こういうのないんだろうね」

年上の娘ソフィアが言った。

「葡萄はあるでしょう」

「裸足で踏むの」

「機械でやるんじゃない」

「つまらない」

「楽でしょう」

「楽なのと、つまらないのは別」

ソフィアは言った直後、熟れすぎた葡萄を一粒口に入れ、種を地面へ吐き、足もとの籠を引き寄せた。夕方には別の娘と結婚話で喧嘩した。

夕方、踏み終えた若者たちは川へ入り、肌についた葡萄汁を落とした。ネリネも女たちと笑いながら入り、冷たい水へ足を浸した瞬間、午前から続いていた疲れが急に身体の形を持った。リノスは少し上流で男たちと泳いでいた。二人は目が合ったが、昼間の喧嘩の続きをしなかった。祭りの夜、広場で踊ったときも、最初の相手は別々だった。

ネリネはラウロに教わるより前から踊れた。ただし島の踊りは、男と女が互いを見つめ続ける種類ではなく、輪になり、手を替え、誰かが転べば全員の列が崩れ、笑ってまた組み直すものだった。リノスと手をつないだのは三曲目の途中で、つないだ次の瞬間にはソフィアの手へ渡した。

深夜、広場の石段に座って二人で残りのパンを食べた。

「さっき、ソフィアと何話してた」

「都の葡萄」

「都に葡萄あるのか」

「あるでしょう」

「見たことないくせに」

「あなたも」

リノスはパンをちぎった。

「行ったら、変わるのかな」

「何が」

「おまえ」

ネリネはしばらく考えた。

「変わらなかったら、行く意味ないでしょう」

「じゃあ、変わったら戻る意味もない」

「それは違う」

「何で」

「戻る場所も変わるから」

言ってから、自分でもよくわからなかった。リノスは「また字を覚えた人みたいなこと言う」と笑い、ネリネは腹を立ててパンを投げた。パンは彼の肩に当たり、落ちた。二人はしばらく笑った。

祭りが終わるころ、広場には潰れた葡萄の皮、魚の骨、割れた壺、眠った子供が残った。朝になると女たちが掃き、男たちは二日酔いで遅れて来た。ネリネも石段へこびりついた油と葡萄汁を水で流した。魚の骨は箒に引っかかり、眠った子供は母親に抱かれて運ばれた。昼前には広場はほぼ元に戻ったが、ネリネの足の裏には踊りすぎた痛みが残った。

葡萄摘みが終わってからしばらく、若い者たちは夜になると搾り小屋へ集まった。誰が始めたのかはわからなかった。昼に働いた場所へ夜も来るのは馬鹿らしい、と言いながら、ソフィアが焼いた豆を持ってきて、リノスが古い椅子を直し、ネリネは灯りの芯を短くした。ほかに二、三人来る日も、十人近くになる日もあった。

何をするとも決まっていなかった。歌う夜もあれば、誰かが港で聞いた話を大げさに語り、別の者が全部嘘だと言い、本人が「半分だけ」と認める夜もあった。眠くなれば帰った。翌朝が早い者から先にいなくなった。

ある夜、ソフィアが、子供のころネリネが葡萄桶へ頭から落ちた話をした。ネリネは落ちていないと言い、リノスは落ちたと言った。

「足からだった」

「頭からだ」

「見てたの?」

「引っぱり上げた」

ネリネにはその記憶がなかった。代わりに、リノスが泣いていたことだけを覚えていた。リノスは泣いていないと言った。ソフィアは笑いながら豆をもう一皿足し、誰かが歌を始めたので、桶の話はそこで切れた。

別の夜には、ソフィアとリノスだけが先に来ていた。ネリネが入ると二人は笑っており、何がおかしいのか訊くと、ソフィアが「もう終わった」と言った。ネリネは一度だけ聞き返した。ソフィアは答えず豆皿を寄せ、リノスは椅子の脚を削りつづけた。しばらくして別の者が港の喧嘩の話を始めた。

搾り小屋の集まりは冬になる前に自然に消えた。寒くなったからでもあり、ソフィアの叔母が病気になったからでもあり、誰かが別の村の娘へ会いに行くようになったからでもあった。最後の夜がいつだったかは、あとで誰も同じ日を言えなかった。

リカが島へ来たのは、その夏の終わりだった。地主の従姉で、夫を本土へ残し、療養という名目で屋敷に滞在した。白い帽子を五つ持ち、同じ山羊の名前を毎日訊き、村の女たちからは怠け者と呼ばれ、男たちからは都会の女と呼ばれた。どちらも、彼女が実際に何をして一日を過ごしているかについてはほとんど知らなかった。

リカはリノスを森へ連れていった。鷲にさらわれた鵞鳥を探してほしい、と言ったが、鵞鳥は最初からいなかった。

リノスはその後のことを、話すたび少し違って言った。最初のころは笑って話した。ある年には、自分からついていったのだと言った。もっと後には、リカが何歳だったかをネリネに訊いた。「怖い?」と訊かれて「怖くない」と答えたことだけは、いつも同じだった。

そのころのリノスはネリネを避け、理由を訊かれると怒り、怒った理由を訊かれると黙った。ネリネは嫉妬した。リカの白い帽子を見かけると腹が立ち、リノスが森のほうから戻るのを見ても腹が立った。何日かは彼と口をきかなかった。

「誰だったの」

「誰でもいいだろ」

「よくない」

「じゃあ、どうしたいんだ」

「わからない。だから訊いてる」

「俺だってわからない」

その返事を聞いて、ネリネはリノスの肩へ手を置きかけたが、まだ腹が立っていたのでやめた。自分が何にいちばん腹を立てているのか、うまく言えなかった。

数日後、ネリネは浜でソフィアとリノスが古い籠の縁を編み直しているのを見た。二人は作業をしながら長く話していた。ネリネが近づくと、話が止まったわけではない。ただ、別の話になった。

その晩、ネリネはソフィアへ訊いた。

「何を話してたの」

ソフィアは少し考えた。

「リノスのこと」

「何て?」

「私が言うことじゃない」

「言わないでって言われた?」

「言われてない」

ネリネはもう一度訊きかけたが、ソフィアは自分の籠の蔓を締め直し、少し離れた娘へ熟れすぎた葡萄を投げた。ネリネはその夜、リノスだけでなくソフィアにも腹を立てた。翌朝会うと、二人でいつも通り水を汲んだ。

一週間ほどして、リノスのほうから森の話をした。前に聞いたのとはまた少し違っていた。ネリネが「ソフィアにもそう言ったの」と訊くと、彼は首を振った。

「覚えてない。たぶん違う」

ネリネは続きを待ったが、リノスは籠の裂けたところへ蔓を差しこみ、そこから先を話さなかった。

その夜、彼女は衣装箱から銀の金具を出し、灯りの下で初めてよく見た。矢なら尖っているはずの先は丸く、針なら穴があるはずの場所には何もない。しばらく机へ置き、爪で表面の細い傷をこすったが、何もわからなかった。翌朝、また首にかけた。失くすとミュルタに怒られると思ったからである。

翌冬、ドン・ラウロが収穫後の積み出しを確かめるため島へ来た。地主の甥で、都チヴィタに屋敷を持ち、島については、葡萄酒、オリーブ油、税、修理費という四つの名詞で理解していた。着いた初日に港で靴を泥へ沈め、二日目に山羊に上着の裾を齧られ、三日目には番頭が港へ出す樽の印を付け替えているのを見つけたので、村では「役に立つ都会人」として扱われた。

ネリネと最初に話したのは納屋だった。積み出し札には四十八樽とあるのに、ラウロが数えるとどうしても一つ多い。彼が番頭を呼び戻そうとしているところへ、ネリネが山羊を追って通りかかった。

「四十八じゃない。四十七」

彼女が言うと、ラウロは顔を上げた。

「数えたのか」

「音が違うのが一つある。空です」

彼は樽を叩いた。乾いた音がした。

「字は読める?」

「少し」

「数は?」

「好き」

「なぜ」

「樽なら、もう一度数えられるから」

ラウロは空樽をもう一度叩いた。「人は二度数えて二度とも間違えるよ」と言った。ネリネは「じゃあ三度やればいい」と返した。

それから彼は島にいるあいだ、仕事をいくつかネリネへ回した。樽の印を揃える、船賃を聞く、荷札の字を読む、番頭が言った数を自分でも確かめる。彼女は急速に覚えたが、ラウロはあまり褒めなかった。「褒めると給金を上げろと言われる」と言うので、ネリネは「上げればいい」と返した。ラウロは「それは叔父に言ってくれ」と笑った。

リノスは、ラウロを嫌わなかった。嫌うには、相手が自分の領分へ踏みこんでこなさすぎた。ラウロは壊れた鋤を見ても直し方を知らず、知らないとすぐ認めた。その代わり鍛冶屋へ値段と届く日を訊き、古い鋤がそこまで持つかはリノスへ訊いた。二人は何度か一緒に柵を直し、ほとんど話さなかった。

春を前に、ラウロはネリネへ都行きを持ちかけた。伯母ベアトリーチェ侯爵夫人が、屋敷で読み書きを覚えたい若い女を一人求めている、行儀を教え、気が合えば仕事も与える、嫌なら帰ればいい、という話だった。

ラウロが都へ帰ったあと、島では雨が二か月降らなかった。泉の水位が下がり、上の集落と下の集落で水汲みの順番をめぐる喧嘩が起き、司祭は譲り合えと言ったが、自分の菜園だけは夜中に水を引いているのを子供に見つかった。そこから話が大きくなり、昔からの水利権、地主の権利、教会の権利、誰の祖父がいつ石溝を掘ったかまで持ち出された。誰も同じ話をしていないのに、全員が「昔からそうだった」と言った。

ネリネは古い麻紐と木杭を借り、泉から各畑まで歩数を数え、石溝の幅と傾きを見た。口論のたび同じ祖父の話を聞かされるのに飽きていた。リノスは手伝ったが、途中で嫌になった。

「水は坂を下る。紐がなくても」

「だから上の人が先に取ったら、下へ来ないでしょう」

「上の畑も枯れる」

「下の家は飲み水がない」

「じゃあ、どうする」

「それを考えてる」

「考えたら水が増えるのか」

「増えない。でも喧嘩の理由は減るかもしれない」

「理由が減っても喧嘩はする」

「それはそう」

二人は、石溝の泥を掻き出しながら笑った。

結局、島は三日ごとの水番を決め、上の畑には夜、下の集落には朝と夕方に流すことになった。誰も満足しなかったので、ピロンは「悪くない決まりだ」と評価した。最初の一週間は守られ、二週目に破られ、三週目には破った者へ罰金を科す見張り役が置かれた。その見張り役が自分の畑へ余分に水を引き、また会議が開かれた。

夏の終わりには、石溝の脇へ打った木杭の半分が抜かれ、白墨の印は雨と泥で消えていた。翌年また水が少なくなったとき、ネリネは同じ麻紐を探したが、ピロンが薪を束ねるのに切って使っていた。残った長さでは足りず、別の家から縄を借りた。

雨は九月に降った。最初の雨の日、村じゅうの子供が服のまま外へ飛び出し、大人は屋根から落ちる水を桶へ集めた。ネリネとリノスも走り回り、夜には誰かが葡萄酒を開け、旱魃のあいだ喧嘩していた二つの家族が同じ卓で酔った。翌朝にはまた口をきかなかった。

雨の翌朝、ネリネはラウロへ、春になったら都へ行くと書いた。書き終えたところでミュルタの鍋の蓋が歪んでいるのが気になり、直そうとして指を切った。手紙の隅に血が一滴ついた。書き直さず、そのまま出した。

ピロンはその晩、家じゅうを歩き回り、「都へ行けば鼻が高くなる」「金持ちは人を人と思わない」「島の空気がいちばんいい」「本土の水は腹を壊す」と、関連の薄い反対理由を一つずつ提出した。ミュルタは全部聞いたあと、「行くなら靴を二足持ちなさい」と言った。

ネリネは、その言葉で行くことを決めた。

出発までの三週間、家には人が絶えなかった。干し葡萄、石鹸、厚い靴下、聖人の小像、乾燥させた薬草が持ちこまれ、ミュルタの従姉は都では絶対に着ない色の肩掛けを置いていった。ネリネが「もう入らない」と言うと、ミュルタは一度全部出し、底へ石鹸を二個増やして詰め直した。最後にはネリネの服を一着減らした。

リノスだけが何も持ってこなかった。

最後の夜、二人は羊小屋で長く話した。話したというより、長いあいだ同じ場所にいて、そのあいだ何度か喧嘩し、黙り、また別の話を始めた。

「リカのことがあるから行くのか」

「それもある」

リノスは、その二文字を嫌った。

「何でも『それも』にするなよ」

「一つじゃないから仕方ないでしょう。字を読みたい。海の向こうを見たい。あなたに腹が立つ。ラウロと樽を数えたのが面白かった。島にいると、みんながわたしのことを知ってる顔をする。それが嫌。ミュルタの料理は好き。ピロンが歳を取るのは心配。全部あるの」

「俺は?」

「ある」

「どのくらい」

「そういう聞き方、嫌い」

「都へ行けば、もっといい聞き方を習えるのか」

「たぶんね」

そこからまた喧嘩になり、昔盗んだ蜂蜜、リカ、ラウロ、税吏、文字、子供のころネリネがリノスの鼻血を笑ったことまで持ち出された。夜半を過ぎて二人とも疲れると、リノスは干し草に背を預け、「止めたら残るのか」と訊いた。

ネリネは、少し考えた。残ると言えば彼は安心するし、残らないと言えば傷つくだろうが、どちらを選んでも、その言葉のせいで自分の出発が別のものになる気がした。

「止めてみて」

リノスは黙った。

「ほら」

「何が」

「止めない」

「止めて、おまえが残ったら、俺のせいになる」

「残らなかったら?」

「俺が馬鹿になる」

ネリネは笑った。リノスも笑った。そのあと二人は口づけをし、しばらく抱きあったが、別れを大きなものにしようとすると急に恥ずかしくなり、結局、翌朝の山羊の餌の話をして別れた。

出発の日、港には村人が大勢来た。ピロンは泣き、泣いていないと言い張り、ミュルタは船頭へ三度同じ注意をし、税吏はもう島にいないのに、彼がネリネへ譲った小さな算盤だけが荷物の底に入っていた。

リノスは来なかった。

船が岸を離れ、港の石段が小さくなってから、丘の上の道を誰かが走っているのが見えた。ネリネはそれが誰か確かめようとしたが、帆が風を受けて視界を塞ぎ、次に見えたときには岬が間へ入っていた。

