異本大鏡『水鏡の都(みずかがみのみやこ)』
登場人物
大宅世継(おおやけのよつぎ): 190歳の翁。物語の語り手。ロマンチスト。
夏山繁樹(なつやまのしげき): 180歳の翁。聞き手兼ツッコミ役。リアリスト。
若侍: 二人の話を聞き書きする青年。
阿蘇辺の卿(あそべのきょう): 主人公。高名な老作家。
多珠王(たじゅおう): 水の都で出会う美少年。
【序:雲林院の古狸たち】
夏の盛りのことでございます。京の北、雲林院の菩提樹の木陰は、あたかもそこだけ時間が淀んでいるかのようでございました。
蝉時雨(せみしぐれ)が降り注ぐ中、苔むした石の上に座すは、眉も髭も雪のように白く、腰は弓のごとく曲がった二人の古老。大宅世継と夏山繁樹でございます。
その傍らには、好奇心旺盛な若侍が一人、筆と硯を膝に置き、古老の言葉を待っておりました。
世継が扇を使いながら、しわがれ声で言います。
「あな暑や。こう暑くては、念仏を唱える気力も失せるわ。……そういえば繁樹殿、このねっとりと肌に張り付くような南風、あの『水の都』で果てた、阿蘇辺の卿(きょう)の最期を思い出しはせぬか?」
繁樹は渋い顔で答えました。
「ああ、あの『国宝』とまで呼ばれた大文豪か。最後は童(わらべ)の白き足に踏まれて死んだ男よな」
若侍が身を乗り出します。「そのお話、詳しくお聞かせ願えませんか?」
二人の老人は顔を見合わせ、ニヤリと笑いました。しわくちゃの顔が、まるで古い鬼瓦のように歪みます。
「よかろう。あれは『知性』が『美』に敗北した、世にも滑稽で、世にも恐ろしい戦の物語じゃ」
【第一巻:発心(ほっしん)】
世継:
さて、その阿蘇辺の卿じゃが、彼はもともと「鉄の意志」を持つ男として知られておった。
毎朝、暁の鐘とともに起き、冷水を浴び、香を焚き、万人の模範となる高尚な書物を記す。彼にとって「乱れ」は「悪」であり、「感情」は不要な「塵(ちり)」のごときものであったのじゃ。
繁樹:
堅苦しい男よ。握り拳の中にしか真理はないと信じておったのじゃろう。手を広げれば、そこには何もないというのにな。
世継:
いかにも。しかし、人の心の堤防とは脆いもの。
ある曇天の夕暮れ、彼が北山の墓地を散策しておった時のこと。異国の山伏のような、赤毛の奇妙な男とすれ違ったそうな。
その男は、獣のような目で阿蘇辺を睨みつけ、歯をむき出しにした。
その男の瞳は、淀んだ**水鏡(みずかがみ)**のようじゃった。
阿蘇辺はそこに、一瞬だけ己の顔を見た。だがそれは、毎朝鏡で見る威厳ある顔ではない。今まで一度も直視したことのない、飢えた獣のような自分の顔じゃった。
その瞬間、阿蘇辺の胸に、得体の知れぬ衝動が走った。
「遠くへ行きたい。ここではない、どこか遠くへ。泥と腐敗と、甘美な毒のある場所へ……」
それは、彼が一生をかけて築き上げた理性の壁に、蟻の一穴が開いた瞬間であった。彼はその足で屋敷へ戻ると、憑かれたように旅支度を始めたのじゃ。
【第二巻:水郷(すいきょう)】
世継:
彼が目指したのは、西の果てにあるという『水の都』。海の上に石を積み上げて作られた、蜃気楼のような街じゃ。
都に着いた阿蘇辺を待っていたのは、奇妙な形をした黒い小舟であった。
船頭は顔を見せず、ただ黙って櫓(ろ)を漕ぐ。その舟は棺桶のように黒く、しかし座り心地は王座のように柔らかかったという。
繁樹:
地獄への渡し舟かもしれぬな。三途の川も、金さえ払えば一等客室というわけか。
世継:
阿蘇辺は宿に着き、広間で夕餉(ゆうげ)をとっておった。そこで彼は、運命に出会う。
異国の貴族の一団の中に、一人の少年がいたのじゃ。名は多珠王(たじゅおう)。
