優しい人が一番怖い
【50代からの仏教生活】優しい人は一番怖い。怒らせたら終わり~仏教の教え〜
こんにちは!仏教ブロガーカネコです。
今日のテーマは、ズバリ「仏教版 優しい人が一番怖い」ということについてお話ししたいと思います。
普通「怖い人」と言えば、すぐに怒る短気な人や、冷酷で残酷な人、あるいは人を騙そうとするずるい人を思い浮かべますよね。そういう人には近づかないようにしよう、というのはよく分かります。
しかし、今日のテーマは「優しい人が一番怖い」です。「優しい人は怒らないし、温かいし、誠実だから怖くないじゃないか」と思われるかもしれません。ですが、実は優しい人というのは、ある意味でとても怖い存在になり得るのです。
今日の内容は、人間の本性に迫る内容になります。心の世界を真面目に見つめておられる方なら、きっと心に残るものがあるはずです。また、私たち自身が誰かに親切にしたとき、「自分自身が怖い人間にならないように気をつけなければ」とハッとさせられる内容でもあります。ぜひ最後までお読みください。
今日の目次
何々してあげたのに(般若の面)
この人ならまあいいか(圧力鍋の恐怖)
善はしない方がいいのか(三輪空寂の教え)
1. 何々してあげたのに
皆さんは「般若(はんにゃ)の面」をご存じでしょうか。能の世界などで使われる、女性の怒りと恨みで気が狂わんばかりになっている状態を表したお面です。

では、この般若の女性は、生まれつきあのような恐ろしい顔だったのでしょうか?
実はそうではありません。最初はとても穏やかで、優しい顔をした女性だったのです。
では、なぜその優しい女性が、あのような鬼の形相になってしまったのでしょうか。
彼女には大好きな男性がいて、一緒に生活をしていました。彼と一緒にいるときは、本当に優しく穏やかな顔をしていました。彼の居心地を良くしようと掃除や家事をし、美味しい食事を作り、彼が苦しんでいれば相談に乗り、必要ならお金も出す。「この人を苦しませないように、幸せになるように」と一生懸命に尽くしていたのです。彼のために尽くすことこそが、彼女自身の幸せでした。
ところが、その男性が他に愛人を作り、その愛人の家に入り浸って帰ってこなくなってしまったのです。彼女が、男と愛人が一緒にいる館に乗り込んでいくときに振り返った顔……それが、あの恐ろしい般若の面なのです。
あの顔には、以下の感情が入り混じっています。
自分の好きな男を奪った女に対する怒り
自分を裏切った男に対する怒り
捨てられたという悲しみ・悔しさ
外国人の方があのお面を見ると、「これは怒りと恨みの面だと紹介されるけれど、同時に泣いているみたいに見えます」とよく言うそうです。本当にその通りで、怒りと同時に裏切られた悲しみが深く現れているのです。
なぜ、優しい女性が豹変したのか?
それは、「それだけ相手を好きで、一生懸命に尽くし、優しくしてきたから」です。
もし彼女が、家事もせず、ご飯も作らず、彼に全く関心がなかったとしたら、彼が浮気をしても「あ、そっか。お互い様ね」くらいで、あんな顔にはならなかったでしょう。
「こんなに尽くしてきたのに」「できる限りの優しさを届けてきたのに」、その私を裏切るなんて……!という「こんなに優しくしてあげたのに」という思いが、凄まじい怒りと恨みに変わったのです。
生半可ではなく、心底相手のために親切を尽くすと、それが報われなかったときに凄まじい怒りや悲しみを生みます。これを仏教では「雑毒の善(ぞうどくのぜん)」と言います。
雑毒の善(ぞうどくのぜん)とは
お釈迦様は、私たちのやる善(親切)には「毒が混じっている」と教えられました。この「毒」とは、お礼や見返りを期待する心のことです。
「私が、誰々に、何々をしてやった」という心は、なかなか忘れられません。期待通りの見返りがあれば気持ちがいいですが、返ってこなかったとき、この「毒」が怒りとなって顔を出します。
親切の大きさと、それに伴う毒(怒り)の大きさを比較してみましょう。
100万円の例を少し詳しくお話ししましょう。
友達が「事業が失敗しそうだ、100万円貸してくれ」と泣きついてきたとします。あなたは「借金じゃなくていいよ、友達だから渡すよ」と無理をしてお金を用立てました。
ところが、相手の会社が軌道に乗っても一向に返してこない。しかも、他の人への借金は返していると耳にしました。
普通なら「借金だからいつまでに返せ」と厳しく取り立てる人には急いで返すのに、「友達だからいつでもいいよ」と優しくしてくれたあなたへの返済は後回しにされているのです。