ネリネは帆がどくのを待って、しばらく船縁に立ちつづけた。岬の先に道はもう見えず、走っていたのが誰だったかは確かめられなかった。午後になって風向きが変わり、船員が帆綱を引くため彼女の手を手すりからどかした。そこで初めて座った。掌には乾いた塩が白く残っていた。

夜になっても島は戻ってこなかった。ネリネは寝台へ入ってから、朝に食べたパンの塩気をまだ舌の奥に感じた。

その翌朝、セイレネではソフィアが叔母の咳で夜明け前に起こされた。火が消えていたので、マレナが持ってきた炭を移しているうち、乳の壺を一つ蹴った。床へ広がった乳を二人で布に吸わせ、叔母は寝床から「猫を呼べ」と言った。猫は来なかった。

昼すぎ、ソフィアとマレナは割れた壺の代わりを港へ買いに行った。値段で店主と揉め、帰りには何にいちばん腹を立てていたのかわからなくなった。夕方、叔母は新しい壺の口が狭いと文句を言った。ソフィアは取り替えに行くと言い、翌日になるとそのまま使った。

第二部 チヴィタ――緑の部屋

チヴィタへ着いて最初にネリネが驚いたのは、建物の高さでも、人の多さでも、帝国兵が銃を肩に掛けて立っていることでもなく、朝から女たちが服について真剣に議論していることだった。ベアトリーチェ侯爵夫人の屋敷では、黒は喪服であると同時に最も安全な外出着であり、白は若さを示すが質の悪い布なら貧しさを強調し、紫は教会に近すぎ、赤は男を招きすぎ、青は生地によっては田舎娘に見え、同じ帽子でも午前に許され午後には無作法になるという。島では服は暑いか寒いか、丈夫か破れたかで判断したので、ネリネは最初の一週間だけで、自分がこれまで知らなかった法体系の中へ入ったように感じた。

「これは全部、誰が決めるんです」

仕立屋の鏡の前で彼女が訊くと、夫人は手袋を外しながら答えた。

「仕立屋と、暇な女たちと、その女たちを怖がる男たち。気づいたら決まりになってるの」

「変えられない?」

「変えられるわ。十分なお金か、十分な美貌か、十分な評判があれば」

「三つともなかったら?」

「人の真似をするの」

夫人は冗談のように言い、仕立屋は採寸を続けた。帰りの馬車でネリネは、さっきまで肩へ当てられていた布を膝に置き、指で毛並みを逆に撫でた。島の肩掛けとは違う重さだった。馬車が石に乗り上げると布が床へ落ち、夫人が笑った。

侯爵夫人は四十代の終わりで、夫を十年前に亡くし、子はなく、屋敷には親戚、秘書、音楽教師、料理人、二人の侍女、犬三匹、しばしば泊まりに来る女友達、泊まってはいけない時間まで残る男友達が出入りしていた。帝国政府の役人を夕食へ招く一方で、帝国を嫌う新聞へ匿名で金を出し、司教に寄付をしながら日曜の説教を退屈だと言い、貴族の血統を笑いながら、自分の家名を用いれば役所の扉が早く開くことをよく知っていた。

彼女はネリネの名を変えなかった。ベアトリーチェは、発音しにくいという理由で人の名を取り替えるほど律儀ではなく、「ネリネでいいわ。私が覚えるより周りに覚えさせるほうが早い」と言った。ただし夜会へ連れていくときだけ、客の一人が島の訛りでネリネを「ヴィオラ」と聞き間違え、その呼び名が面白がられて広まった。本人は訂正したりしなかったりしたので、二年後には屋敷ではネリネ、劇場ではヴィオラ、仕立屋ではシニョーラ・ネリネ、ラウロだけは最初から最後までネリネと呼んだ。

読み書きは急速に上達した。夫人は教師を三人つけたが、三人は互いの教え方を嫌い、ある者は古典語から始め、ある者は新聞を読ませ、ある者は文法規則を暗記させた。ネリネは三人とも利用し、三人とも完全には信じなかった。ある月、料理人が市場から戻るたび肉の包みを一つ厨房裏へ隠すのに気づいた。妹の家へ持っていくつもりだった。夫人は料理人を解雇せず、余った骨と脂なら週に一度持ち帰ってよいことにした。

「盗んだのに?」

「盗む人を全員追い出したら、家には犬しか残らないわ」

「犬も盗むでしょう」

「だから三匹いるのよ。相互監視」

ネリネは笑った。島では笑えばたいてい楽しいか、誰かを馬鹿にしているかだったが、チヴィタでは夫人が返事の代わりに笑い、料理人は叱られたときだけ笑い、若い伯爵は自分の冗談が滑ったとき誰より大きな声で笑った。ネリネはしばらく真似をして、笑う場所を二度間違えた。

同じ冬、セイレネではソフィアに縁談が来た。湾の向こうの桶職人の次男で、祭りで二度踊ったことがあった。本人より先に叔母が気に入り、ピロンまで「手が大きいから樽を落とさない」と、よくわからない理由で賛成した。

ソフィアは男を嫌ってはいなかったが、春から湾の向こうへ住む話になると返事を延ばした。ちょうど叔母が咳をこじらせ、リノスが屋根の板を直しに来るようになった。二人が一緒にいるのを見た者が話を作り、三日後には、昔からそうだったことになっていた。

ソフィアは噂を聞いた日は笑い、翌日は腹を立て、三日目にはリノスへ「しばらく来ないで」と言った。リノスは屋根を指して「まだ一枚浮いてる」と言い、ソフィアは自分で釘を打った。釘は斜めに入り、叔母は寝床から見て「雨が入らなきゃいい」と言った。

三年目の冬、侯爵夫人は緑色の壁紙を貼った小客間を使い始めた。大広間の晩餐ほど格式がなく、寝室ほど親密でもないその部屋には、作曲家、医師、帝国軍の将校、亡命経験のある教授、金貸しの妻、新聞記者、舞台女優、若い伯爵、古い共和主義者、そして彼らのうち誰かと寝ている者や寝ていた者が、週に一度か二度集まった。

ネリネは最初、茶を運ぶ側だった。ところがある晩、北方の将校が「島の者は国家というものを理解しない」と言い出し、彼女が盆を置いたまま「税だけは理解します」と返したため、夫人はその場で椅子を出させた。

それ以来、彼女は緑の部屋の端に座った。

そこで行われる会話は、島の会話と違って、何かを決めるために始まることが少なかった。一人が自由を論じると、別の者は舞台の検閲へ話をずらし、そこから女優の脚へ移り、女優本人が将校の制服を笑い、将校が道路整備の予算を持ち出し、金貸しの妻が「道路より夫の口を舗装してほしい」と言って一同を笑わせたあと、教授が突然、帝国は十年以内に崩れると断言する。将校は笑わず、「十年」とだけ聞き返した。教授は「長くても」と答えた。伯爵は葡萄酒へ手を伸ばさなかった。

ネリネは、その話のほどけ方を最初は嫌った。ある晩、教授が検閲で捕らえられた学生の話を始めた。伯爵はその父親を知っていると言い、将校は逮捕の理由を訊いたが、誰も確かなことを知らなかった。教授は学生の名を二度言った。帰りの馬車でネリネが「結局、何もわからなかった」と言うと、夫人は「そうね」と答えた。翌週、教授は同じ話をまた最初から始めた。

ある夜、若い伯爵が女の教育について「賢すぎる女は結婚相手を見つけにくい」と言った。

「では、男は馬鹿な女を探して結婚するんですか」

ネリネが訊いた。

「そうは言っていない」

「賢くないほうがいいんでしょう」

「程度の話です」

「どの程度?」

伯爵が答えを探していると、帝国軍の将校が笑った。

「あなたが負けない程度だろう」

「将軍、あなたは黙っていてください」

「私は将軍ではない。昇進を止めたいなら、その呼び方を続けてくれ」

女優が煙草を消しながら、「賢い女が嫌なんじゃないわ。男が話し終える前に答えられるのが嫌なの」と言った。金貸しの妻が「うちの夫は私が黙ってても怒るけど」と口を挟んだ。将校が笑い、伯爵は笑わず葡萄酒を飲んだ。そこへ侍女が菓子皿を替えに入り、教授が自分の皿はまだ終わっていないと言い出したので、女の教育の話はそこでほどけた。

その晩、「自由」という語は何度も出た。将校は外出禁止令を二時間短くした話で使い、教授は国境の話で使い、女優は「今夜は自由だから」と言って既婚の伯爵の腕を取った。ネリネは三人に同じ言葉を使うなと言い、女優から「あなたの言葉じゃないでしょう」と笑われた。それからしばらく、ネリネは黙って葡萄酒を飲んだ。

半年もすると、教授は暖炉に近い肘掛椅子を好み、金貸しの妻は窓を背にすると顔色が悪く見えると言って反対側へ座り、エステルは鏡の近くを取った。若い伯爵は毎回ちがう場所へ座り、そこが自分の席だと言い張った。

ベアトリーチェ夫人は最初、席順を崩すことを面白がっていたが、半年もすると、誰がどこへ座るかを自分も忘れた。犬だけは人の習慣を覚え、教授が来る前から肘掛椅子の下へ寝た。

席をいちばん正確に覚えていたのは、年上の侍女クララだった。教授の椅子の脇には火掻き棒を置かず、若い伯爵の前には欠けていない灰皿を出し、エステルが来る日は砂糖漬けの皮を一皿多くした。伯爵が自分だけ灰皿を替えられる理由を訊くと、クララは「先週二つ割ったからです」と答えた。伯爵は一つだと言い張った。クララは返事をしなかった。

エステルは菓子の砂糖漬けの皮だけを食べ、柔らかいところを皿へ残した。伯爵がそれを食べるようになった。二人は特に親しくなかったが、エステルが欠席した晩、伯爵は誰にも言われないのに同じ皿を見た。

雨のひどい夜、馬車が何台も来られなくなり、客の半分が屋敷へ泊まったことがあった。夫人は客間の数を数えるのを途中でやめ、毛布を出させ、「眠くなったところで寝なさい」と言った。

夜半を過ぎると、教授は肘掛椅子で口を開けて眠り、金貸しの妻とラウロは床へ札を広げ、エステルは靴を脱いで片足だけ長椅子へ上げた。若い伯爵は台所から冷えた鶏を盗んできて料理人に見つかり、皿ごと持ってこいと叱られた。

ネリネは夫人と二人で湯を沸かしていたが、途中で夫人が頭痛を訴えて寝室へ引き上げた。客たちは帰らなかった。むしろ声が少し小さくなり、それまで夫人の前ではしなかった話が始まった。誰の初恋がいちばんひどかったか、誰がいちばん長く家出したか、誰が一度も殴られたことがないか。

教授は途中で目を覚まし、自分の初恋だけは話さないと言った。全員が話せと言い、彼は拒みつづけた。そのうち別の話になった。翌朝になっても、教授の初恋はわからないままだった。

朝、夫人が緑の部屋へ戻ると、なぜか全員が銀の匙を見るたび笑った。夫人が理由を訊いても、伯爵は「夜の話です」としか言わず、エステルはもう何がおかしかったのか正確に思い出せなかった。

「何があったの」

夫人がもう一度訊いた。

金貸しの妻が話し始めると、伯爵が「そこじゃない」と口を挟み、エステルも「その前よ」と言った。三人の順序が合わず、教授まで目を覚まして別の話を足した。

その横で若い伯爵が片方の靴がないと騒ぎ始めた。クララが足もとを見て、「右は履いていらっしゃいます」と言った。左足には室内履き、右足には濡れた外靴を履いていた。伯爵は誰かが取り替えたと言い、エステルは腹を抱えて笑った。教授はまた眠った。

台所ではパンが足りなくなり、ルチアが昨日の固いものを薄く切って焼き直した。金貸しの妻はそれを気に入り、作り方を訊いた。ルチアは「昨日のパンです」と答えた。妻は冗談だと思って笑い、ルチアは笑わなかった。

夫人はしばらく聞いていたが、侍女が朝食の卵を運んでくるとそちらへ椅子を寄せた。話はそのまま戻らなかった。

客が朝食へ移るころ、クララと若い侍女ルチアは床へ垂れた蝋を匙の背で削った。濡れた靴下が台所の縄を半分ふさぎ、客用の毛布が一枚足りなかった。昼すぎ、その毛布は若い伯爵が廊下で寝た犬に掛けたまま見つかった。伯爵は自分ではないと言い、犬は眠っていた。

菓子皿に残った砂糖漬けの皮をルチアが紙へ包んだ。弟へ持って帰るつもりだった。弟は甘いものを食べると奥歯が痛むのに、毎回欲しがった。午後、教授がいつもの皿を探し、クララは「片づけました」とだけ言った。銀の匙の話を誰も二人へ説明しなかったし、二人も訊かなかった。

ラウロは、島から戻っても屋敷へよく来た。彼は伯母の政治的趣味を「高価な退屈」と呼び、自分は鉱山と倉庫と海運会社の持分を管理し、帝国と独立派のどちらが勝っても荷物は運ばれる、と言った。

「それは政治じゃないの」

ネリネが訊くと、彼はしばらく考えた。

「政治は役人と新聞屋に任せる。私は船が出るか、荷物が着くかを見る」

「逃げてる」

「儲かるほうへね」

彼らはよく街を歩いた。ラウロは新しい工場を見せ、ネリネは市場で布の値段を聞き、劇場へ行けば舞台より客席を見ることがあり、競馬場では馬より賭け方を訊いた。美しい服も着るようになった。同じ冗談を羊毛服で言った晩には無礼だと言われ、絹で言った晩には機知があると言われた。翌週には逆のこともあった。

チヴィタで彼女が長く時間を使った場所の一つは仕立屋だった。ベアトリーチェ夫人は若い女が社交界へ入るなら服を覚えろと言った。仕立屋の女主人マダム・カルラは、客が入ってくると喪中か、金に困っているか、夫と喧嘩したかを勝手に当てた。外すこともあったが、当たった話だけが屋敷へ伝わった。

「服を見ればわかるの?」

「服だけ見たら何もわからないわ。靴と手と、服をどう気にしてるかを見るの」

カルラは針を口にくわえたまま、帝国将校の妻の裾を詰め、将校本人が給料より高い布を買っていることを値札から見抜いた。翌週、その将校が賭博の借金を抱えているという話が緑の部屋へ届いた。情報の出所は仕立屋ではないことになっていた。

ネリネは、都の服が人を隠すというより、別の仕方で露出させることに興味を持った。貧しい女が高い服を着れば、服だけが目立つことがあり、富裕な女が粗末な服を着れば、その粗末さ自体が趣味として扱われる。男はもっと簡単で、上着の生地より袖口の磨耗、靴底、時計の鎖、爪の手入れに階級が出た。

