阿弥陀経に説かれていること
【50代からの仏教生活】阿弥陀経に説かれている浄土とは〜浄土真宗の教え〜
こんにちは。仏教ブロガーのカネコです。
今日のテーマは、「阿弥陀経(あみだきょう)にはどんなことが説かれているのか、わかりやすく解説」ということでお話ししたいと思います。
阿弥陀経は、お釈迦様が説かれたお経の中の一つですが、非常に有名なお経ですね。よくお葬式や法事などで読まれるものです。
「如是我聞(にょぜがもん)。一時(いちじ)、仏(ぶつ)、舎衛国(しゃえこく)、祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)に在して、大比丘衆(だいびくしゅ)千二百五十人と倶なりき。皆これ大阿羅漢(だいあらかん)なり……」
と続くお経ですが、今最初の出だしを聞かれただけでも、「あー、そのお経、どっかで見聞き覚えがあるな」と思われた方もあると思いますし、実は自分で読んでますよという方もあると思います。短いお経ですので、一般の方でも読まれることがある、嘘のようになじみの深いお経です。
ですので、よく皆さんからも「阿弥陀経にはどんなことが説かれているんですか?」と聞かれることもあります。また、親鸞聖人が膨大な一切経の中から「非常に大事なお経だ」と教えられる3つのお経の中の一つが、この阿弥陀経です。
この阿弥陀経について、ぜひよく知っていただきたいなと思い、今日はお話しさせていただきます。
今日の目次はこの2つです。
如是我聞(にょぜがもん)
極楽
この2つからお話しいたします。
1. 如是我聞(にょぜがもん)
阿弥陀経に限らず、お経というのは「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉から始まります。
最初の方の構成を知っておいていただきたいので、少し阿弥陀経の冒頭を読んでみますね。
「如是我聞。 一時仏。 在舍衞国。 祇樹給孤獨園。 与大比丘衆。 千二百五十人倶。皆是大阿羅漢。 衆所知識。 長老舎利弗。 摩訶目犍連。 摩訶迦葉。 摩訶迦旃延。 摩訶倶絺羅。 離婆多。 周利槃陀伽。 難陀。 阿難陀。 羅睺羅。 憍梵波提。 賓頭盧頗羅墮。 迦留陀夷。……」
と、ずっと続いていくのですが、お経の書き出しというのはほぼ同じなので、「最初こういう構成でお経はスタートするのか」というのを知っておいていただきたいのです。
最初は「如是我聞」から始まります。「我聞如是」と言われることもあります。これは太宰治の『如是我聞』という作品のタイトルにもなっていますが、それもここから取ったんですよね。
「如是我聞」というのは、「かくのごとく、われ聞く」、つまり「このように私は聞かせていただきました」という意味です。
どうしてかと言うと、お経というのはお釈迦様が書かれたものではないからです。お釈迦様が説かれた教えを、お弟子が「私はこのように聞きました」とまとめたものがお経なのです。だから、お経には必ず「仏説阿弥陀経」と、「仏説」と付きます。仏(ブッダ=悟りを開かれたお釈迦様)が説かれたお経ですよ、ということです。
その次は「一時仏(いちじぶつ)」。「ある時、仏が言われました」と続きます。お経というのは、お釈迦様がいつの年代に説かれたものかという日時は「ある時でした」という書かれ方をしています。(これについては学者の間でも意見が分かれたりするところです)。
ただ、説かれている場所については詳しく書かれています。 阿弥陀経ならば「舎衛国(しゃえこく)、祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)」。舎衛国というのはコーサラ国とも言われたインドの国で、祇樹給孤独園というのは「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」のことです。よく説法された場所ですね。他にも「王舎城(おうしゃじょう)の耆闍崛山(ぎじゃくっせん)で説かれました」など、場所は決まって詳しく書かれています。