「俺が一番お前を友達だと思って借用書も書かなかったのに、俺を舐めて後回しにするとは何事だ!」と、凄まじい腹立ちが起きますよね。生じっか親切心(大きな善)を起こしたばかりに、大きな怒り(大きな毒)を抱えることになってしまうのです。
2. この人ならまあいいか
ここで私たちが気をつけなければならないのは、「人から親切を受けたときの態度」です。
私たちはどうしても、「この人に早く返さないと後でひどい目に遭わされる、文句を言われる」という怖い人を優先して対処しがちです。そして、「この人は優しいから後でもいいだろう(この人ならまあいいか)」と、優しい人を後回しにして甘えてしまうことがあります。
しかし、優しい人こそ大事にしなければ、後でとんでもない怒りと恨みを買うことになります。
優しい人は、簡単に怒りません。嫌なことをされてもニコニコして、「気にしないよ」と言ってくれます。しかし、意に沿わないことをされて腹が立たない人間はいません。恥をかかされたり、損をさせられたりすれば、本当は「ふざけるな!」と怒っているのです。
ただ、優しい人は「相手に怒りをぶつけると相手を苦しませてしまう」と考えて、一生懸命に怒りを抑え込んでいる(我慢している)だけなのです。
これは、火山に必死で蓋をしているようなものです。あるいは「圧力鍋」を想像してみてください。
圧力鍋の仕組み: 頑丈な鉄の鍋に重い蓋をし、ネジでぎゅっと締めます。沸騰しても吹きこぼれないよう圧力をかけますが、「調整弁」から少しずつ蒸気を逃がすことで安全を保っています。
もし安全装置が壊れたら: 完全に密閉された状態で火にかけ続けると、中の圧力が限界を超え、重い鉄の蓋がネジごと天井まで吹き飛ぶような大爆発を起こします。
優しい人の心の中も、これと同じです。
「あの時もこんなこと言われた」「この時もあんなことされた」という怒りのマグマが、ドロドロと黒くこびりつきながら溜まっていきます。普通の人なら時々「バカヤロー!」と蒸気を逃がす(文句を言う)のですが、ずっとニコニコと我慢している優しい人は、ある日突然限界点を超えて大爆発します。
「もうあなたとはやっていけません」
突然そう告げられ、慌てて「ごめん!そんなつもりはなかったんだ!」と謝っても、時すでに遅し。はた目には怒っていないように見えても、甘えて裏切り続けていると、取り返しのつかないことになってしまうのです。
3. 善はしない方がいいのか
ここまで「雑毒の善」の恐ろしさをお話ししてきましたが、ここでよくある勘違いがあります。
「じゃあ、善いこと(人に親切にすること)は、初めからやらない方がいいのか?」
「親切にしなければ、怒りも憎しみも起きないんでしょ?」
もしそう思われたなら、それは間違いです。
人に親切にすることは、相手を幸せにし、巡り巡って自分も幸せになる(因果応報)素晴らしい行いです。冷酷だったり、怒ってばかりいたり、人を騙したりすれば、必ず悪い結果が自分に返ってきます。誠実に人に優しくすることは、絶対にやるべき善いことなのです。
では、なぜ善いことをしているのに怒りや恨みになってしまうのか?
それは、行為そのものが悪いのではなく、そこに混じる「私が、誰々に、何々をしてやった」という毒の心が原因なのです。 ですから、親切をやめるのではなく、「この毒を持たないようにする心がけ」が大事だと仏教では教えられます。
これを仏教の言葉で「三輪空(さんりんくう)」と言います。
「3つのことを空じなさい(忘れなさい)」というお釈迦様の教えです。
1. 私が(与えた自分)
2. 誰々に(受け取った相手)
3. 何々を(与えたモノや行為)
「あの時忙しかったのに、あんなことまでしてあげたんだよ」と、私たちはいつまでも恩を着せて覚えていがちです。しかし、それが巡り巡って自分自身を苦しめる火種になります。「人に親切にしたときは、忘れるように努めなさい」というのが仏教の教えなのです。
まとめ:私たちが心がけるべきこと
自分が親切にしたとき: 「してあげた」という心を出来る限り忘れるように努めること(三輪空)。
人から親切を受けたとき: その人にしていただいた感謝を絶対に忘れず、お返ししようと努めること。
決して「あの人は優しいから、甘えてもいいや」と相手をぞんざいに扱ってはいけません。感謝の言葉も伝えず後回しにし続ければ、やがてその人を深く苦しめ、大切な関係が完全に崩壊してしまいます。
「優しい人ほど、怒らせないように感謝を忘れず、大切にしなければならない」
今日は、「優しい人が一番怖い」というテーマを、仏教の「雑毒の善」という視点からお話しいたしました。
お読みいただき、ありがとうございました!
--- 仏教ブロガー カネコ ---