ある日、ネリネは自分の金で深い赤のドレスを注文した。ベアトリーチェ夫人は「似合うけれど、今季は危険」と言い、カルラは「危険だから売れる」と言った。

「何が危険なの」

「赤は独立派の色にも見えるし、将校の妻が着れば帝国旗の色にも見えるし、若い女が着れば単に男が寄ってくる」

「便利ね」

「だから高いの」

ネリネは買った。最初にそれを着た夜会では、政治の話を一度もしなかった。それでも翌日、彼女が独立派へ近いという噂が立った。二度目は帝国側の将校夫人が多い晩餐へ同じドレスを着ていき、今度は「地方娘が成り上がって派手になった」と言われた。ネリネは三度目にも同じ服を着た。

噂の変化を彼女はベアトリーチェ夫人へ話した。夫人は途中まで聞いて、「あなた、その服の話をするたび少し嬉しそうね」と言った。

「面白いんです」

「あなたにはね」

カルラが仮縫いの針を口から抜いて「動かないで」と言った。ネリネは腕を上げたまま黙り、その場では話が終わった。

赤いドレスはその後も何度か着た。ある晩は独立派だと囁かれ、別の晩は成り上がりだと笑われ、劇場では年配の婦人から「若いうちだけよ」と忠告された。ネリネはどの噂も訂正せず、ただ、同じ服を着ているのに相手によって自分の姿がこれほど変わることを面白がった。

叔母の咳が軽くなると、今度は寝ていろと言うソフィアと、起きたい叔母が毎朝喧嘩した。叔母は粥が薄いと言い、ソフィアは濃くすると咳が出ると言った。昼には隣家から塩漬け魚をもらい、二人とも朝の喧嘩を忘れた顔で食べた。

あのときソフィアが熟れすぎた葡萄を投げていた相手は、マレナという一つ年下の娘だった。マレナの母が山羊乳を分けたため、彼女は二日に一度、壺を抱えて叔母の家へ来るようになった。ソフィアが留守の日は火を起こし、叔母に昔の歌を歌わされ、歌詞を三度直された。

同じ頃、チヴィタの王立劇場では新作喜歌劇『青い王冠』が上演され、初日の切符は政治集会の席より入手しにくかった。筋は、架空の小国の王が自分の王冠を質屋へ入れ、代わりに偽物を被っているうち、本物と偽物の区別を国民全員が忘れるというもので、検閲官は政治的暗喩ではないと認めたが、観客は政治的暗喩だと思ったから見に行った。

ベアトリーチェ夫人は桟敷を一つ取り、ネリネ、ラウロ、金貸しの妻、若い伯爵を連れていった。第一幕で王が「国庫は空だが、宮殿の鏡は磨け」と歌うと、客席は拍手し、帝国側の役人だけが拍手の強さを測るように周囲を見た。第二幕では質屋の女主人が王を騙し、金貸しの妻が「あれ、夫より上手」と声を上げて笑った。

休憩時間、ロビーは舞台より忙しかった。誰が誰の桟敷を訪ねたか、誰が挨拶を避けたか、誰が新しい首飾りをしているか、誰の夫が来ていないか。伯爵は帝国総督の娘へ挨拶し、ラウロは商談相手を捕まえ、夫人は司教の秘書と十分だけ話し、ネリネは壁際で葡萄酒を飲んでいたところを、舞台女優のエステルに呼び止められた。緑の部屋で一度会った女だった。

「その赤、まだ着てるの」

「高かったから」

「賢い。男は女が同じ服を二度着ると気づかないくせに、三度目で倹約家だと思うのよ」

「女は?」

「一度目で値段、二度目で事情、三度目で趣味を判断する」

エステルはそう言いながら、自分の舞台衣裳の襟を引っぱった。

「これ、背中が痒い」

「王妃なのに?」

「王妃だからよ。庶民役なら木綿」

幕が下りると、エステルは王冠を外す前に襟へ指を入れた。侍女役の女が背中の留め金を外し、衣裳係が次の幕の手袋を探しているあいだ、彼女は「これ、背中が痒い」と言った。針金の先が当たったところだけ赤くなっていた。ネリネが布を小さく畳んで挟むと、エステルは鏡も見ずに「次の幕まで五分」と言った。

そこへエリアが現れた。彼は切符を持っておらず、舞台裏の出入口から入ったらしい。

「喜歌劇を見る革命家?」

ネリネが言うと、

「革命家も歌は聴く」

「王立劇場で?」

「敵の金でいい歌を聴くのは勝利だ」

「切符払ってないなら、ただの不法侵入でしょう」

エステルが笑った。エリアは女優がいることに気づき、少し真面目な顔になった。

第三幕の途中、客席の後方で男が「自由万歳」と叫び、すぐ帝国兵に連れ出された。舞台は止まらなかった。王冠を質入れした王が踊り続け、観客の半分は舞台を見、半分は連行される男を見た。エステルは後で、「あのとき歌を止めたら、私まで政治になる」と言った。

「続けても政治でしょう」とネリネが言うと、エステルは化粧を落としながら、

「じゃあ、どっちにしても給料は同じね」

と答えた。

その言葉をエリアは軽薄だと言った。ネリネは、軽薄で何が悪いのかと反論した。そこから二人は劇場の裏階段で二十分喧嘩し、最後にはエステルが「あなたたち、私の楽屋の前で世界を救わないで。着替えられない」と追い払った。

外へ出ると夜のチヴィタは劇場の照明より暗く、兵士が角ごとに立っていた。ラウロは馬車を待ちながらネリネへ外套を渡し、エリアは人混みの中へ消えた。

数年後、王国が変わり、劇場の名も変わり、『青い王冠』は上演されなくなった。古い劇場の話になると、ネリネは王冠の留め金が固かったことと、エステルの背中に細い赤い跡がついていたことを思い出した。

ラウロとの関係は、恋愛というより長い交渉に近かった。彼は結婚を急がず、彼女も急がなかった。ある夕方、二人で帽子屋から出たところで、ネリネが突然訊いた。

「わたしを妻にしたい?」

ラウロは歩きながら答えた。

「したい日と、したくない日がある」

「今日は?」

「雨だから判断したくない」

「関係ある?」

「濡れた靴で人生を決めると、あとで靴のせいにできる」

「臆病ね」

「そうだよ」

彼があっさり認めたので、ネリネはそれ以上攻撃できなかった。

ラウロはその後も、婚約指輪の注文には二週間迷い、港の古い倉庫を買う契約は一晩で決めた。ネリネが順序が逆だと言うと、彼は「倉庫は値段がわかる」と答えた。

エリアが緑の部屋へ現れた夜、彼は追われている男には見えなかった。帝国兵の監視を逃れるため、地方から来た書籍商という身分証を持ち、灰色の上着を着て、教授の紹介で夫人の客として入ってきた。三十を少し越え、痩せ、目だけが眠っていない男だった。

彼は最初の一時間、ほとんど話さなかった。将校が帝国の道路政策を褒め、教授が国民の自治を論じ、伯爵が新しい歌劇の衣裳を話しているあいだ、エリアは菓子を一つ食べ、窓の外を見ていた。ネリネは、黙っている人間を見ると理由を知りたくなる癖があり、その夜も彼の近くへ座った。

「退屈?」

「聞いてる」

「何を」

「今は人の話を聞いてる」

「一時間も?」

エリアは窓の外を見た。「まだ一時間か」

ネリネは、その返事も少し気取っていると思った。

「それなら、あなたも同じね。ずっと話してない」

エリアは初めて笑った。

彼は秘密結社「炭焼き」の一員だった。チヴィタでは数年前から、兵舎へ火がつき、徴税吏が襲われ、夜の壁に独立を求める言葉が書かれ、朝になると帝国側が塗りつぶすことが繰り返されていた。緑の部屋には独立派も帝国派もいたが、ほとんどの者は自分が安全な範囲でだけ勇敢だった。エリアはその安全を軽蔑していた。

その軽蔑が、ネリネには最初、不快だった。

「あなた、ここの人をみんな馬鹿にしてるでしょう」

「してない」

「してる顔」

「顔まで政治にするのか」

「顔のほうが先に政治にしてる」

「どういう意味だ」

「あなたは、正しい側にいる人の顔をしてる」

彼は笑わなかった。

「ある。少なくとも今は、帝国を追い出す側だ」

「そういうところ」

その夜、二人は喧嘩して別れた。

次の週、また会った。今度はエリアのほうから話しかけた。

「君は、何がしたいんだ」

「今?」

「人生で」

「そういう質問する人、信用しない」

「なぜ」

「答えを一個にしたがるから」

エリアは「答えになってない」と言った。

「踊りたい」

「踊れない」

「じゃあ習えば」

彼は本当に習った。ひどく下手だった。ネリネはそれを見て、初めて彼の思想以外の部分を好きになった。

最初の稽古は緑の部屋でやった。ネリネが一人で教えるつもりだったのに、エステルが横から「その持ち方じゃ女が逃げる」と口を出し、若い伯爵まで立ち上がった。エリアは三人から別々のことを言われ、何度も同じところで足を間違えた。

ラウロが遅れて入ってきたとき、エリアは絨毯の端へ踵を引っかけたところだった。ラウロは笑わず、彼の左肘を少し上げた。

「ここを固めると、相手も固くなる」

エリアは黙って直した。

二人がまともに話したのは、それが最初だった。次の週から政治の話では何度も衝突したが、音楽が鳴るとラウロが一度だけ手で拍を示し、エリアがそれを見ることがあった。誰もそのことを話題にしなかった。

ある晩、夫人の犬がエリアの靴へ吐いた。エリアは革命家らしい反応を何ひとつせず、しばらく固まってから、侍女に布を借りた。エステルが笑いすぎて涙を出し、ネリネも笑った。翌週、エリアは犬へ肉を持ってきた。

犬は肉だけ食べ、エリアには懐かなかった。

エリアと会う日が増えるにつれて、二人の話は政治から始まって恋愛へ移るのではなく、政治の途中へ食事や嫉妬や睡眠不足が入りこみ、抱きあったあとに誰かの噂を再開し、喧嘩の最中に翌日の待ち合わせを決めるようになった。エリアは、帝国を罵りながら兵隊の弟へ毎月金を送る港の男や、独立派を家へ匿いながら隣家のパン泥棒は役人へ突き出した女の話をした。ネリネが最初の男について「じゃあ帝国側なの」と訊くと、エリアは「弟は弟だろ」と答えた。別の日には似た話をしている途中で苛立ってやめ、また別の日には、前に自分が言ったことを忘れて反対のことを言った。ネリネはそれを覚えていたが、毎回は指摘しなかった。

その一方で、エリアが「民衆」と言うたび、ネリネは誰のことか訊いた。

「港の労働者も?」

「もちろん」

「あなたが昨日、酔って邪魔だと言った男も?」

「個人の話じゃない」

「民衆って個人じゃないの」

「そういう揚げ足を取るな」

「じゃあ、わたしも民衆?」

「君は……」

彼が言いよどむと、ネリネは笑った。

「ほら」

エリアは彼女の服を嫌う日があった。絹の手袋、侯爵夫人から借りた宝石、劇場の桟敷。彼にはそれらが、支配階級の皮膚に見えた。

「服を脱げば革命家に見える?」

「そういう話じゃない」

「いつもそう言うね。『そういう話じゃない』って、便利」

「その手袋を外しても、君は明日またこの家へ戻れる」

「戻れるなら黙ってろってこと?」

「そうは言ってない」

「言い方は同じ」

喧嘩のあと、二人は激しく求めあうことがあり、また数週間会わないこともあった。ネリネは、それを情熱だと思う日と、単に二人とも喧嘩好きなのだと思う日があった。

炭焼きから頼まれる用事が増えた。誰がどの夜会へ招かれるか、どの役人が賭博の借金を抱えているか、どの馬車が検問で止められにくいか、どの仕立屋が制服の注文を受けたか。ネリネは知っていることを人づてに渡し、曖昧なことは曖昧なまま言った。あとで間違いだとわかることもあった。

エリアは彼女の働きを喜んだが、秘密結社の仕事へこれ以上入るなと何度も言った。ネリネには、その心配が自分だけ半人前に扱われているようで腹立たしかった。

「君は深く入りすぎる」

「最初は政治を知らないって馬鹿にしたでしょう」

「馬鹿にはしてない」

「した顔」

「また顔か」

「顔は便利よ。否定できないから」

彼は両手で彼女の頬を挟み、「君はいつか、この口のせいで撃たれる」と言った。

「そのときは、あなたの予言が当たったって自慢して」

蜂起の前年、チヴィタでは食料価格が上がり、帝国軍は夜間外出を制限し、独立派は武器を集めた。緑の部屋の会話も変わった。以前なら笑いで逃げられた話題が逃げなくなり、将校は来なくなり、教授は国外へ出、伯爵は帝国側の委員会へ入り、金貸しの妻は夫の金庫から独立派へ金を流しているという噂が立った。

ベアトリーチェ夫人は相変わらず晩餐を開いたが、銀器を半分売った。

「革命のため?」

ネリネが訊くと、夫人は「屋根の修理」と答えた。

「どっちが本当?」

「屋根は本当に雨漏りしてるわ。革命はまだ漏ってない」

同じ頃、ルチアが四日だけ休みを願った。姉が初めて子を産み、手が足りないという。クララは三日で戻れと言い、夫人は四日でも五日でも同じでしょうと言った。若い侍女は五日目にも戻らなかった。

六日目の午後、ルチアが赤ん坊を抱いて現れた。乳母が急に来なくなったので、もうしばらく休ませてほしいと言った。赤ん坊は夫人の犬を見ると泣き、犬は暖炉の下へ逃げた。クララは侍女を叱りながら、赤ん坊の帽子が薄すぎると言って自分の肩掛けで包んだ。

ルチアは三週間後に戻った。皆から赤ん坊のことを訊かれ、「よく泣きます」とだけ答えた。夕食の皿を運ぶ途中で一度立ち止まり、袖口についた赤ん坊の吐いた乳の白い染みを指でこすった。春まで屋敷にいたが、初夏のある朝、クララへだけ行き先を告げて辞めた。クララはその日の午後まで代わりの人を探さず、夕食前になってから料理人に「今夜は一人少ない」と言った。

ラウロの商売も難しくなった。普通の荷は減り、軍から運べと言われる箱ばかりが増えた。一度は断ったが、その荷は別の会社が運び、翌週にはラウロの倉庫で働く男たちの仕事が半分になった。三週間後、同じ話が来たとき、ラウロは受けた。