その姿は、あたかも仏師が極楽浄土を夢見て彫り上げた観音像のごとく、あるいはギリシャの神話にあるナルキッソスのごとく。
金色の髪は蜜のように輝き、その四肢は白磁のように滑らかで。
阿蘇辺は震える手で茶碗を置いた。
「私は、これを見るために生きてきたのか」
70年近く積み上げた学問も名誉も、その少年の白い首筋の前では、ただの塵芥(ちりあくた)に過ぎなかったのじゃ。
【第三巻:恋着(れんちゃく)】
繁樹:
そこからの阿蘇辺は、見られたものではなかったろうな。
世継:
左様。まさにストーカーじゃ。
彼は執筆を放り出し、多珠王が浜辺へ行けばその後を追い、食堂へ行けば柱の影から見つめた。
話しかけることはせぬ。ただ、飢えた犬のように視線で舐め回すのみ。
ある朝のことじゃ。阿蘇辺は柱の陰から、朝餉をとる多珠王を見つめておった。
少年は、皿に盛られた赤い苺を一つ手にとった。
「ああ、彼は苺を食べているのではない。大地の精を吸っているのだ」
阿蘇辺は独りごちて、涙ぐんでおった。
しかし、その時じゃった。
多珠王が齧った苺の果汁が、彼の白い上着にポタリと落ちてしまった。
少年はハッとして周囲を見回した。給仕や母親が見ていないことを確認すると――
繁樹:
どうしたのじゃ?
世継:
ついでに言えば、柱の陰で熱視線を送る阿蘇辺の方など、**ちらりとも見ようとはせず――**あたかもそこに空気しかないかのように無視をして、
テーブルクロスの端を乱暴に掴み、ゴシゴシと自分の服の汚れを擦り、最後にその汚れた指を自分のズボンで拭ったのじゃ。
それはあまりに無作法で、小賢しい子供の隠蔽工作じゃった。
繁樹:
なんだ、ただのクソガキではないか。幻滅したろう?
世継:
ところがどっこい。恋のフィルターがかかった阿蘇辺の目には、真実が見えん。
「おお、見たか。あの恥じらい。汚れさえも戯れに変えてしまう、無邪気な天使の舞踏よ!」
彼はそう言って、ますます胸を焦がしたというのじゃ。
繁樹:
……救いようのない阿呆じゃな。
【第四巻:疫神(やくじん)】
世継:
季節は夏から秋へ。風が湿り気を帯び始めた頃、都に異変が起きた。
街のあちこちに白い石灰が撒かれ、甘酸っぱい消毒薬の匂いが立ち込める。人々は次々と倒れ、広場からは楽団の姿が消えた。
「疫病(えやみ)」、すなわちコレラじゃ。
阿蘇辺は役人に詰め寄ったが、彼らは観光客が逃げるのを恐れ、シラを切る。
阿蘇辺は真実を知った。本来なら、即座に荷をまとめ、京へ逃げ帰るべきじゃ。理性ある大人ならばな。
繁樹:
だが、逃げなんだろう?
世継:
逃げぬどころか、彼はその状況に昏(くら)い喜びを感じたのじゃ。
「もし私が逃げれば、二度と多珠王に会えなくなる」
「だが、もしここに留まり、疫病で街が封鎖されれば……この子と二人きり、地獄の底で愛し合えるかもしれぬ」
繁樹:
狂気じゃな。
世継:
左様、狂気じゃ。だが、それを「純愛」と呼ぶ者もおる。
彼は市場で、疫病の毒に汚染されているかもしれない熟れすぎた苺を買い、それを貪り食いながら、多珠王の後ろ姿を追い続けたのじゃ。
【第五巻:化粧(けわい)と死】
世継:
死の影が濃くなるにつれ、阿蘇辺は鏡の中の老いた自分に耐えられなくなった。
彼はふらふらと、街の理髪師のもとを訪れた。
「若くしてくれ。あの子に見合う男にしてくれ」
理髪師はニタニタと笑い、阿蘇辺を椅子に座らせた。
白髪は漆黒に染められ、頬には紅がさされ、皺の間には白粉が塗り込められた。唇には鮮血のような紅。
出来上がったのは、若返った貴公子ではない。若さを模倣した、哀れで不気味な老いたピエロじゃった。
繁樹:
本人はどう思ったのじゃ?
