『空の声』第一章|空に呼ばれた夜
あらすじ
海には、宇宙と同じ深さがある。
人には聞こえない声を、ときどき空から受け取る女性・澪花(れいか)。
けれど彼女は、その言葉が本当に空から届いたものなのか、自分の心が生み出したものなのか分からずにいた。
ある夜、星空から自分の名前を呼ばれた澪花は、導かれるように海へ向かう。
星を映す海。
宇宙のような深海。
そして海底に眠る、古い「光の門」。
深い海の底で澪花を待っていたのは、遠い宇宙の記憶と、忘れていた自分自身の声だった——。
───

短編小説『空の声』主題歌
物語の扉を開く前に、空と海、そして魂の奥で響く声を、音楽とともに感じていただけたら嬉しいです。
第一章 空に呼ばれた夜
澪花は、ときどき空から言葉を受け取る。
それは耳で聞こえる声とは違っていた。
風が頬に触れた瞬間や、雲の切れ間から光が差し込んだとき、胸の奥へ直接落ちてくる。
短い言葉のときもあれば、詩のようにいくつもの言葉が連なって届くこともあった。
けれど澪花は、それを誰かに話したことはない。
空から言葉が届くなんて口にすれば、不思議な人だと思われるに違いない。
何より澪花自身が、それを信じきれずにいた。
——本当に空から届いたのだろうか。
——それとも、私が心の中で作り出した言葉なのだろうか。
答えはいつも見つからなかった。
それでも澪花は、空から届いた言葉を忘れないよう、小さな青いノートへ書き留めていた。
『光は、闇を消すためにあるのではない』
『あなたの中には、まだ眠っている海がある』
『忘れたものは、なくなったものではない』
意味の分からない言葉も多かった。
けれど、捨てることはできなかった。
いつか、その言葉を必要とする人が現れるような気がしていたからだ。
その夜、澪花はなかなか眠れずにいた。
窓の外では、昼間から吹き続けていた風がようやく静まり、世界全体が深い眠りに入ったようだった。
時計の針が、午前零時を少し過ぎている。
カーテンの隙間から差し込む淡い光に気づき、澪花はベッドを離れた。
窓を開けると、雲一つない夜空が広がっていた。
無数の星が瞬き、その中心には白い月が浮かんでいる。
いつもと変わらない夜空のはずだった。
けれどその夜は、なぜか空が近く感じられた。
手を伸ばせば、星の光に指先が触れそうなほどに。
澪花が空を見上げていると、ひときわ明るい星が一つ、静かに瞬いた。
その光を見つめた瞬間、胸の奥が小さく震えた。
——澪花。
誰かが、自分の名前を呼んだ。
澪花は驚いて、部屋の中を振り返った。
もちろん、誰もいない。
窓の外にも、人の姿はなかった。
聞き間違いだと思い、窓を閉めようとしたとき、再び声が届いた。
——澪花。
今度は、はっきりと聞こえた。
それは男性とも女性とも分からない、不思議な声だった。
遠い星の彼方から響いてくるようでありながら、ずっと昔から自分の中にあった声のようにも感じられた。
「誰……?」
澪花が小さく問いかけると、夜空の星々が一斉に揺らめいた。
そして、たった一言が胸の奥へ落ちてきた。
——海へ。
その瞬間、青いノートを置いていた机から、ぱらぱらと紙をめくる音がした。
窓から風は入っていない。
それなのにページはひとりでにめくられ、ある一枚のところで止まった。
そこには、数か月前に書き留めた言葉があった。
『海の深さを知るとき、空の声は扉を開く』
書いたことさえ忘れていた言葉だった。
文字を指でなぞると、胸の奥に懐かしい痛みが走った。
訪れたことのない場所を、なぜか知っている。
会ったことのない誰かを、ずっと待っていた。
そんな説明のできない感覚が、波のように押し寄せてきた。
澪花はしばらく迷っていた。
真夜中に一人で海へ行くなんて、普段の自分なら決してしない。
けれど今夜、この声を無視して眠ってしまえば、とても大切なものを永遠に失ってしまう。
そんな気がした。
澪花は青いノートを鞄に入れ、薄い上着を羽織った。
玄関の扉を開けると、冷たい夜の空気が頬を撫でる。
住宅街は眠りにつき、道には人影一つなかった。
それでも不思議と、怖くはなかった。
空を見上げると、先ほどの星が進むべき方角を示すように輝いている。
澪花はその光を頼りに、静かな夜の中を歩き始めた。
やがて潮の香りが、風に混じって届いた。
暗闇の向こうから、寄せては返す波の音が聞こえてくる。
海へ近づくほど、空の星は数を増し、頭上だけでなく足元にも広がっているように見えた。
海岸へ続く最後の坂を下りたとき、澪花は思わず足を止めた。
目の前に広がっていたのは、夜の海ではなかった。
海面いっぱいに星々が浮かび、空と海の境目が完全に消えていた。
まるで宇宙が、地上へ降りてきたかのようだった。
そして、その星の海の奥深くから——。
澪花を呼ぶ声が、もう一度聞こえた。
——おかえり。
澪花の目から、理由の分からない涙がこぼれた。
次回 第二章「星を映す海」
空と海の境目が消えた夜、澪花は星の海に隠された入口を見つける——。