エリアは怒った。

「血で儲ける気か」

ラウロは食卓でナイフを置いた。

「荷を運ぶ会社を閉めれば、明日から倉庫の男たちが仕事を失う」

「帝国は別の会社を使う」

「その通り。だから帝国は困らず、四百人だけ困る」

「そうやって全員が自分の四百人を守るから、帝国が続く」

「君は仲間を死なせて国を作るのか」

「必要なら」

「私は、その『必要なら』を言う人間を信用しない」

ネリネは二人のあいだに座り、どちらにも腹が立った。エリアが「必要なら」と言った声が嫌だった。ラウロが倉庫の男たちを口にしたのも嫌だった。その夜は食事を残し、帰ってから理由もなく赤いドレスを衣装箱の奥へ押しこんだ。

数週間後、帝国軍が郊外の村を一つ封鎖し、武器を出さなければ家々を焼くと告げた。炭焼きは近くの倉に銃を隠していた。村人の多くは組織と無関係だった。

ネリネは情報を得た。帝国側の副総督は、武器庫の場所さえわかれば見せしめの焼き討ちは避けるつもりだという。情報源はラウロの取引先で、確実とは言えなかった。

ネリネはエリアへ相談しなかった。副総督へ会う前、馬車を一度止めさせた。降りなかった。御者が振り返ると、「そのまま」と言った。副総督の部屋では窓が開いていて、机の紙が風でめくれた。彼女は武器庫の場所を伝えた。帰りに手袋を片方なくした。どこで落としたかはわからなかった。

倉は夜明け前に襲われた。

武器は押収され、そこにいた六人が逮捕された。一人が逃げようとして撃たれ、死んだ。村は焼かれなかった。

翌日の新聞は「流血なき鎮圧」と書いた。

ネリネは、その一行を三度読んだ。

エリアは三日後に知った。

「君か」

緑の部屋には二人しかいなかった。壁紙は冬の湿気で一部浮き、窓の外では兵士の靴音がしていた。

「そう」

「なぜ」

ネリネは村の封鎖から話し始めた。途中で副総督の言葉を二度言い直し、六人の名のうち一人を飛ばしてエリアに戻された。撃たれた男の名を言ったあと、水を飲んだ。

「あなたなら、どうした」

「俺に訊かなかった」

「訊いたら止めたでしょう」

「だから訊かなかったのか」

「たぶん」

「村を救ったつもりか」

「救われた家はある」

「死んだ男もいる」

「知ってる」

「その両方を同じ口で言えるのか」

ネリネはすぐ答えなかった。舌が乾いているのに気づき、空の杯へ手を伸ばして戻した。

「同じ日に起きたから」

エリアは椅子を蹴った。倒れた椅子を直さなかった。

「死んだ男の名前は」

ネリネは口を開いたが、最初の音が出なかった。

エリアは待った。

ようやく名前を言った。エリアは何も返さなかった。

沈黙が長くなった。ネリネは、自分が泣けば話が別の形になることを知っていた。泣かなかった。

「もう会わない」とエリアは言った。

「そう」

「それだけか」

「何を言えばいいの」

「わたしも」

彼は出ていった。

その夜、ベアトリーチェ夫人は緑の部屋にいた。窓際の壁紙が湿気で浮き、風が入るたびかすかに鳴ったが、夫人は直さなかった。ネリネは入ってからしばらく立ったままだった。

「伯母さま、わたし、人を死なせた」

夫人はすぐには答えなかった。

窓際の紙がまた小さく鳴った。

「妻は」

「いる。弟も」

「会ったことは」

「ない」

夫人は隣の椅子を足で少し押した。「今夜はここにいなさい」

ネリネは座った。二人とも、それ以上は話さなかった。

蜂起は、誰もが何年も口にしてきたわりには、始まったときひどく段取りが悪かった。南門で合図になるはずの鐘は鳴らず、兵舎では予定より半日早く銃声がし、港の荷役人は炭焼きの指令を待たずに仕事を止め、旧市街の若者たちは武器が届く前から役所の窓を割った。後になれば、どこで誰が何を間違えたかを一覧にすることもできたが、その三日間のチヴィタでは、正しい命令はたいてい遅く届き、間違った噂ほど脚が速かった。

ベアトリーチェ夫人の屋敷には、最初の日の夕方から負傷者が運びこまれた。緑の部屋から長椅子と小卓が追い出され、絨毯の上へ藁を敷いた寝台が並び、かつて自由と帝国について三時間でも話せた若い伯爵が、腕に弾が入っただけで母親の名を何度も呼んだ。帝国軍人だった男の妻が包帯を巻き、クララは古い卓布を裂いて帯にし、切れない鋏へ二度悪態をついた。料理人は誰が敵か味方か訊くのを途中でやめ、鍋を三つ増やした。ネリネは水を運び、薬局を回り、ラウロの倉庫から毛布と油を出させ、門番には知らない顔を入れるなと言いながら、十分後には自分で知らない顔を二人入れた。

三日目の夜、エリアが担ぎこまれた。脇腹を撃たれており、血で上着が板のように固くなっていた。目を開けた彼は、ネリネを見た瞬間、何か言おうとしたが、咳をしてやめた。

「別の家へ移す?」

ネリネが訊くと、医師は顔も上げずに、「動かしたら出血が増える」と言った。

「あなたに訊いてない」

エリアは長く息をした。

「ここでいい」

ネリネは、痛みが強く、別の場所を選ぶ体力がなかっただけかもしれないと思った。そう思うと少し安心し、安心した自分に腹を立てた。

彼が屋敷にいた五日間、二人はほとんど必要なことしか話さなかった。水を飲むか、熱があるか、誰が捕まったか、南門はまだ持っているか。三日目の朝、ネリネが薬匙を落とし、エリアが拾おうとして傷口を痛めた。彼は悪態をつき、ネリネは笑った。二人とも笑うつもりはなかったので、すぐ黙った。そのあと彼女は薬匙を洗い直した。

六日目、蜂起がほぼ潰れたという報せが来た。エリアは夜中に寝台から起きようとし、床へ足を下ろしたところで顔を白くした。

「どこへ行くの」

「南へ」

「立てないでしょう」

「立てる」

立てなかった。ネリネは肩を貸そうとしたが、彼は手で拒み、その手も震えていた。

「逃げるなら、ラウロが船を用意できる」

エリアはしばらく何も言わなかった。窓の外で、遠く一度だけ銃声がした。

「船に乗ったあと、何になる」

「生きてる人」

「それだけか」

「いまは十分じゃないの」

エリアは首を振ったが、反論はしなかった。その翌朝、彼は屋敷を出て帝国軍へ出頭した。のちにネリネが理由を訊くと、「仲間を置いて逃げる気がなかった。それだけだ」と言った。ネリネは、屋敷への捜索を避けたかったのではないか、国外で誰かの客として生きるのが嫌だったのではないかと訊いたが、エリアは「それだけだ」と繰り返した。

死刑判決が出た。

ラウロは判決文を読んだあと、英雄のようなことを何ひとつ言わず、昼食を半分残して銀行へ出かけた。翌日は副総督の妻の兄を訪ね、その翌日は司教の秘書と三時間待たされ、四日目には海運会社の持分を一部売り、五日目には帝国寄りの新聞へ、政治犯を殺すより生かしておくほうが支配者の余裕を示すという、本人も「下品だ」と言う論説を匿名で載せた。ベアトリーチェ夫人は昔の友人へ手紙を書き、ネリネは役人の妻たちを訪ね、以前に貸した金や助けた親戚のことまで持ち出した。

減刑の話が出たとき、炭焼き側には国外追放を条件に助かる者もいた。エリアは拒んだ。結局、死刑は終身刑へ変わった。

ネリネは判決変更の紙を持ってラウロの事務所へ走った。ラウロは机の上の船荷証券から目を離し、紙を読み、椅子へ座り直した。

「これで死なない」

ネリネが言った。

「まだ監獄だ」

「わかってる」

ラウロは紙をもう一度見た。「喜べばいい。私はまだうまくできない」

ラウロはそう言ってから指で眉間を押した。ネリネは紙を畳んだ。廊下で時計が鳴り、ラウロは数を途中で間違えた。

最初の面会は冬だった。監獄の石壁は外より冷え、待合室には政治犯の家族だけでなく、盗み、殺人、脱走で捕まった者の妻や母や弟が同じ椅子に座っていた。隣の女は手籠に煮豆を入れ、看守に持ち込みを断られて泣いた。ネリネは自分の面会の前に、その女が豆をどうするのかばかり気になった。

エリアは痩せていた。髪を短く刈られ、以前より若くも老いても見えた。

「減刑のこと、知ってる?」

「聞いた」

「ラウロも動いた」

「そうか」

そこで会話が止まった。

ネリネは、武器庫で撃たれた男の名を言った。その妻の家へ行ったこと、金を持っていって二度返され、三度目だけ受け取られたこと、弟には戸口から奥へ入れてもらえなかったことを話した。別の家では子供が彼女の帽子を欲しがり、母親に叱られた。もう一つの家では、誰も彼女を責めなかった。そのほうが帰り道に長く残った。エリアは途中で一度も口を挟まなかった。

「何が言いたい」

エリアが訊いた。

「わからない。たぶん、知ってほしい」

「誰に」

「あなたに」

「なぜ」

そこは答えられなかった。赦してほしいのかもしれず、赦してほしくないのかもしれず、自分が忘れていないことを証明したいだけかもしれなかった。ネリネは黙り、エリアも急かさなかった。

「その妻は、君に何て言った」

「三度目は何も」

「そうか」

「いまは?」

エリアは口を開きかけ、閉じた。廊下で看守が咳をした。

「いまは、腹が減ってる」

面会時間が終わった。

撃たれた男の妻マリアは、三度目に届いた金を受け取った翌朝、鍋を一つ買い替えた。古い鍋は底が薄くなり、豆を煮るたび焦げた。弟は包みを見て何か言いかけたが、マリアが古い鍋を裏返すと、小さな穴から窓の光が見えた。結局、弟が市場へ買いに行った。

冬の終わり、近所のパン屋で働く女が熱を出し、マリアは三日だけ代わりに入った。三日が十日になり、そのまま春まで残った。朝が早いのを嫌い、窯の前の暑さをもっと嫌ったが、生地を同じ大きさに切るのだけは早かった。店主は褒めず、足りないときだけ数を言った。

朝の仕込みには、ルチアという女もいた。昼すぎまで働き、夕方になる前に必ず帰った。家には姉と赤ん坊がいると言い、眠い日は生地を丸めながら立ったまま欠伸をした。マリアは最初、屋敷勤めだったという彼女の手がパン生地には細すぎると思ったが、一週間もすると見なくなった。

ルチアは焦げた端を好み、マリアは嫌った。雨の日だけ帰り道が同じになり、傘が一本しかないと肩を濡らしながら歩いた。夏になる前、ルチアは姉の家が遠くなると言って別の店へ移った。店主は三日ほど悪口を言い、そのあと新しい女の名前を覚えた。

その帰り、ネリネはベアトリーチェ夫人のところへ寄った。夫人は暖炉の前で新聞を読んでいたが、眼鏡を外すと活字が滲み、最近それを誰にも言っていなかった。

「エリアは何て?」

ネリネが答えずにいると、夫人はしばらく待ち、それから自分の手元の紙を裏返した。

「若いころは、失敗すると翌朝には人を呼んで相談したものよ。いまは翌朝まで覚えていないことがある」

ネリネは暖炉へ炭を足した。

「じゃあ、何もしない?」

「今日はしない。頭が痛いもの」

夫人は眼鏡を掛け直し、同じ段をもう一度読んだ。途中で行を見失い、舌打ちして新聞を畳んだ。

ネリネは笑わなかった。夫人も笑わせようとはしなかった。

春、ネリネはラウロと結婚した。

彼を愛していた。侯爵夫人の屋敷を手伝う都合もあり、ラウロの仕事には彼女の手が要った。独身のままでも暮らせたが、ラウロと朝食を食べるのが好きだった。婚礼の前夜にはエリアのことを考えた。朝、ラウロが迎えに来たときも考え終わってはいなかった。それでも二人は教会へ行った。

婚礼の夜、ラウロは長椅子へ毛布を置いた。

「何をしてるの」

「寝る準備」

「そこに?」

「君がどうしたいかわからない」

「訊けばいいでしょう」

「いま訊いてる」

ネリネは笑ったが、その夜すぐ彼を寝台へ呼んだわけではなかった。二人は窓際で残った葡萄酒を飲み、婚礼で誰が酔いつぶれたか、司教の説教がどれだけ長かったか、給仕が祝杯を誰の袖へこぼしたかを話した。眠くなった頃になって、どちらからともなく寝台へ移った。

春、マリアはパン屋の二階へ移った。四度目の封筒は前の家へ届き、二か月して送り主へ戻った。近所には転居先を知る者もいたが、郵便屋に訊かれなかったので誰も言わなかった。マリアはその封筒が来たことを知らなかった。

五月の休みの日、店の女たちと川へ行き、借りた帽子を風に飛ばした。マリアともう一人が追って膝まで濡れた。帰り道、誰の帽子だったかで二人は言い合いになり、夕方には同じ卓でパンを食べた。

結婚七年目の六月、チヴィタの港で荷役人が賃上げを求めて仕事を止めた。独立して国旗も役所の看板も変わったが、港で朝から荷を担ぐ男たちの賃金はほとんど変わっていなかった。

ラウロの会社も止まった。倉庫には小麦、染料、機械部品、腐りやすい柑橘が積まれ、船は岸壁で待ち、外国商社からは電報が届いた。ラウロは要求を全部呑めば会社が傾くと言った。ネリネは倉庫の責任者や船頭に三日聞いて回り、設備を少し遅らせれば要求のかなりの部分までは出せると見た。二人はそこで初めて大きく喧嘩した。

「設備更新を一年延ばせば出るでしょう」

「一年遅れれば、来年の競争に負ける」

「来年の競争のために、今年の人間を安く使うの」

「そういう言い方をするなら、話は終わりだ」

ラウロは席を立った。

ネリネは追いかけなかった。翌朝も二人の意見は変わらず、朝食の途中でまた同じところから喧嘩を始めた。

ストライキ四日目、倉庫の一つで火が出た。誰かが放火したという噂が立ち、会社側は組合員を疑い、組合側は保険金目当ての自作自演だと言った。実際には、古い油布のそばで夜警が煙草を吸ったことが原因だった。真相が出るまでの二日間に、互いの不信だけは真相より速く増えた。

その夜警の妻がネリネを訪ねた。夫を解雇しないでほしいと言いに来たのだが、女は泣かず、何度も同じ話をし、途中で自分でも何を頼みに来たのかわからなくなったらしく、最後には「煙草をやめろって私は百回言ったんです」と怒りだした。ネリネは会社の決定権が自分にあるわけではないと説明した。女は「でも奥さんでしょう」と言った。

