【AI短編小説】折坂悠太「さびしさ」によせて——水曜のミロンガ
SOUND & RELISTENING|短編小説
——折坂悠太「さびしさ」によせて
文:藤森陽菜
ブエノスアイレスの水曜日は、靴を磨く日だ。
エルネストは革靴のつま先を布で拭く。黒い革に自分の顔が映る。七十二歳の顔。このミロンガに通い始めて十五年になるが、靴だけはいつも新品みたいに光っている。膝はがたがた言うし、腰は朝いちばんに裏切るくせに、靴だけは。
二十時。サン・テルモの角を曲がると、半地下のホールから音が漏れている。タンゴ。バンドネオンの息が石畳を這ってくる。重たい扉を引くと、中は薄暗い。煙草はとっくに禁止されたが、代わりに誰かの香水と、古い木の床が汗を吸った匂いが漂っている。
テーブルについて、水を一杯もらう。
ミロンガには不思議なことがひとつある。どこが真ん中なのか、わからない。フロアの端にいても、柱の脇にいても、バーカウンターの前にいても、音は同じ厚さで届く。誰かが主役ということもない。どのペアもフロアの隅っこで踊っている気がするし、同時に、どのペアもフロアのど真ん中にいる気もする。壁も天井も床も等しく振動していて、音の出どころがわからなくなる。
だから、ここでは一人でも恥ずかしくない。
マルタが来たのは二十時半だった。いつも通り。赤いスカーフ。白い髪を後ろでまとめている。七十歳。元会計士。エルネストのふたつ下で、十二年前からここの常連。
二人は恋人ではない。
配偶者がいるのかいないのか、子供がいるのかいないのか、聞いたことがない。聞く必要がなかった。水曜日の夜だけ、同じフロアにいる。それだけの関係に名前をつける言葉は、たぶんまだ発明されていない。
エルネストがマルタの目を見る。マルタがゆっくり顎を引く。タンゴの世界ではこれを「カベセオ」と呼ぶ。十二年間、マルタが目をそらしたことは一度もない。
フロアに出る。
三曲目が終わったとき、DJのマルセロがまたやった。
次にスピーカーから流れてきたのは、タンゴではなかった。三拍子。ワルツだ。しかも、バンドネオンじゃない。ギターの指弾きと、聞いたことのない言葉。日本語だった。
フロアがざわつく。何人かが笑う。「マルセロ、寝てるのか?」とDJブースに声が飛ぶ。マルセロは時々こういうことをやる。先月はボサノヴァだった。常連はもう慣れている。
だがエルネストの足は止まらなかった。
三拍子。左、右、閉じる。左、右、閉じる。タンゴのステップではないが、体が勝手に動いた。マルタも同じだった。二人の間に言葉はなかった。日本語の歌詞の意味もわからなかった。わからないまま、足だけが数えている。一、二、三。一、二、三。
バンドネオンなら音は正面から来る。この曲は違った。ギターが左から聞こえたかと思えば、次の瞬間には右から流れてくる。空気そのものが揺れている感じがした。
二人はフロアの端を小さく回った。
マルタの手が、エルネストの肩にある。エルネストの手が、マルタの腰にある。十二年分の水曜日が、その手のひらにある。
マルタが少しだけ顔を上げた。目が合う。何も言わない。ただ、口の端がほんの少し動いた。笑ったのか、そうでないのか、わからないくらいの動き。
歌の終わりに、声が静かに繰り返した。
さようなら。さようなら。
意味はわからない。でも、わかった。どこの国にもある、あの響き。輪になって歌った、一日の終わりの言葉。帰り道で友達の背中に向かって叫んだ、あの声。
エルネストの国では「チャウ」と言う。イタリアから来た言葉。軽くて、短くて、また会う前提の響き。チャウ。さようなら。どっちも同じだ。今日は終わる。でも、水曜はまた来る。
曲が止まった。マルセロが慌てて次のタンゴをかける。フロアに笑いが起きる。エルネストも笑った。マルタも笑った。それだけだった。
席に戻る。水を飲む。それから何曲か踊って、二十三時になった。
マルタが席を立つ。スカーフを巻き直す。エルネストを見て、小さくうなずく。
「チャウ」
「チャウ」
マルタは右へ歩く。エルネストは左へ歩く。石畳の足音が、それぞれの方角に散っていく。右の足音が少しずつ薄くなる。左の足音も薄くなる。やがて、どちらがどちらだったかわからなくなって、足音は夜の空気に溶けた。
不思議なもので、音が消えるほど、夜はくっきりしてくる。さっきまでホールの香水に紛れていた秋の空気。焼き栗の煙。どこかの窓から漏れるラジオの音。静かになるほど、ブエノスアイレスは鮮やかだった。
水曜の夜にフロアにいて、目が合って、うなずいて、三拍子を数えられれば。
四月のブエノスアイレスは秋の入り口で、夜風が頬にひんやり触れる。
来週も靴を磨こう。
音が消えて、街が鮮やかになる水曜日。
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楽曲情報
折坂悠太「さびしさ」(作詞・作曲・編曲:折坂悠太)
アルバム『平成』(2018年10月3日リリース/Less+ Project)
※ 歌詞末尾の「さようなら」の繰り返しは、金子詔一作詞の童謡「今日の日はさようなら」(1966年)を想起させる
本記事について
本記事はAI(Claude)との協働により、楽曲の情報・印象をもとに構成した短編小説です。登場人物・出来事はすべてフィクションです。楽曲の解釈は著者の創作であり、アーティストご本人や関係者の意図・見解を代弁するものではありません。歌詞についてはその一節を創作的に参照しています。