そしてその後には、誰が聞いていたかが語られます。 阿弥陀経ならば「大比丘衆千二百五十人と倶なりき」とあり、お釈迦様の教えをよく聞いていた精鋭たち、1250人が集まっていた。具体的に名前が挙がっていくと、「長老舎利弗(しゃりほつ)、摩訶目犍連(まかもっけんれん)、摩訶迦葉(まかかしょう)……」と、十大弟子に数えられるような有名な人たちがズラリと連なっています。さらに一般大衆も聞いていたことが説かれています。
なぜ誰が聞いていたかが重要なのか。仏教は「対機説法(たいきせっぽう)」と言われます。機(その人その人の状況や性格、悩み)に対して法を説くからです。一人一人個性も人格も悩みも違いますから、相手に応じて適切な教えを説かれたのがお釈迦様です。一貫した導きたい方向は一つでも、導き方は相手によって変化します。だから、お経の中で「どういう人たちが聞いていたか(誰に語ったものか)」は非常に重視されるのです。
これが、本題に入る前のお経の基本的な始まり方です。
返事ができなかった舎利弗
さて、本題に入ると、この阿弥陀経には「舎利弗(しゃりほつ)」という言葉が何回も出てきます。お経を読んでいると「よくわからんが、舎利弗って何回も出てくるけどあれは何ですか?」と聞かれる人がいるくらいです。
これはお釈迦様のお弟子の「舎利弗(しゃりほつ)」さんのことで、お釈迦様が彼に語りかけているのです。
ところが、普通の大きなお経なら「はい、世尊。このようでございます」といった会話のやり取りがあるのですが、この阿弥陀経に関しては、お釈迦様が何度も「舎利弗よ」と呼びかけているにもかかわらず、弟子の舎利弗からの「はい」という受け答えが全然出てきません。
なぜかというと、お釈迦様のなされるご説法があまりにもびっくりする内容だったため、舎利弗は口をポカンと開けたまま、どう返事していいかわからなくなってしまったからです。
その驚くべき内容こそが、「阿弥陀仏の浄土とは一体どういうところなのか」というお話でした。
2. 極楽
では、その浄土についてどんな風に教えられているのでしょうか。
阿弥陀仏の浄土のことは、いろいろな呼び方で言われます。「浄土」とも言われますし、「安養界(あんにょうかい)」「蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)」「無量光明土(むりょうこうみょうど)」など。阿弥陀経では「極楽」と説かれています。昔から「極楽浄土」と言われたりもしますね。(親鸞聖人の正信偈などを読まれる方なら、これら様々な言われ方をご存知かと思います)。
阿弥陀経では、この極楽がどんな世界だと説かれているか。
例えば、「八功徳水(はっくどくすい)の池」があると説かれます。 浄土には宝石で作られた池があり、その池には「甘い」「冷たい」「柔らかい」「軽い」「清らか」「喉を傷めない」「お腹を壊さない」などの8つの特徴を持つ水が満々と湛えられています。池の底には金の砂が敷き詰められています。
そして池の中には、車輪のように大きな蓮の花が咲いています。花の光が青、黄色、赤、白とあり、青い光、黄色い光、赤い光、白い光を放って、非常に高潔で絶妙で香りが高いと説かれています。
周囲には金銀財宝で飾られた階段があり、登った上にそびえ立つ宮殿や楼閣は、金銀水晶などの宝玉で飾られている。天空からは常に心地よい音楽が流れ、時々きれいな花びらが降ってくる。
絶えず涼しい風が吹き、その風が宝玉で飾られた樹木をサーッと撫ぜると、葉っぱが何千何万の楽器を同時に演奏する重厚なオーケストラのように鳴り響く。
しかもその奥底には、クジャクやオウムなどのきれいな鳥がいて、和やかな美しい声で説法をしている。それを聞いた者はみな心に喜びが起きる。
日々素晴らしい服を着て、ごちそう(百味の飲食)を食べて楽しむことができる。
……このように、言葉を尽くして極楽の素晴らしい景色を、お釈迦様が語られているのです。
私たち日本人は、小さい時から芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の小説や、極楽の絵などを見聞きすることがあると思いますが、だいたいこういう景色が描かれていますよね。あれは阿弥陀経に書かれている内容を視覚化したものなんです。
なぜこんな「おとぎ話」のように説かれたのか?
