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マックス.ウェーバーが勤勉、禁欲の精神をプロテスタンティズムのほかに浄土真宗に見出していた? (親鸞とユダヤ.キリスト)

こんにちは。

文系の大学に行った人ならば誰でも耳にする学者はマックス.ウェーバーでしょう。

1つの専門に拘ることなく、いろんな領域に目を向けて、その中から、透徹するものを見つけるその能力は果てしのないものでした。

その著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は文系学生の必読の書ともいう教授が居ましたが、それは過当な評価ではない気がしました。

プロテスタンティズムの精神が資本主義の原動力だった、ということ発見したというのですから。

それがかなりの説得力を持って読者に迫ってくるのです。

その本以外にも、いろいろ勧めたいウェーバーの本はありますが、ここでは『中間考察』という本を挙げておきましょう。

その内容は以下です。

「呪術を排斥するキリスト教の合理的性格がプロテスタンティズムにおいてよみがえることでヨーロッパは中世の魔術から解放され、近代の合理的な資本主義と合理的な文化へ進んでいった。

合理化された近代化社会における救済宗教は現世の合理化に寄与するが、いったん現世の合理化がなされてしまうと、経済秩序をはじめとする合理的な現世的諸領域と衝突をきたす。

そして、もともとその本質においては非合理的なものである宗教は、社会の片隅に追いやられて現実に働きかける生命力を失っていく。

救済宗教が生命力を失った時に、それに代わって経済、政治、芸術、性愛、文化などの現世的な諸領域が人々に生きがいを与えるか否か?

ウェーバーは否とする。

だが、経済や芸術などの、現世的なものはあたかも宗教に代わって救済の機能を果たしうるかのように社会の前面に立ち現れる。

芸術や文化という分野における活動は、勝者敗者というものを生み出す市場経済活動と違って人々に優雅な仕方で生きがいを与えうるのではないか?

そしてその意味で、救済宗教にとって代わる役割を充分に果すのではないか?

近代の科学は、その徹底した合理的な経験的な認識によって世界を中世的な呪術から解き放ち、その世界をあくまでも因果的なメカニズムの支配する秩序界として把握するようになった。

科学こそが、思考による世界観の唯一可能な形態だと主張するようになった。

これら現世的に見えるものが一見、宗教に代わって人々に人生の意味を与えるように見えながら、右に挙げた救済宗教の要件を満たしていないから完全にとってかわるのは無理だ。

経済活動や芸術や学問などの現世的な営みの限界が明るみになる。

職業や性愛をも含めてどんなに人々を夢中にさせるものでも、地上の営みは究極的な人生の意味を与えることはできない。」

では、どのような事柄が人間を虜にするのでしょうか?

やはり、人の心を虜にするのは宗教である、ということです。

宗教が復活してくる、ということです。

宗教が脇に追いやられていく経緯はわかりました。

ゆえに、神や仏の存在など一切信じない、という無神論者は発生してくるでしょう。

そういう完全な無神論者は大いに結構と思います。

宗教の必要性については、いろんな本を読んで自分を啓蒙する事しかないのです。

人が外部から教えてしかるべし、という思想には私はならないのです。

その啓蒙をする、しないの判断は自己責任です。

自己啓蒙をしても、それでも神仏を全く信じないという結果に逢着したのであれば、こちらがどうのといういわれはないのです。

しかし、その無神論結果については自己で責任持つべし、というモラルで私はいるのです。

このウェーバー(下写真)の『中間考察』は廃刊なので興味ある人は保存しておいた方がいいでしょう。


その本の中で、ウェーバーは以下に続けます。

「ヨーロッパにおける神は、人間から隔絶した超越的な存在であって、神の意志や決断は人間の量りうることではない。

神の意志を人間が推し量ったりすることは、神に対する冒とくであって、人間には許されないことである。

人間のために神があるのではなく、神のために人間が存在する。

地上におけるあらゆる事物出来事は、神の自己栄化の手段であって、人間もその例外ではない。

つまりヨーロッパの宗教(ユダヤキリスト)において、人間は神の道具である。」

ということです。

最後の一文を見るとわかりますが、この思想こそが阿弥陀信仰と一致する部分をウェーバーは感じ取ったのです。

人間は神の道具である、という思いになることによって、人は勤勉になり、労働にも一途になることが出来るのです。

勤勉性が資本主義にとって重要なのはわかります。

それが資本主義の精神であることはわかりますが、そのエートスを最大限に引き出すことが出来たのがほかならぬ浄土真宗である、ということです。

それは、親鸞の生きた時代ではなく、江戸時代における教育の一環として阿弥陀信仰は学ばれていました。

ただし、こんにちのように、1科目『浄土真宗』という格式ばったものではなく、当然のように、普通の教養のように学ばれていたのです。


これは、単なる金儲けではなく、世のため人のためという思想を伴っていたのです。

それは単に、浄土真宗だけが主張していたものではなく、他の思想と混じりながら、影響を与えながらの結果だったのです。

浄土真宗があったから、これが元でいきなり大発展した、というような特効薬ではなかったことはお断りしておきたいです。

でも、そのうちの1つであったとしても、その思想の寄与は大きかったといわざるを得ないですね。

私も浄土真宗を研究していくうちに、この宗教の偉大さが感得した気が大いにします。

ただ、ウェーバーの理論は、世間や世界を俯瞰すると一致する部分があるために、非常に納得してしまうのです。

しかし、研究して探求していけば、他にも重要な理論、世間をあっと言わせるような理論を発見できる可能性はあるでしょう。

そういうことはウェーバーだけの特権ではないでしょう。

後世にそういう発見をしてくれる人がいたら興味深いですし、そういう理論が出たら是非とも読みたいものです。

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⇒親鸞を貫くユダヤ.キリスト性

今回はこれにて失礼いたします。

ありがとうございました!

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