その一言が、ネリネには妙に腹立たしかった。

「奥さんなら、何ができると思ってるの」

女は答えなかった。答えられないのではなく、そんな質問をされると思っていなかった顔だった。

夜警は解雇された。組合との交渉はまとまり、賃金は要求額の三分の二だけ上がった。設備更新は半年遅れ、翌年になって始まった。会社は潰れなかった。

その頃、マリアのいるパン屋では店主の長男が結婚し、二階の一室を空けるため、袋麦と壊れた椅子を一日かけて移した。マリアは新婦と最初の週に塩の量で揉めた。二人とも翌朝には四時から生地をこねなければならず、喧嘩は途中のまま寝た。三日後には、どちらが先に怒ったのか話が違っていた。

同じ年の秋、ラウロが若い歌手テレザと関係を持っていることがわかった。

ネリネは最初、気づかなかった。ラウロが帰宅の遅い日を港の仕事だと思い、襟についた化粧粉を劇場の桟敷で誰かと挨拶したせいだと思い、彼が新しい香水を使い始めたときは自分が嫌いだと言った古い香りをようやく捨てたのだと思った。あとで日付をたどると、半年近かった。

知ったのは、ラウロが嘘をついたからではなく、テレザ本人が昼間の屋敷へ来たからだった。

二十二、三の女で、舞台では声がよく通ったが、普通に話すと語尾が聞き取りにくかった。玄関でネリネを見た途端、用意してきたらしい言葉を忘れた。手袋を片方だけ外し、もう片方をつけたまま、長いあいだ立っていた。

「ラウロに会いに来たの?」

テレザは頷いた。

「いまいない」

また頷いた。

ネリネは、相手が何か言うのを待った。女は何も言わない。沈黙を読むことならできると思っていたが、そのときの沈黙が怯えなのか挑戦なのか、後悔なのか単に言葉が出ないのか、まったくわからなかった。

「お茶、飲む?」

自分でもなぜそう言ったのかわからなかった。

テレザは首を横に振り、帰った。

夜、ラウロは認めた。謝った。説明しようとした。ネリネは途中で「説明しないで」と言い、その五分後には「やっぱり説明して」と言った。説明を聞くと腹が立ち、聞かないともっと腹が立った。ラウロは自分が愚かだったと言い、ネリネは、その言葉が便利すぎると怒鳴った。

二日後、彼女は家を出た。侯爵夫人の屋敷へは行かず、駅前の中級ホテルへ二部屋取った。友人たちは何度も訪ね、赦すのか別れるのか訊いた。ある日は別れると言い、翌日はわからないと言い、その次にはその質問自体に腹を立てた。三週目には、誰かが答えを求めても黙るようになった。

三週間後、テレザがホテルへ来た。

今度は手袋をしていなかった。

「別れました」

それだけ言った。

「私に報告しなくていい」

テレザは唇を噛んだ。ネリネはまた、この女の顔を読み違えている気がした。

「あなた、私が勝ったと思ってる?」

テレザは初めてネリネを正面から見た。

「そういう顔をしてるから、嫌いでした」

声は小さかった。

ネリネは何も返せなかった。

次に二人が会ったのは、共通の知人の葬儀だった。劇場で会えば挨拶し、隣になれば必要なぶんだけ話した。ネリネはテレザの声を舞台では知っていたが、まだ彼女が朝に何を食べるかも、雨を嫌うかどうかも知らなかった。

ネリネは二か月後、雨の午後に外套を取りに家へ戻った。ラウロはいなかった。待つつもりはなかったが、濡れた靴を脱ぎ、台所で湯を沸かしているうちに彼が帰った。二人は別居を終える話をしなかった。夜が遅くなり、ネリネはそのまま泊まった。翌日、ホテルへ荷物を取りに行った。友人は赦したのねと言ったが、ネリネは訂正しなかった。

戻った日の夕食で、ラウロは何度も話しかけようとし、結局、塩を取ってくれと言った。

ネリネは塩を渡した。

数か月後、二人はまた葬儀で会った。死んだのは劇場の老指揮者で、ネリネは三度しか話したことがなく、テレザは十年以上一緒に働いていた。式のあと雨が降り、二人は同じ軒下で馬車を待った。テレザは泣かなかったが、濡れた靴をずっと気にしていた。

「こういう日に靴のこと考えるの、嫌になる」

「考えるでしょう」

ネリネが言うと、テレザは初めて笑った。

その冬、テレザが喉を傷めた。ネリネは医師を紹介したが、診察の日には付き添わなかった。代わりに三日後、劇場の裏口へ蜂蜜を持っていった。テレザは蜂蜜が嫌いだった。二人で近くの食堂へ行き、蜂蜜は給仕の娘へ渡した。

昼食の話題はラウロにならなかった。テレザの母が若いころ毎年同じ男と喧嘩していたこと、ネリネが島で山羊に靴紐を食べられたこと、劇場の新しいテノールが音程より鏡を気にすることを話した。

何度か会ううち、テレザはネリネの家にも来るようになった。最初はラウロがいない時間を選んでいたらしいが、そのうち選ばなくなった。

ある夕方、ラウロが早く帰ると、二人は台所で梨を剥いていた。テレザが舞台衣裳の袖について怒っており、ネリネは半分しか聞いていなかった。ラウロは入口で一度止まり、「ただいま」と言った。

「おかえり」

ネリネが答え、テレザも同じように言った。

ラウロは上着を脱ぎ、しばらく三人で梨を食べた。テレザは話の続きをし、ラウロは聞いていたが、途中から自分に向けられていない話だとわかると、新聞を開いた。

その夜、テレザが帰ったあと、ラウロは「仲がいいんだな」と言った。ネリネは返事をしようとして、何を訊かれているのかわからず、「そうかもね」と言った。ラウロはそれ以上訊かなかった。

翌月、テレザは別の男との喧嘩をネリネへ相談した。ネリネは役に立たない助言をし、テレザは聞かなかった。二週間後、二人は別れた。

その翌週、テレザの劇場にアルマという新人の歌手が入った。最初の稽古で緊張して水を飲みすぎ、二幕目の前に衣裳を脱いで便所へ走った。テレザは代わりに髪飾りを持ち、戻ってきた彼女へ「舞台で死ぬより便所で遅れるほうがまし」と言った。アルマは笑わず、息を整えて舞台へ出た。

アルマはテレザを先生と呼び、テレザはそのたびやめろと言った。ある日、髪留めを一本貸したまま返ってこなかった。数か月後、衣裳箱の底で似た髪留めを見つけたが、自分のものだったか確信がなく、テレザはそのまま箱へ戻した。

十一

ベアトリーチェ夫人が死んだのは、その二年後だった。最後の冬には耳が遠くなり、来客の話を半分しか聞かずに相槌を打ったため、若い政治家から「老いても寛容な方だ」と評された。本人はその評判を知らなかった。

緑の部屋は屋敷売却の前に家具置場になった。壁紙は何度も貼り替えられ、一箇所だけ古い緑が大きな書棚の裏に残っていた。ネリネはその色を見ても、エリアだけを思い出さなかった。金貸しの妻の笑い声、王立劇場の女優が背中を掻いていたこと、ラウロの濡れた靴、夫人が銀器を売った年の屋根の雨漏り、夜中まで菓子を食べていた若い伯爵の横顔が、順番も理由もなく戻った。

エリアは獄中九年目に熱病で死んだ。報せを受けた日、ネリネは劇場へ行く予定を取りやめた。黒い服へ着替え、しばらくして脱ぎ、夕方まで寝室にいた。夜になってラウロが扉の外へ椅子を持ってきた。何も訊かなかった。真夜中近く、ネリネが扉を開けて「死んだ」と言うと、ラウロは「聞いた」と答えた。二人は灯りが小さくなるまでそこにいた。

その夜、彼女はラウロに、エリアのことを話した。最初に会った夜ではなく、踊りが下手だったことでもなく、監獄でもなく、ある冬に彼が酸っぱい梨を一口かじって顔をしかめ、それでも捨てずに全部食べた話だった。ラウロは聞いていた。途中で一度だけ、暖炉の薪を足した。

結婚生活は十九年続いた。長かったので、あとから名前のつかない日がいくらでもあった。午前中だけ互いを嫌っていた日、夕方には忘れた喧嘩、雨で出かけるのをやめて二人でカードをした日、同じ本を別々の部屋で読み、夕食で結末について揉めた日。子はできなかった。医師へ行った年も、行かなかった年もあり、やがて二人とも通院をやめた。検査結果の紙は寝室の引き出しに残り、ラウロの古い手袋の下へ埋もれた。

ある冬、二人は三日間ほとんど口をきかなかった。原因はネリネがラウロの手紙を勝手に開けたことだったが、四日目には台所の煙突が詰まり、二人で煤だらけになって掃除した。仲直りしたわけではなく、怒ったまま梯子を支えあった。夕食のころにはどちらから謝るべきだったかが曖昧になった。

別の年には、ラウロがテレザの出演する慈善公演へ一人で行った。ネリネは行かなかった。帰宅した彼へ感想を訊き、ラウロが「高音が少し苦しそうだった」と答えると腹が立った。なぜ腹が立ったか説明できず、そのまま寝た。翌朝には二人で同じ新聞を取り合った。

テレザが昼食へ来る日もあった。三人でいることに慣れたとは誰も言わなかった。ラウロとテレザだけが昔の歌手の話で盛り上がり、ネリネが置いていかれる日もあり、その逆もあった。誰か一人が先に帰ったり眠ったりすると、残った二人は別の話をした。

ラウロが肺を悪くしたのは、ネリネが四十代の半ばに入ったころだった。療養地を三つ移り、海辺では湿気が悪いと言われ、山では空気が薄いと言われ、結局チヴィタの自宅へ戻った。病気になる前、彼は寝る前に必ず窓の鍵を見た。病気になってからは、それをネリネへ頼むようになった。

ある晩、ネリネは見に行くのを忘れた。

朝、ラウロが訊いた。

「鍵、閉まってた?」

「見てない」

彼は少し不安そうな顔をした。その顔を見て、ネリネは笑わなかった。起き上がり、窓を見に行った。鍵は閉まっていた。

「閉まってた」

「そうか」

ラウロは安心して眠った。

死んだのはその二週間後だった。

葬儀の翌朝、ネリネは習慣で窓へ歩き、手を鍵へ伸ばしたところで止まった。開ける理由も閉める理由もなかった。しばらくそのまま立ち、やがて窓を開けた。外では新政府の選挙演説を貼る男と、それを剥がす男が口論しており、牛乳売りの荷車が通れずに鐘を鳴らしていた。

ネリネは台所へ行った。コーヒーを淹れたが、一口飲んだところでそのまま座っていた。午前の鐘が鳴るころ、テレザへまだ知らせていないことを思い出した。

第三部 ヴェスペラ――魚市場通り

ホテル・オルフェには正面玄関が二つある、と新しく入った従業員へ説明するのが主人マルコーニの癖だった。一つは大通りに面した回転扉で、金文字の看板と赤い絨毯があり、雨の日には制服の少年が客の傘を預かった。もう一つは魚市場へ抜ける細い路地にあって、料理人、洗濯女、酒屋、借金取り、夜明け前に帰る歌手、正面で写真を撮られたくない政治家、正面を使うほどの宿代を払っていない長期客が出入りした。マルコーニは後者を玄関とは呼ばず「搬入口」と呼んだが、鍵は同じ鍵束に下がっていた。

ジュリオが夜番を始めた年、ヴェスペラでは高架鉄道を壊すか残すかで市会が揉めていた。壊せば光が入る、残せば街らしさが残る、列車は遅い、遅い列車も街の一部である、橋脚の下は危ない、橋脚の下で商売をしている者もいる。新聞は毎日違う写真を載せた。マルコーニは最初どちらにも興味を示さなかったが、高架がなくなれば正面側の客室を値上げできると不動産屋から聞いた日から、撤去賛成になった。

ジュリオは二十九歳で、昼は小出版社の校正、夕方から深夜までホテルの受付、夜勤の暇な時間に自分の小説を書く生活をしていた。本人は若いころ、それを都会的で少し悲劇的な暮らしだと思っていたが、実際にはたいてい眠く、昼の出版社では人名を間違え、夜のホテルでは校正記号を宿泊カードへ書きこみそうになった。小説は二年書いても終わらなかった。

ネリネ・ラウロ夫人が来たのは十一月の雨の日だった。夫を亡くして一年半ほど経っていた。黒い服を着ていたが帽子には紫の羽根がついており、支配人はジュリオに小声で「本式の喪ではない」と言った。ジュリオは意味がわからず、あとで本人へそのまま話した。

ネリネは帽子を脱いで羽根を指で整えた。

「本式だと何色なの」

ジュリオは答えられなかった。

「じゃあ支配人に訊いて。明日の服を決めるから」

その声が怒っているのか面白がっているのか、彼にはわからなかった。翌朝訊くと、彼女はその会話自体を忘れていた。

彼女は二つの大きなトランク、帽子箱、書類鞄、鉢植えのローズマリーを持っていた。長期滞在だが何か月かは決めていない。最上階は高すぎると言い、通り側はうるさいと言い、中庭側へ入った翌日に暗すぎると言い、角部屋二室を一室半の料金で借りる交渉を始めた。マルコーニは一時間粘り、最後に一室四分の一まで下げた。本人は勝ったつもりでいた。

ネリネは一週間もしないうちに正面玄関をあまり使わなくなった。魚市場のほうが銀行にも劇場にも近く、朝に魚を買えるからだった。

ロゼッタがヴェスペラへ来たのはその冬の終わりで、ホテルに泊まる金は最初から二週間分しかなかった。地方の縫製工場で五年働き、ジャケットの袖なら目を閉じてもつけられるつもりだったが、劇場の衣裳部で見せられた十九世紀風の袖は、自分が工場でつけていたものと形も順序も違い、最初の試験で左右を取り違えた。二つ目の店では都会での経験がないと言われ、三つ目では履歴書の「主任補佐」が実際には主任が休んだ二日間だけだったことを面接官に見抜かれた。

それでも毎朝、ロゼッタは口紅を引いた。ホテルの洗面台は四階の共同で、水はしばしば冷たく、鏡の中央には黒い斑点があった。口紅は工場を辞める前に同僚から贈られたもので、蓋を閉めても少しずつ乾いた。彼女は唇の輪郭を一度失敗すると布で全部拭き、やり直した。

宿代が六日遅れた朝、ジュリオが退去の話をした。ロゼッタは「明日払う」と答え、翌日も払わなかった。三日目、ネリネが受付の前を通りかかり、話を聞いた。

「縫えるの?」

ロゼッタは椅子から立たず、「縫えます」と言った。

「何を」

「服を」

ネリネは自分の上着を脱ぎ、ほどけた裏地を見せた。

「じゃあ、これ」

「宿代になります?」

「出来を見てから」

ロゼッタは返事をしなかった。その夜、裏地をほどくと、内ポケットの底まで糸が裂けていた。表からは見えなかったが、そのままなら数週間で袖まで引っぱられる裂け方だった。

