見出し画像

最終章 光を渡す人



波の音が、すぐそばで聞こえていた。

寄せては返し、また静かに遠ざかっていく。

澪花が目を開けると、東の空が淡い桃色に染まり始めていた。

夜は終わり、海の向こうから新しい朝が生まれようとしている。

澪花は、波打ち際に横たわっていた。

ゆっくりと身体を起こし、自分の両手を見つめる。

髪も衣服も濡れていない。

まるで、あの海へ入ったことすべてが夢だったかのようだった。

星を映して動き始めた海。

光でできた道。

宇宙のような深海。

そして、門の向こうで出会った、もう一人の自分。

夢だったのだろうか。

澪花は胸元に抱えていた青いノートを開いた。

ページをめくると、空白だった最後の一枚に、見覚えのない銀色の文字が残されていた。

『人の中にある光を、言葉にして渡す人』

澪花が文字へ触れると、指先に小さな温もりが伝わった。

そのとき、ノートの間から一粒の光がこぼれ落ちた。

砂浜へ落ちた光は、朝露のように一度だけ輝き、静かに消えた。

夢ではなかった。

けれど澪花は、もう確かめようとは思わなかった。

あの場所が本当に海の底にあったのか。

遠い宇宙にあったのか。

それとも、自分の魂の奥にあったのか。

今となっては、どれも同じことのように思えた。

空も、海も、宇宙も、人の心も。

見えない深い場所で、すべては一つに繋がっている。

澪花は立ち上がり、朝日に照らされた海を見つめた。

昨夜、星を映していた海面は、今は金色の光を揺らしている。

「ありがとう」

誰に向けたのか、自分でも分からなかった。

空へ。

海へ。

遠い星々へ。

そして、声を疑いながらも、青いノートへ言葉を書き続けてきた自分へ。

澪花は、静かに頭を下げた。

帰り道、世界は昨日までと何も変わっていなかった。

朝の道を走る車。

店先を掃く人。

電線に止まって鳴く小鳥。

散歩する犬と、その隣を歩く人。

けれど澪花には、そのすべてが小さな光を宿しているように見えた。

誰もが、それぞれの物語を抱いて生きている。

言葉にできない悲しみも、誰にも見せていない願いも、その胸の奥にある。

そのすべてを、自分が受け取ることはできない。

すべての人へ、言葉を届けることもできない。

それでもいいのだと、今は分かっていた。

自分に届いたものを、自分にできる形で渡していけばいい。

たった一人の心へ届けば、その光は、そこからまた誰かへ渡っていく。

家へ戻った澪花は、机の前に座った。

窓から差し込む朝の光が、青いノートを照らしている。

白いページを開き、ペンを握った。

何を書けばいいのか、もう迷いはなかった。

昨夜見たものを、そのまま説明する必要はない。

信じてもらおうとしなくてもいい。

ただ、心に残っている響きを、一つずつ言葉へ変えていけばいい。

澪花は、最初の一文を書いた。

『海には、宇宙と同じ深さがある。』

その言葉から、物語が生まれた。

空から名前を呼ばれた一人の女性。

星を映す海。

深海に眠る光の門。

そして、魂の奥から届いた声。

書いているうちに、言葉は澪花の手を離れ、自ら行き先を知っているかのようにページの上を進んでいった。

澪花はその物語に、『空の声』という題をつけた。

数日後、澪花は書き上げた物語を、小さな場所へそっと公開した。

大勢の人に読まれるとは思っていなかった。

特別な宣伝もしなかった。

ただ、今どこかでこの言葉を必要としている人へ届けばいい。

そう願いながら、公開の印を押した。

その夜、一件の短い便りが届いた。

『自分の中には、何も残っていないと思っていました。

でも、この物語を読んで、私の中にもまだ小さな光があるのかもしれないと思えました。

明日は、少しだけ空を見上げてみます。』

澪花は、その言葉を何度も読み返した。

どこの誰なのかは分からない。

どんな日々を過ごし、どんな想いを抱えている人なのかも知らない。

それでも、澪花の言葉は確かに一人の心へ届いた。

胸の奥に、あの白い光と同じ温もりが広がった。

——たった一人の心へ届いたなら、その言葉は役目を果たしています。

門の向こうで聞いた声が、静かに蘇る。

澪花は便りへの返事を、ゆっくりと書いた。

『あなたの光は、なくなったのではありません。

深い海の底で、見つけてもらう日を待っていただけなのだと思います。

明日の空が、あなたの心に優しく映りますように。』

返事を送り、澪花は窓を開けた。

夜空には、あの日と同じように無数の星が瞬いている。

遠くから、海の香りを含んだ風が頬へ触れた。

以前の澪花なら、その瞬間に届く声の意味を探していただろう。

本当に空から来たのか。

自分の心が生み出したのか。

けれど、もう答えを求める必要はなかった。

澪花は、言葉を受け取る。

青いノートへ書き留める。

そして、必要とする誰かへ、そっと渡していく。

それが、自分の選んだ生き方だった。

今日も澪花は、空を見上げる。

けれどもう、その声がどこから届くのかを探すことはなかった。

空も、海も、遠い宇宙も——

すべては彼女の魂の奥で、静かに繋がっていたから。


短編小説『空の声』背表紙


物語を終えて

もし今、自分の中に光がないと感じていても——
それは消えたのではなく、心の深い場所で静かに待っているのかもしれません。

この物語が、あなたの中にある小さな光を思い出すきっかけになりますように。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

愛と感謝を込めて
空と海


短編小説『空の声』表紙・背表紙・裏表紙|
著・空と海



#空の声 #短編小説 #ファンタジー小説 #光を渡す人 #魂の物語 #AngelPowerHeart #planetLinkLove

いいなと思ったら応援しよう!