不登校の種から
不登校である長女の、小学校最後の夏休みが終わった。
あっという間の夏休み。
あっという間に、6年間が過ぎ去ってしまう気がして、さみしさとほろ苦い気持ちが胸に残り
続けている。
1ヶ月ぶりに長女と、放課後の学校へ足を運んだ。
担任の先生と話をしていると、本当に「小学校最後の夏休み」が終わったのだと実感する。
これから修学旅行があって、冬休みがきて来年になる。そしてすぐに、卒業式になるのだろう。
こんなにも早く、卒業の年が来るとは思わなかった。学校へ通わないまま、最後の学年になるなんて考えてもいなかった。
入学した頃の娘のことを思い出す。
保育園時代は、少々の人見知りはあるものの、ものごとをよく理解して、周りへの気くばりをするような子だった。
よくお手伝いをしてくれると、先生からも褒められた。
足が速く、体を動かすのが好きだった。
連続逆上がりを、手のひらにマメができてもやりたくて、何度も何度も練習した。
たくさん本を読み聞かせてきた。私や次女に、絵本を読んで聞かせてくれるのが嬉しかった。
次女の手を引き、保育園へ歩いてくれた。
小学校が始まる前から、学童保育へ連れていった。入学して、学校が終わると学童で待っていてくれた。慣れてくれると思っていた。
保育園に通っていたとき同様に、友だちもできて、楽しく過ごしていくのだと信じて疑わなかった。
時に学校が嫌になることがあっても、泣くことがあったとしても、少し我慢して通って、仲良しの友達と遊んで気が紛れて、毎日を学校で過ごすのだと思っていた。
私がそうしてきたように。
けれど、そうはならなかった。
長女は充分に、がんばってくれたのだと思う。
幼い頃からずっと。
お母さんはお仕事だから、私もがんばるよ。
そんな声を、想いを、私は何度も受け取ってきた。それを言わせていたのは、私だったと思う。
長女が、一生懸命に助けてくれていたことを、そのときの私は気がついていなかった。
学校へ通えなくなる長女と共に、私の心は崩れていって、息をすることで精一杯だった。
そして自分の弱さと向き合いはじめた。
私のせいだ、などと思う必要はない。
そう思えるようになるくらいに、時は経った。
それでも。
普通に歩いて学校へ通い、習いごともして、家では宿題もする。
本を読んで感想文を書く。人前で発表をする。
放課後は友だちと遊び、汗びっしょりで帰ってくる。
長女と同年代の子たちを見ていると、別世界にいるようだ、と思う。
私たちはのんびりしている。
保育園時代、あわただしく過ごしたときを取り戻すように。
私たちは穏やかに過ごしている。
怒鳴り声で追い立てたあの日がうそみたいに。
私が毎日を楽に過ごせるようになるためには、必要な出来事だったのかもしれない。
そんなことを考えだすと、長女に申し訳ない気持ちがあふれだす。
そうじゃない。
長女は長女の人生があって、私には私の人生がある。
その重なっている場所に、今いるというだけ。
私が長女の不登校から学ぶことがあるように、長女にも、彼女にしか見えない景色があるのだと思う。
崩れたところから、自分を描きなおす母親を見ながら、長女が自分自身を生きていってくれることを願っている。
結局私にできることは、自分をごまかしたり、嘘をついたりせずに、私を生きることしかないのだと思う。
「不登校」という出来事を、不幸の種のように思っていた。
けれどそこから、私の視点が変わりはじめた。
見える景色が変わると、同じ場所にいても、しあわせの花が目の前に広がっているのだと知った。
どんな種からも、しあわせの花は咲くのかもしれない。
不登校になってくれてありがとう、なんて言うことはできない。
ただ、あなたの存在に、ありがとう。
道が重なっている今に、ありがとう。
あっという間に過ぎていく日々に。
ありがとう。
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