現代人の多くは、これを聞くと「おとぎ話じゃないか」「そんなの信じられるか」と思われるかもしれません。
実は、これらは極楽浄土の「そのもの」を言われたものではないのです。私たちが普段「いいなぁ」「幸せだなぁ」と思っているものを、お釈迦様が私たちにわかるように例えて教えられたものなのです。
私たちが幸せだと感じるのは、例えば「美味しい料理を食べてびっくりした」「儲かった」「褒められた」「恋人ができた」「結婚した」「マイホームを建てた」といったことです。
ところが、これら私たちが考える「幸せ」や「喜び」は、仏教の眼から見ると本当の幸せとは言えません。なぜなら、色あせ、薄れ、質が変わってしまうからです。それまで喜びだと思っていたものが、「なんでこんな苦しみになっちゃったんだ」と変わってしまう。
また、津波や地震などの災害によって一夜にして失ってしまうこともあります。今日あって明日はなくなってしまうような儚い幸せです。たとえしばらく続いたとしても、死んでいく時には全部ひっくり返ってしまいます。「死」という現実を突きつけられた瞬間、それまで自分の現実だと思っていた幸せが、一瞬にして夢幻のように儚くなってしまう。
だから、仏教から言うとそれは本当の幸せではないのです。 しかし、私たちはこういう「儚いもの」しか幸せや喜びとして知りません。
そんな私たちに、本当の幸せの世界をそのまま説明するのは土台無理な話なのです。仏の雄大な智慧を持っても、阿弥陀仏の浄土を説明するのは難しい。本来は「説くべからず」と言われるくらい説けないものなのです。
そこで、私たちがわかるような形、私たちが幸せだと感じるような形で浄土を説明された。これが阿弥陀経の極楽の描写なのです。
金銀宝玉の宮殿と言われれば「そんなとこ欲しいな」と思いますし、美味しい食事や、涼しい風が吹くというのもそうです。とくにインドでは「暑い=苦しい」ですから、避暑地のような涼しいところが幸せな場所です。だから「涼しい風が吹くんだよ」と説かれています。聞いている大衆が「あ、そんな所行ってみたいな」と少しでも思えるような説かれ方をされたわけです。
これは例えるなら、犬や猫にスマホの説明をするようなものです。 縄文時代の人間にスマホを説明してもわかってもらえませんが、それ以上に犬や猫にスマホの便利さを説明するのは無理ですよね。あるいは、魚に「火」や「煙」の説明をするようなものです。水の中の世界には火も煙もないのですから、説明しようとしても無理です。
それ以上に、本当の幸せを知らない人間に浄土の説明をするのは困難だったのです。
もし猫に極楽を説明するなら、金銀宝玉と言ってもピンときませんから、「鰹節で宮殿や楼閣ができているよ」と言った方が猫にはふさわしいたとえ話になりますよね。それと同じように、人間の業(ごう)に応じた、人間ならではの喜びを使ったたとえ話をされたということです。
そしてお釈迦様は、この阿弥陀経において、「ここへ往生するには(往くには)一体どうすればいいのか」ということを私たちに教えられています。それが『仏説阿弥陀経』というお経なのです。
結びに:仏教を伝えていくということ
今日こうして改めてお話しして思うのは、お経というのは、その言葉の意味だけを直訳して説明しても、現代人にすっとわかる内容ではないということです。
「なぜお釈迦様はそのように説かれなければならなかったのか」「なぜ親鸞聖人はこのように言われたのか」という、根本的な仏教の理解(いろは)からお話ししなければ、なかなか伝わりません。
最初から「仏教の教えを知りたい」「親鸞聖人の教えに答えがある」と思っている人は、世の中にほとんどいません。琵琶湖の中のコップ一杯の水くらい、ごくわずかです。
ですが、多くの人は心の中で「何のために生まれてきて生きているのか」「なぜこんなに苦しいのに生きなければならないのか」「死んだら自分はどこへ行くんだろう」「本当の幸福ってなんだろう」といった本質的な悩みをぼんやりと感じているはずです。その答えが仏教にあるということを知らないだけなのです。
もし答えが仏教にあると知ったら、どんなに喜ぶでしょうか。でも、そこまで導き、伝える人がなかなかいないから、仏教はどんどん廃れていってしまっているのが現状です。
だからこそ、まずは「あなたの悩みはこういうことじゃないですか」と浮き彫りにし、「その答えは仏教にこう教えられていますよ」と伝えていく。疑いながらも重ねて聞いてみたいという気持ちになってもらう。だんだんと仏教の教えを伝えていくしか道はないと私は思っています。
今はインターネットの時代です。お寺に行かなくても、YouTubeやブログで様々な方が情報発信をしています。私自身も他の方から学び、「ああ、こういう風に言えばいいのか」と反省させられることばかりです。
あとどれくらい生きられるかわかりませんから、言いたいことはどんどん発信しなければならないという思いと同時に、自分自身がもっともっと学ばなければ伝えられないという思いでいっぱいです。聞いてくださる皆さんも、ぜひ客観的に判断していただき、「これだな」と思うものを聴き深めていただけたらと思います。
今日は、阿弥陀経の冒頭の「如是我聞」から、「極楽とはどんな世界として描かれているのか」についてお話ししました。
今後、お葬式やご法事などで阿弥陀経を聞かれる機会があった時、少しでも親しみやすく感じていただけたら嬉しいです。
最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。
--- 仏教ブロガー カネコ ---