ロゼッタは裏地だけでなく、擦れて薄くなっていた袖口の内側へ別布を当てた。翌朝、上着を返すと、ネリネは裏地をひっくり返して縫い目まで見てから、二週間分の宿代を払った。

「知り合いの衣裳商がある。行く?」

「紹介してくれるんですか」

「名前は出せる」

「じゃあお願いします」

ネリネは一瞬、何か別の答えを期待していたような顔をしたが、「じゃあ明日」と言った。

翌日、二人で店へ行った。店主はネリネの名を知っており、ロゼッタには縫い目を三本ほど作らせただけで、一週間の試用を決めた。

帰り道、ネリネは「簡単すぎたね」と言った。

ロゼッタは意味がわからなかった。

「仕事が決まったんだから、いいでしょう」

「そうね」

ネリネはそれ以上言わなかった。

試用の三日目、ロゼッタは首になりかけた。原因は技術ではなく速さだった。衣裳商の仕事では、袖を美しくつけるだけでなく、午後三時までに四着終える必要があり、ロゼッタは二着半しかできなかった。工場では遅い者を主任が怒鳴ったが、この店では女主人が何も言わず、完成数を紙へ書くだけだった。その静けさのほうが怖かった。

地方の工場では、同じ型の袖を一日に何十枚も縫った。針を入れる位置は身体が覚え、隣の女と話しながらでも手が動いた。ヴェスペラの店では、一着ごとに布が違い、客の身体も違い、しかも仕立てのよさを求める客ほど納期を短く言った。ロゼッタは最初、それを都会の洗練だと思ったが、二週間で単なる商売でもあるとわかった。

ある午後、喪服の仮縫いに来た裕福な未亡人が、鏡の前で「もっと痩せて見えない?」と訊いた。夫を亡くしたばかりだと店中が知っていたので、誰も笑わなかった。女主人は脇を少し詰めると言い、ロゼッタへ印をつけさせた。未亡人が帰ったあと、サビーナは「悲しくても腰は細く見せたいのよ」と言った。ロゼッタは返事をしなかった。母が父の葬式で借り物の黒い服を着て、袖が短いのを一日じゅう気にしていたことを思い出したからだった。あのとき自分は十五で、そんなことを気にする母を薄情だと思った。いまは、袖が短いまま人前に立つ一日の長さが少しわかった。

隣の卓のサビーナという女が、昼休みにパンを食べながら手順を教えた。仮縫いを全部するな、舞台で見えない内側は三針減らせ、糸を切るたび鋏を置くな、針を二本使え。ロゼッタは「雑じゃない?」と訊いた。

サビーナは肩をすくめた。

「客席から誰が数えるの」

ロゼッタはその日から速くなった。最初の給料をもらった週、サビーナへ昼食を奢った。

サビーナはそのころ、南駅裏の古い家で一部屋を借りていた。妹のネッラは二筋先の煙草売りで働き、母のパオラは市電の終点からさらに坂を上った村に住んでいた。三人とも近いと言い、互いの家へ行くたび遠いと文句を言った。

パオラは月に一度ほど、知らせずに娘たちのところへ来た。卵、固いチーズ、季節によっては豆や玉葱を籠へ入れ、街で同じものを買う値段を聞いて腹を立てた。サビーナは持って来なくていいと言い、次に何もないと「今日は手ぶら?」と訊いた。

ある日曜、パオラは籠の蓋を布で縛って来た。部屋へ入るなり布の下で何かが動き、サビーナが開けると雌鶏が首を出した。大家のベルタは階段の途中から「生き物は禁止」と言い、パオラは「食べ物よ」と答えた。

雌鶏はそのやり取りのあいだに籠から抜け、中庭へ降りた。洗濯物の下を走り、靴屋の徒弟が追い、二階の子供が箒を持って加わった。ベルタは捕まえろと言いながら、自分の裾が汚れるのを嫌って戸口から動かなかった。ネッラが仕事を終えて来たとき、全員が桶の陰を覗きこんでいた。

その日曜、ようやく雌鶏を捕まえると、パオラは夕食にすると言った。サビーナもネッラも首を切りたがらなかった。ネッラは「私は煙草を売る人」と言い、サビーナは「私は袖をつける人」と言った。靴屋の徒弟が自分ならできると言ったが、パオラは刃物の研ぎ方が悪いと断った。

結局その晩は豆とパンを食べた。雌鶏は寝台の脚へ紐でつながれ、床の縁を何度もつついた。夜中に一度鳴き、ベルタが壁を叩いた。パオラは翌朝連れて帰ると言い、三人ともそれで話が済んだつもりになった。

その翌朝、サビーナの部屋では雌鶏がいなかった。ベルタが夜明け前、向かいの建物の未亡人へ渡していた。うるさくて眠れなかったからだという。代わりに石鹸を二個もらったらしく、一個をパオラへ差し出した。パオラは受け取らず、ネッラが持って帰った。

二か月ほどして、ネッラは市場でよく似た雌鶏を見たと言った。パオラの鳥だと主張したが、サビーナは「鶏はだいたいああいう顔」と言った。二人は十分ほど言い合い、そのあと焼き栗を一袋買って半分ずつ食べた。

映画俳優リコ・サルヴァは、ホテルの五階へ三か月だけ滞在する契約だった。二十四歳、映画三本、雑誌の表紙四回、石鹸広告一回。雑誌は彼を「南の豹」と呼んでいたが、リコは撮影所でその呼び名を聞くたび笑った。笑わないと、本気で気に入っていると思われるのが嫌だった。

撮影の日は朝五時に起きた。映画では主人公が昼近くまで寝る遊び人だったので、観客はそのことを知らない。化粧係が顔の左側へ影を入れ、髪を額へ落とし、昨夜飲みすぎた目を「憂鬱」に変えた。監督は三度撮り直し、四度目に「自然に」と怒鳴った。リコは自然とはどの一回だったのか聞かなかった。

彼には母から週に二通手紙が来た。母は海沿いの町で雑貨店をしており、息子の記事を全部切り抜いて店の壁へ貼ったが、映画を見に行くことはほとんどなかった。長く座ると腰が痛むからだった。手紙には、隣家の犬が死んだ、砂糖の卸値が上がった、妹が結婚を考えている、あなたの写真は実物より顎が細い、と書いてあった。

春に母が一度だけヴェスペラへ来た。映画会社が家族写真を雑誌に載せたいと言い、汽車代を出したのである。リコはホテルの広い部屋へ移ろうとしたが、母は「二晩なら今の部屋でいい」と言い、五階の狭い客室へ泊まった。

撮影の日、雑誌の記者は母に、息子が子供のころから俳優になりたがっていたかと訊いた。母は「いいえ、船員って言ってました」と答えた。記者は笑い、もう一度ほぼ同じ質問をした。母は今度は少し考え、「人に見られるのは好きでした」と言った。その一文だけが記事に使われた。

帰りの汽車へ乗る前、母はリコへ、写真で見るより痩せた、食べなさい、と言った。リコは「映画ではこのほうがいい」と答えた。母は何も言わず、駅の売店で固いパンとチーズを買い、包みを彼へ持たせた。リコはホテルへ戻る途中で半分食べ、残りを翌朝まで机に置いた。

ある晩、ホテルのロビーでネリネと知り合った。リコは自分の映画を見たかと訊き、彼女は一本見たと言った。

「どれです?」

「馬に乗ってた」

「二本あります」

「じゃあ、覚えてない」

以前のリコなら傷ついたかもしれない。その夜は撮影で十七回同じ階段を上がったあとだったので、単に疲れていた。

「実物のほうがましですか」

「まだ実物を見た時間が短い」

リコは笑い、「じゃあ長く見てください」と言った。

ネリネは返事をせず、葡萄酒を一口飲んだ。

数週間、二人はときどき酒を飲んだ。リコは撮影所の悪口を言い、ネリネは海運会社の昔話をした。ジュリオは二人が寝たのではないかと疑ったが、確かめる機会がなかった。

撮影所ではリコより有名な俳優が毎週いた。ある日、国外から来た大スターが二週間だけ撮影に入り、食堂の席順が変わった。リコの楽屋は一つ奥へ移され、雑誌の記者は彼へ質問を三つしかしなかった。彼はその晩ホテルへ戻り、ロビーにファンが一人もいないことを確かめると、ジュリオに煙草を一本もらった。

「あいつが来てから、食堂の席まで変わった」

「そんなに違いますか」

「俺の席が違う」

リコはそのあいだ、灰皿を探していた。

ホテルでは、夜十一時を過ぎると厨房の隅に半端な食べ物が集まった。客へ出せないほど形の崩れたパイ、切り口の乾いたパン、翌朝には使えない煮野菜。料理人は捨てるくらいなら食べろと言い、夜番や洗濯場の遅番、帰りの遅い長期客が勝手に椅子を引いた。

ロゼッタは宿代を払えるようになってからも、ときどきそこへ来た。部屋で一人で食べるより暖かかったからだった。ジュリオは受付を空けられないので皿だけ持って戻ることが多く、リコは撮影が遅い日に帽子を深くかぶって座った。アニータは洗濯場を出る前に一杯だけスープを飲んだ。

ネリネが来る夜もあった。

ある晩、スープがひどく塩辛かった。リコが顔をしかめると、アニータが「水入れれば」と言った。リコは本当に水差しを取り、鍋へ入れすぎ、料理人に怒鳴られた。

「映画では料理しないの?」

ロゼッタが訊いた。

「切るふりはした」

「何を」

「玉ねぎ。中身は知らない」

アニータは笑わなかった。代わりにパンを二つに割り、一つをリコへ渡した。

別の日、ロゼッタが袖へ機械油をつけたまま来ると、アニータが石鹸を変えれば落ちると言った。ロゼッタは布が傷むと反論した。二人は十分ほど言い合い、翌日、ロゼッタが端布を三枚持ってきた。アニータは三通りに洗った。

一枚は縮み、一枚は色が抜け、三枚目だけ油が落ちた。

「ほら」

アニータが言った。

「一枚駄目にしてる」

「次は最初から三枚目でやる」

どちらも譲らなかった。ロゼッタはその三枚を持ち帰り、二枚は捨てずに裁縫箱の底へ入れた。

ある夜、ネリネが厨房へ来ると、いつも自分が座っていた壁際の椅子にアニータがいた。アニータは立たなかった。ネリネも何も言わず、空いている木箱へ腰掛けた。話はすでにリコの母親の腰痛から、魚屋の猫へ移っていた。ネリネは途中から聞いた。

地下の洗濯場で働くアニータは、ホテルに二十二年いた。十八で入り、二十六で結婚し、三十一で夫が工場事故に遭って片足を引きずるようになり、三十五で娘が家を出て、四十になった年も同じ地下でシーツを畳んでいた。彼女は仕事が好きだと言ったことも、嫌いだと言ったこともなかった。

ボイラーの音が大きいため、洗濯場の女たちは必要なことを短く叫んだ。三〇四、染み。五一二、破れ。タオルが二枚足りない。石鹸を追加。客室係へ戻せ。声を張り上げる癖が仕事の外でも抜けず、アニータは市場でも魚屋に怒っていると思われた。

新しい洗濯機が入るという話が出たのは春だった。主人は機械一台で女三人分の仕事ができると言った。実物を見た者はいなかった。

「三人分って誰の三人よ」

若い洗濯女が訊いた。

アニータは答えなかった。三人に入らない自信も、入る覚悟もなかった。

六月、十人の解雇が発表された。洗濯場からはアニータを含む三人だった。主人の事務所で紙を渡されたとき、アニータは文章を読むのが遅く、最初の段落で止まった。マルコーニが「要するに近代化です」と言うと、彼女は紙から顔を上げた。

「わからない」

「機械化です」

「それはわかる。なんで私なの」

マルコーニは勤続年数と退職金について説明した。アニータはもう一度「なんで私なの」と訊いた。同じ質問だったので、主人は少し苛立った。

アニータは泣き始めた。泣きながら声がさらに大きくなり、廊下へ出され、ロビーまで行って床へ座った。客が見ているから裏へ行けと言われても動かなかった。ネリネが椅子を持ってきて横に座ったのは、騒ぎを聞いて降りてきたからだった。

その晩、アニータは家へ帰っても解雇の紙を鞄から出さなかった。夫は台所で靴を脱ぎ、悪い脚を椅子へ乗せて新聞を読んでいた。夕食の豆を温め、二人で食べ、皿を洗ってからようやく紙を卓上へ置いた。

夫はゆっくり読んだ。字はアニータより速かったが、法律の言葉はわからなかった。

「いくら出る」

「そこに書いてある」

「読んでもわからん」

二人で金額のところだけ探した。退職金は半年暮らすには足りず、借金を返すにはもっと足りなかった。夫は自分も何か仕事を探すと言った。アニータは、脚が悪いのに、と言いかけてやめた。夫も、二十二年も働いたのに、と言わなかった。

翌朝、アニータはいつもと同じ時刻にホテルへ行った。まだ辞めさせられていないのだから働くのが当然だと思っただけで、抵抗の意思を示したつもりはなかった。若い女たちはそれを「強い」と言った。アニータは自分のどこが強いのかわからなかった。

「何する気」

アニータが訊いた。

「別に」

「じゃあ座らないで」

ネリネは立った。

翌日、アニータは元判事の部屋へ行き、解雇の紙を見てもらった。三日後にはほかの解雇予定者と集まり、五日目には市の労働相談所へ行った。相談所の男は、組合を作るなら在職中のほうが有利だと言った。アニータは組合という言葉を知っていたが、自分が作るものだとは思っていなかった。

「誰が代表やるの」

皆が黙った。

アニータも黙った。

結局、代表になったのは厨房の若い男だった。彼は字がきれいで、役所の話を途中で忘れなかったからである。アニータは会合へ毎回来たが、演説はしなかった。言いたいことが増えるほど、順番がわからなくなった。

ロゼッタはアニータが会合へ通っていることを厨房で知った。何を要求しているのか詳しくは聞かず、「忙しい?」と訊いた。

「忙しい」

「仕事より?」

「仕事もある」

それで会話は終わった。数日後、ロゼッタは仕立屋で失敗した絹の端切れを一袋持ってきた。洗い方を試すなら使っていいと言った。アニータは礼を言わず、袋を洗濯場の棚へ置いた。

リコはアニータの夫へ映画の招待券を二枚渡したことがある。夫は娘と行き、途中で腰が痛くなって出た。翌日、アニータがそのことをリコへ言うと、彼は映画の感想を訊いた。

「椅子が固かったって」

リコはしばらく黙り、それから大声で笑った。アニータは何がおかしいのかわからず、洗濯物を抱えて地下へ戻った。

ジュリオとネリネが親しくなったのは、どちらから始めたとも言えなかった。夜勤明けに魚市場で朝食を食べ、日曜に古書店へ行き、ときどき彼女の部屋で酒を飲んだ。身体の関係があった時期もある。ジュリオはその関係を何と呼ぶか気にしたが、ネリネへ訊くたび話が別の方向へ行った。