世継:
鏡を見て、うっとりと呟いたそうな。「これでいい。これで、恋ができる」とな。
そして運命の朝。
阿蘇辺はふらつく足で浜辺の椅子に座っておった。体の中では、疫病の毒が内臓を食い荒らしている。めまいがし、視界が霞む。
遠く波打ち際では、多珠王が友と遊んでおる。やがて友と別れた少年は、海の中へと歩みを進め、ふと立ち止まって振り返った。
彼は沖の方、水平線の彼方を指さした。
「おじいさん、あっちへ行こうよ」
そう言っているように見えた。
阿蘇辺は立ち上がろうとした。
「……ああ、行くとも」
だが、体は崩れ落ちた。帽子が落ち、黒く染めた髪が砂にまみれる。
繁樹:
それで、世界は悲しんだのか?
世継:
いいや。
その瞬間、沖の方から、場違いに明るい音楽が聞こえてきた。観光客を乗せた遊覧船が、アコーディオンで陽気な民謡を奏で始めたのじゃ。
チャン、チャララ、チャン……。
その軽薄なリズムは、死にゆく男の鼓動とは無関係に、青い空へと吸い込まれていった。
そして、多珠王もまた。
彼は阿蘇辺が倒れたことになど気づきもしない。
足元を走る小さな蟹を見つけ、「あはは!」と甲高い声を上げて笑い、それを追って波打ち際を走っていった。
ザザーン……。
寄せては返す波が、阿蘇辺の顔を洗う。
苦労して塗り固めた白粉が剥がれ落ち、若作りの黒染めが砂に滲み出し、あとには、ただの薄汚れた老人の素顔だけが、濡れた砂の上に晒されておった。
太陽は残酷なまでに眩しく、世界は阿蘇辺の死など「なかったこと」のように、ただ輝き続けていたのじゃ。
【結び:雲林院の日暮れ】
世継:
……とまあ、そのような最期じゃった。
話が終わると、雲林院には夕暮れの鐘がゴーンと響き渡りました。
二人の老人は立ち上がり、腰を伸ばします。
繁樹:
あーあ、馬鹿馬鹿しい。立派な学者が、最後は白塗りお化けになって野垂れ死にか。
これだから『美』などというものに関わるとろくなことがない。わしは帰って団子でも食うわ。
世継:
そうじゃな。だが繁樹殿、わしは少し羨ましい気もするぞ。
我らはこうして190年も生きながらえ、ただ他人の歴史を語るのみ。だが彼は、たった数日のうちに魂を焼き尽くして死んだのじゃからな。……阿蘇辺の卿、いや、あのアホウに、乾杯でもしたい気分じゃ。
二人の老人は、笑い合いながら、蜃気楼のように揺れる夏の光の中へとかき消えていきました。
残されたのは、若侍ただ一人。
本来なら「恐ろしい話を聞いた」と身震いして帰るところでしょう。
しかし、若侍は帰ろうとしません。彼は、阿蘇辺の最期を記した書き損じの紙を拾い上げ、じっと見つめておりました。
そして、懐から小さな手鏡を取り出し、夕陽に照らされた自分の顔を映してみたのです。
まだ若く、美しい自分の顔を。
「……一生分の炎、か」
若侍は、震える指で自分の唇に触れました。
その瞳には、恐怖ではなく、どこか熱っぽい、うっとりとした光が宿り始めています。
彼もまた、知らぬ間に「毒」に冒されていたのかもしれません。
風が吹き、書き損じの紙がカサカサと音を立てて舞いました。
それはまるで、次の阿蘇辺がここに誕生したことを祝う、あるいは嘲笑(わら)う、乾いた拍手のようでもありました。
(完)