一度、彼は自分の小説を読ませた。

ネリネは二晩かけて読み、三日目に原稿を返した。最初の十頁には鉛筆の印が多く、その後は減り、最後の五十頁には何もなかった。

「途中で飽きた?」

「少し」

ジュリオは傷ついた。

「どこが」

ネリネは原稿をめくり、主人公が父親へ金を借りに行く場面まで戻った。それから、食卓で砂糖壺を落とす場面へ移り、また前へ戻った。何度か頁を行き来したあと、「あなた、この父親を嫌いすぎてる」と言った。

「父親じゃない。登場人物です」

「そう」

「僕の父とは違う」

「じゃあ違うんでしょう」

ネリネはそれ以上追及しなかった。

ジュリオは逆に腹が立った。自分の父親について何か見抜かれる覚悟をしていたからである。

「それだけ?」

「何が」

「いや」

その夜、二人は別々に帰った。

ジュリオの父は地方の郵便局長で、息子の小説を読んでも筋を途中で取り違えた。年に二度、文法の間違いだらけの手紙を送り、最後に必ず「身体を大事に」と書いた。ジュリオはあの父親を自分の父から取ったつもりはなかった。ネリネに言われたあとも、そのつもりは変わらなかった。

同じ頃、ロゼッタはホテルを出た。衣裳商の近くに三人で借りる部屋が見つかり、宿代が半分になったからだった。ネリネは「寂しくなる」と言った。ロゼッタは荷造りをしながら、驚いた顔をした。

「そんなに会ってないでしょう」

ネリネは少し考え、「そうだった」と言った。

その返事をロゼッタは気に入った。

市電が全線止まった夜、劇場帰り、工場帰り、宴会帰りの客が歩いて押し寄せ、午後十一時には空室がなくなった。廊下にもロビーにも人が座り、マルコーニは椅子にまで料金をつけようとして受付のジュリオと喧嘩した。電話交換台は鳴り続け、ある男の婚約者への電話が肉屋へつながり、肉屋は三分話してから相手を間違えていると気づいた。

ネリネは夜中に降りてきて、空室と相部屋可の客を分けるのを手伝った。しかし、彼女の分類はすぐ役に立たなくなった。病人と書いた男が「病人扱いするな」と怒り、老人へ一階の椅子を勧めると「階段くらい上れる」と拒み、子供連れの夫婦は互いに別室を要求した。ネリネは三度書き直し、最後には紙を捨てた。

午前三時、ロビーの隅で若い女が産気づいた。ネリネが配達用荷車を出すよう主人へ言い、リコが押すのを手伝った。そこまでは翌朝の新聞にも載った。

同じ夜、南地区では市電が止まったせいで夜勤の看護師が病院へ着けず、港では積荷の交代要員が来ないため冷蔵庫の魚が一部傷み、ロゼッタの住む部屋では同居人の一人が恋人の家から戻れず、もう一人が一晩だけ広い寝台を独占してよく眠った。アニータの夫は帰宅に三時間かかり、途中の酒場で昔の同僚に会い、十年ぶりにカードをして負けた。

翌日の新聞は〈市民の避難所オルフェ〉と書いた。写真には荷車を押すリコが大きく写り、その後ろのネリネは半分切れていた。ホテル主人は記事を額へ入れてロビーに飾った。

再開発の通知は夏の終わりに来た。高架鉄道を撤去し、大通りを広げ、古い一画をまとめて整備する計画で、ホテル・オルフェも対象に入っていた。紙のいちばん大きな文字は計画名だったが、受け取った側が最初に見たのは、立退きまで六か月という日付だった。

マルコーニは最初怒り、補償金の予定額を知ると怒るのをやめた。従業員には半年後の閉館が告げられ、長期客には立退きの紙が配られた。

従業員は退職金を増やしたかった。魚市場の商人は車道が広がる代わりに店先が狭くなるのを嫌がった。保存協会はホテルより百年前の倉庫を残したがった。近所の母親たちは救急車が通りやすくなるなら賛成だった。高架の下で古本を売る老人は、歴史には興味がなく、雨の日に本が濡れることだけを心配していた。

ネリネは三晩つづけて人に会い、昔の知人へ手紙を出し、土地会社へ出入りする者の名を聞いた。マルコーニの義兄と同じ姓の男が計画に関係する会社にいると知ったとき、彼女は二人が親族だと思いこんだ。何人かに確かめたつもりだったが、確かめた相手も同じ噂を聞いていただけだった。

公聴会で、ネリネはその点を質問した。

市の弁護士はすぐ答えた。役員は同姓の別人で、住所も年齢も違った。会場がざわめいた。マルコーニ自身さえ首を傾げた。

ネリネは紙を見直した。間違っていた。

「失礼しました」

それ以上何も言えなかった。

帰りの階段でジュリオが追いついた。

「別の資料もあるんでしょう」

「ある」

「次に出せば」

ネリネは立ち止まった。

「いまは出さない」

「どうして」

「間違えたから」

ジュリオは、それは理由にならないと言いかけたが、ネリネの顔を見てやめた。

翌週、計画の問題を新聞へ持ちこんだのはネリネではなく、魚市場の若い仲買人だった。再開発後の店舗賃料が現在の二倍以上になる試算を、市の別資料から見つけたのである。アニータたちの組合は、閉館時期を半年延ばす代わりに退職金を上積みする案を出した。保存協会は倉庫一棟だけを残す案へ譲歩した。

ネリネは二回目の公聴会へ行かなかった。

その日、彼女はテレザの出演する小さな音楽会へ行った。テレザはもう若い歌手ではなく、声の高音が以前ほど伸びなかった。終演後、二人は近くの食堂でスープを飲んだ。

「新聞に載ってたよ」とテレザが言った。

「読んだの」

「楽屋で回ってきた」

ネリネはスープに塩を足した。テレザが一口飲み、「入れすぎ」と言った。

計画は三か月遅れた。ホテルは残らなかった。退職金は増え、魚市場の一部は移転補助を得た。高架は撤去された。

ある日曜、ネッラが煙草売りを閉めるころ、毎朝巻煙草を買いに来ていた劇場の裁断師が急死した、とサビーナへ話した。店では代わりが見つからないらしい。翌朝、サビーナは昼休みのパンをちぎりながらロゼッタへ「劇場、縫える人を探してるって」と言った。ロゼッタは午後、衣裳商を出たあと、そのまま劇場の裏口へ行った。

劇場の仕事はホテルより遠かった。朝七時半の市電に乗り、裏口から入り、前夜の衣裳を点検し、昼までに修理、午後は新作の仮縫い、開演後は舞台袖で破れや脱落を待った。歌手が舞台で恋を歌っているあいだ、ロゼッタは暗がりで針へ糸を通した。

最初の新作は砂漠の王国を舞台にした大歌劇で、衣裳デザイナーは「本物らしさより夢」を求め、金糸と青い羽根を大量に使った。ロゼッタは砂漠へ行ったことがなかったし、デザイナーもなかった。舞台評は「異国情緒に満ちる」と褒めた。

主演のアルマは太りやすく、公演中に衣裳の胴回りを三度直した。デザイナーは本人の前で「布が縮んだ」と言った。アルマが帰ったあと、ロゼッタは「太ったって言えばいいのに」と言い、サビーナに「あんたが言ってみな」と返された。次の仮縫いでアルマがまたきついと言うと、ロゼッタは「布が少し縮みました」と答えた。

アルマはその返事を鏡越しに聞き、「それ、昔の私なら怒った」と言った。ロゼッタは待針を一本抜きながら、「今は?」と訊いた。アルマは脇腹を指でつまみ、「今も怒る。ここ、もう少し出せる?」と言った。

ある晩、第二幕の直前に王妃役の衣裳が背中から裂けた。ロゼッタは歌手を立たせたまま舞台袖で縫い、二分で十二針入れた。糸の色は少し違った。客席からは見えなかった。

別の週には、舞台装置の滑車から落ちた油が兵士役の袖へついた。ロゼッタは、前に端布で試した三通りのうち、色の抜けなかった洗い方を使った。油はほぼ落ちたが薄い輪が残り、衣裳係は飾り紐を少しずらして隠した。次の公演では誰も気づかなかった。

終演後、歌手は礼を言わなかった。化粧を落としながら夫と喧嘩していたからである。ロゼッタは腹を立てたが、翌日になるとどうでもよくなった。

その頃、彼女は同僚のサビーナと共同で小さな部屋を借り、母へ送る金を毎月決まった額にした。口紅は以前より高いものを買えるようになったが、忙しい朝には塗らなかった。

一度、百貨店バビロンで偶然会った。ネリネは手袋売場、ロゼッタは舞台用の安い飾り石を探していた。

「仕事どう?」

「忙しい」

「楽しい?」

ロゼッタは少し考えた。

「忙しい」

ネリネは何か言いかけて、やめた。

二人は一階で別れた。

リコの大作映画は失敗した。公開前は駅じゅうに彼の顔が貼られ、公開二週目には上映回数が半分になった。映画会社は監督のせいにし、監督は編集のせいにし、雑誌は「リコ・サルヴァに転機」と書いた。

彼は半年ほどヴェスペラを離れ、地方巡業の舞台へ出た。映画俳優が舞台へ行くのは格下げだと周囲は言ったが、リコ自身は同じ台詞を毎晩言うことに最初ひどく苦労した。映画なら失敗したテイクは捨てられる。舞台では失敗した声も客席まで届いた。

ある町で、二幕目の長い独白を丸ごと忘れた。相手役の女優が何度も助け舟を出したが戻らず、リコはとうとう役の言葉ではなく、「すみません、出てこない」と言った。客席が笑った。相手役も笑った。幕は一度下りた。

その夜、劇団主は激怒した。翌日の公演では、観客が前夜の失敗を期待していつもより多く入った。

三日目、劇団主は追加公演を決めた。リコは文句を言いながら契約書へ署名した。その週は母へいつもより多く金を送った。

ヴェスペラへ戻ったとき、ホテル・オルフェはもう閉館まで二か月だった。リコは泊まらず、駅前の新しいホテルへ入った。エレベーターが静かで、浴室に熱湯と冷水が同時に出た。

ジュリオと飲んだ夜、リコは「オルフェに戻ればよかったかな」と言った。

「空いてますよ」

「いや、もういい」

理由は言わなかった。

翌年、彼は映画へ戻った。主役ではなく、主人公の兄だった。雑誌の表紙にはならなかったが、撮影は三週間長く続き、母へ送る金は前より安定した。

ホテル最後の冬、マルコーニは「消える名門ホテル」という記事を利用して宿泊料を上げた。廊下には見物客が増え、昔の写真を撮る者が現れ、主人自身が以前捨てようとしていた古い椅子へ「創業時の家具」という札をつけた。

マダム・ソルは金曜ごとに小さな歌の会を始めた。声はもう長く続かなかったので、若い歌手を呼び、自分は歌のあいだに昔話をした。話のほうが評判になった。元判事は娘の家へ移ることを嫌がっていたが、孫が犬を飼ったと聞いて考えを変えた。バルディは靴の在庫を売って借金を半分返し、残りをどうするか決めないまま店を閉めた。

アニータはホテルを辞める前に、解雇された洗濯女二人と共同で小さな洗濯店を借りた。資金が足りず、元判事が契約書を読み、厨房の男が知り合いの銀行員を紹介し、ネリネも金を貸すと言ったが、アニータは断った。

「利子取るでしょう」

「取る」

「じゃあ銀行と同じ」

「銀行より少し安くする」

「銀行でいい」

アニータは本当に銀行から借りた。審査に落ちかけたが、厨房の男が連帯保証人になった。

ネリネはその話を聞き、「嫌われたかな」とジュリオに言った。

「たぶん金の話でしょう」

「そうか」

彼女は少し残念そうだった。

閉館の一か月前、ネリネはホテルを出た。駅の反対側に四階の部屋を借りたからだった。ジュリオは最後までいると思っていたので驚いた。

「送別会、来ないんですか」

「呼ばれたら来る」

「自分の送別会みたいなものでもあるでしょう」

「私は客よ」

「長かったじゃないですか」

ネリネは返事をしなかった。

荷物を運ぶ日、ジュリオは鉢植えのローズマリーを持った。三階まで上がったところで息が切れ、ネリネも四階の踊り場で一度休んだ。

新しい部屋の窓からホテルの屋根が少し見えた。

「見えるじゃないですか」

ジュリオが言った。

「見えるね」

それだけだった。

ホテル最後の夜、百人以上集まった。昔泊まった者、まだ住んでいる者、近所の店主、新聞の記事を見ただけの者まで混じり、受付には誰の客なのかわからない外套が重なった。ジュリオは宿泊客を受ける必要がないのに、癖で来た人の名を訊き、三人目でやめた。

マルコーニは階段の二段目へ立ち、ホテルの昔について何か言おうとした。最初の二文は聞こえたが、厨房で皿が落ち、マダム・ソルが「歌うなら先に」と言い、後ろから誰かが窓を開けろと叫んだ。マルコーニは声を張ったが、自分でも何を言ったかわからなくなり、グラスを上げて降りた。演説はそれきりだった。

マダム・ソルは昔よく歌った曲を一つ選んだ。二番の途中で声が続かなくなり、隣にいた若い歌手へ手を振った。若い歌手は歌詞を一箇所間違え、客のほうが先に続きを歌った。歌い終える前に廊下の奥で子供が泣き、その母親は拍手をせず外へ出た。

ロゼッタは劇場から遅れて来た。片方の袖口にまだ仮留めの針が一本残っており、アニータが「刺さるよ」と抜いた。針はテーブルへ置かれ、十分後にはなくなった。ロゼッタが探すと、見知らぬ少女が髪留めの代わりに使っていた。返してもらうほどの針でもなく、ロゼッタはそのままにした。

リコも顔を出したが、正面玄関ではなく魚市場側から入った。昔の長期客だという老人に「あなた、ここに住んでた俳優でしょう」と言われ、「まだ俳優です」と答えた。老人は聞こえなかったらしく、同じことをもう一度言った。リコは二度目には訂正しなかった。

アニータは地下と宴会場を何度も往復した。最後のシーツが乾いておらず、翌朝までに出す客がまだいたからだった。誰かが酒を勧めると「あとで」と言い、その「あとで」が来る前にグラスは別の人へ渡った。エヴァは階段下で靴を脱ぎ、十分だけ座ってまた地下へ戻った。

ネリネは十一時を過ぎたころテレザのところへ寄ると言って帰った。ジュリオは引き止めようとしたが、その瞬間、二階から「水!」と声がして、そちらを向いた。戻ったときにはネリネの外套がなくなっていた。誰かが彼女の椅子へ座り、マダム・ソルの歌の続きを間違った調子で口ずさんでいた。

午前三時、近所の苦情で警官が来た。警官の一人は若いころここで結婚式をしたと言い、もう一人は早く静かにしろと言った。午前五時、最初の市電が高架の下を通り、まだ残っていた者が窓へ寄ったが、見ないで眠っている者もいた。

午前七時、アニータは洗濯場から自分の名前を書いた木箱を運び出した。マダム・ソルはソファで眠り、マルコーニはなくなった灰皿を数えていた。前夜の少女はまだロゼッタの針を髪に挿していたが、ロゼッタはもう帰っていた。

少女は母親と来たわけではなかった。近所の花屋で働く姉について来たのだと、朝になってジュリオが知った。姉は夜明け前に帰ったつもりで、妹がまだいるとは思っていなかった。

ジュリオが家を訊くと、少女は魚市場の向こうとしか言わなかった。パンを一切れ渡すと食べ、針は髪に挿したままだった。昼になる前、青果商の荷車を見つけて「あれに乗れば帰れる」と言い、止める間もなく裏口から出ていった。ジュリオは名前を聞き忘れた。

昼前、マルコーニが最後に魚市場側の戸を引いた。鍵は一度で回らず、持ち上げてから回すと閉まった。

十一

アニータの洗濯店は魚市場の裏へ開いた。最初の半年は赤字で、共同経営の女が一人抜けた。残ったエヴァは、朝いちばんに店へ来る代わり、日曜だけは絶対に働かないと言った。新しい機械はホテルに入るはずだったものより小さく、一日に処理できる量も少なかった。石鹸を仕入れすぎた月があり、雨の週には乾燥が追いつかず、客から苦情を受けた。

月曜の朝は、戸を開ける前から洗濯袋が三つ四つ積まれるようになった。ある月曜、アニータが濡れたシーツを抱えたまま戸を足で押さえていると、エヴァが「もう一人いるね」と言った。翌週、リディアという十四歳の娘が来た。学校をやめたばかりで、濡れた布を絞るときだけ左肩を上げる癖があった。最初の週は客の顔を覚えられず、二週目には名前より持ってくる物で覚えた。白いシャツ十二枚の男、赤ん坊の毛布の女、魚の匂いが取れない前掛けの店。

リディアは木曜だけ、閉店前になると時計を何度も見た。妹を迎えに行くと言っていたが、ある日アニータが市場で彼女の母親に会い、妹などいないと知った。

店を開いて八か月目、劇場がいつも使う洗濯屋が急に休んだ。夕方、ロゼッタが汗と舞台化粧のついた衣裳を三着抱えて店へ来た。アニータは戸口で一着ずつ布を触り、二着はできる、一着は責任を持てないと言った。

「責任持たなくていいからやって」

「駄目になったら怒るでしょう」

「怒る」

「じゃあ嫌」

結局、二着だけ預かった。夜までかかり、片方の飾り紐が少し縮んだ。ロゼッタは翌朝それを見て眉を寄せ、自分で付け直した。劇場は代金を払った。

リディアは縮んだ飾り紐を指で引っぱり、どうして同じ水で洗ったのにこれだけ縮むのか訊いた。アニータは「布が違う」と答え、ロゼッタは「糸も違う」と言った。リディアはどちらを覚えるべきかわからない顔をし、濡れた床を拭きに戻った。

翌月、劇場から仕事は一件も来なかった。二か月後、夕立の夜に使いの男が濡れた衣裳袋を四つ抱えて駆けこみ、その次はまた六週間空いた。アニータは舞台衣裳だけ料金を少し高くした。ロゼッタは来るたび文句を言い、たいてい払った。

次の木曜、アニータが訊くと、リディアはしばらく黙ってから、橋の向こうで若者たちが楽器の稽古をするのを聞きに行っていたと言った。自分は弾かない。ただ聞いて、終わったら帰るのだという。アニータは怒ったが、その日は三十分早く帰した。

店にはホテル時代にはなかった種類の客が来た。子供の寝小便の布団を持ちこむ母親、油まみれの作業服を週末ごとに出す工場、舞台衣裳を急ぎで頼む劇場、金曜日に必ず白いシャツを十二枚出す弁護士事務所。アニータは最初、全部同じ重さで料金を取って損をした。油は二度洗いが必要で、舞台衣裳は乾燥機へ入れられず、弁護士のシャツは襟の糊について注文が多かった。

エヴァと料金表を作り直すと、古い客の一人が「前はもっと安かった」と怒った。アニータは説明しようとして言葉に詰まり、結局、「前は私が馬鹿だった」と言った。客は何も返せず、新しい料金を払った。翌月、その言い方を真似して値下げを求める客が現れたので、アニータは二度と使わなかった。

冬になると、エヴァは糊で親指の先が割れ、夜だけ薄い布を巻いた。朝には濡れるので外した。リディアが同じ巻き方を真似すると、「あなたは割れてないでしょう」と言ってほどかせた。

アニータは最初のころ、日曜も開けないか二度訊いた。エヴァは二度とも「日曜だから」と答えた。三度目はなかった。

日曜のエヴァは、店で着るものより少し濃い青のブラウスを着て、北の運河まで市電に乗った。終点の二つ手前で降り、安ければ果物を二つ買った。高い日は何も買わなかった。

運河沿いの樽屋の二階に、セリアという女と二人の子供が住んでいた。子供たちはエヴァを叔母さんと呼んだが、血のつながりはなかった。近所の者もそう呼ぶので、いつからそうなったのかセリア自身が覚えていなかった。

ある日曜、上の娘ローザは白い靴下が要ると言って朝から機嫌が悪かった。学校で何かあるらしかった。セリアは来月まで待てと言い、ローザは来月では遅いと言い、弟は二人のあいだでパンの柔らかいところだけ食べた。エヴァは靴下の話には加わらず、台所の煙が逆流していると言って窓を開けた。

昼前、隣室の男が三か月前に借りた鍋を返しに来た。鍋そのものは同じだったが、蓋が違った。セリアは蓋だけ返せと言い、男は最初からこれだったと言った。ローザまで口を出し、白い靴下のことは一時間ほど忘れられた。

その日曜、昼食のあと、エヴァは椅子へ座ったまま眠った。セリアは娘の髪を洗い、弟は窓辺でボタンを並べて遊んだ。目を覚ましたエヴァの袖には、いつの間にか小麦粉の白い指跡が三つついていた。誰がつけたかはわからなかった。

帰るころ、ローザはもう靴下を欲しいと言わなかった。代わりに学校へ行きたくないと言い、セリアがまた怒った。エヴァは果物を一つ置いて、もう一つを外套のポケットへ入れた。

月曜、リディアがエヴァの袖を嗅ぎ、「煙くさい」と言った。エヴァは「煙かったから」と答えた。アニータはその会話を聞いていたが、日曜のことは訊かなかった。

ロゼッタの劇場では衣裳係が賃上げを求めて一日だけ仕事を止めた。舞台監督は代わりに学生を集めようとしたが、衣裳の着せ方を知らず、午後の稽古が止まった。主演歌手が「私は組合と関係ない」と言いながら、衣裳がなければ歌えないので支配人へ早く解決しろと怒鳴った。

ロゼッタは代表ではなかった。交渉の席にも入らなかった。彼女は裏の廊下で仲間と待ち、途中で腹が減ってパンを買いに行き、そのあいだに妥結した。賃金は少し上がった。

賃上げの翌月、ロゼッタは初めて一着の衣裳を最初から任された。端役の踊り子が第二幕だけ着る服で、舞台の中心には出ない。それでも彼女は布を選び、型紙を引き、踊り子本人に仮縫いをした。踊り子は十七で、肩が左右少し違い、じっと立つのが苦手だった。

「動かないで」

ロゼッタが言うと、娘は止まり、三十秒後にまた動いた。

出来上がった衣裳をデザイナーは一目見て、「腰の飾りが重い」と言い、半分外させた。ロゼッタは三日かけた刺繍が床の籠へ入るのを見た。飾りを外すと踊り子は前より動きやすそうだったが、ロゼッタは腹が立った。その晩、捨てるはずの刺繍を籠から拾い、自分の鞄へ入れて持ち帰った。

二か月後の木曜、リディアは時計を見なかった。次の木曜も見なかった。いつもの時刻になるとエヴァが先に桶を片づけた。リディアが「今日は行かない」と言うと、「私が帰るの」と返した。アニータは戸を半分閉めた。

春になって一度だけ、白いブラウスを二枚抱え、肩に細長い楽器の包みを掛けた女が店へ来た。戸口で「リディア、いる?」と訊いた。リディアは奥にいたが、女は呼ばなくていいと言い、名前だけ告げて帰った。受け取りの日、リディアは配達に出ていて会わなかった。

ジュリオの小説はようやく出版された。題は出版社に変えられ、表紙も本人が嫌った絵になった。売れなかったが、新聞に一つ好意的な評が出た。父から手紙が来た。

〈本が着いた。お前が書いたものだと思って読んだが、途中でよくわからなくなった。お母さんならもっとわかったかもしれない。身体を大事に。〉

ジュリオはその手紙を捨てられなかった。

ネリネは駅前の部屋に五年住んだ。その間、港の小さな輸入会社で週に数日、荷の受け取りを手伝い、南から来た女たちの部屋探しをし、テレザの喉の手術につきそい、市議選へ出ないかと言われて断った。

三年目の夏、島へ三か月戻った。ソフィアは昔の叔母の家に住みつづけ、裏の小屋はマレナの家族が使っていた。ネリネが着いた日は二人とも港へ迎えに来なかった。ソフィアは塩漬け魚を返しに隣家へ行き、マレナは娘が熱を出して家を空けられなかった。翌朝になって三人は会った。

ソフィアの髪には白いものが混じり、マレナは若いころよりよく笑った。二人は都の話を聞きたがったが、半時間もしないうちに、マレナの娘が誰と祭りへ行くかで口論を始めた。ネリネが一度口を挟むと、ソフィアとマレナが別々の説明を始めた。娘は三人とも古い人間だと言って戸を閉めた。

その三か月、リノスの名は何度か出た。ソフィアとマレナは毎週金曜にどちらの家で豆を煮るかを決められず、ある金曜には二人とも相手の家へ鍋を持って出て、道の途中で会った。三人で笑い、結局ネリネの借りた部屋へ行ったが、塩を持ってきた者がいなかった。

帰る前日、マレナの娘がネリネへ「都へ帰るの」と訊いた。「ヴェスペラ」と答えると、娘はチヴィタとの違いを知らなかった。ソフィアが説明しようとして二度間違え、ネリネが直そうとしたときには、娘はもう外で山羊を追っていた。

ヴェスペラへ戻ってから、ネリネはジュリオへリノスのことを少し話したが、手紙の内容は見せなかった。

アニータの店へ洗濯物を出しに行ったこともある。アニータは普通の料金を取った。

十二

六年目の秋、ネリネは内陸の町へ移った。温泉があり、冬はチヴィタほど湿らないという。それ以上の理由をジュリオは知らなかった。

駅にはジュリオとテレザが来た。テレザは発車の十分前に煙草を吸いに行き、戻る途中で別のホームへ迷った。そこで泣いている子供を駅員のところまで連れていったため、汽笛が鳴る直前に走ってきた。子供の母親が見つかったかどうかを話す前に、発車のベルが鳴った。

「いつ戻る」とジュリオが訊いた。

ネリネは荷札を確かめながら、「決めてない」と言った。

「何をするんです」

「まだ決めてない」

ジュリオは何か残る言葉を言おうとした。以前より本を出し、言葉で金をもらうようにもなっていた。結局、「手紙ください」と言った。

「あなたも」

列車が出た。

ジュリオは出版社へ戻った。午後に校正があった。

その日から三年後、新しい大通りの開通式が行われた。ホテル・オルフェの跡地には商業ビルが建つ予定だったが、基礎を掘ったところで古い石積みが出て、半分は板塀のまま残っていた。式典用の椅子を並べるため、朝から市場へ入る荷車の道が一本ふさがれ、魚屋たちは別の角で荷を下ろした。市長は壇上で交通の未来を語り、吹奏楽団の金管に魚の匂いが混じった。

アニータの店では、病院へ出す六包みを積んだところで配達車の後輪が動かなくなった。リディアと運転手が車体の下へ潜ったが、油のついた指で同じ場所を触るばかりだった。修理屋へ使いを出すと、開通式の通行止めで午前中は来られないと言われた。アニータは市場帰りの荷車を止め、病院までの値段を聞いた。男は普段の倍を言い、アニータは一度断ってから、一割だけ下げさせた。

劇場では昼公演の前に、王女役の衣裳をもう一度着せていた。前夜、デザイナーが裾を長くし、朝の稽古で女優が階段の三段目を踏み外した。ロゼッタは床に膝をつき、裾を持ち上げて長さを測った。デザイナーはまだ来ていなかった。

「切る?」

サビーナが訊いた。

「怒るよ」

「転んだらもっと怒る」

主演の女優は二人の話を聞きながら煙草を吸い、「私は転びたくない」と言った。

ロゼッタは裾を八センチ切った。

切った布は床へ落ちた。助手が拾い、いつもの端切れ箱へ入れた。箱には金糸、喪服の黒、子供役の白い袖口まで一緒に押しこまれていた。

開通式が終わるころ、大通りへ最初のバスが入った。旗を片づける商店会の男と、柵を運ぶ警官がまだ車道に残っていて、バスは交差点の手前で止まった。後ろへ二台目がつき、空の魚荷車、タクシー、アニータの借りた荷車が続いた。先頭が動くたびに列は数メートル進み、また止まった。

アニータは荷台から降りた。病院までは四つ角を二つ越せばよかったが、包みは六つあった。リディアと運転手も降り、三人で二つずつ抱えた。途中で一つの紐がほどけ、シーツの角が石畳へ触れたので、アニータはその場で結び直した。病院の裏口へ着いたとき、十二時を七分過ぎていた。受取係の女は時計を見て「七分」と言った。アニータは「車が壊れた」と答え、女は「そう」と言って包みを一つずつ受け取った。

一幕目の途中、王女は階段を駆け下りた。舞台袖でロゼッタは次の着替えの鉤を外して待ち、サビーナは端切れ箱をひっくり返して青い布を探していた。朝に切った八センチはその下へ埋まり、金糸の端だけが外へ出ていた。

午後、板塀の脇では魚屋が空箱を積み直し、大通りでは三台のバスがまだ同じ交差点を抜けきれずにいた。

(了)

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