言葉を意味から解放しよう
私は、ときどき思う。
言葉から意味をなくせないだろうか、と。
誰かの一言で、人は傷つく。
誰かの一言で、人は救われる。
私たちは、言葉そのものではなく、その意味に揺さぶられて生きている。
ならば、意味のない言葉を発してみたらどうだろう。
「あじゃあなしやひたさら」
私が突然そう言えば、多くの人はこう思うだろう。
「おかしくなったのではないか」と。
だが、その瞬間、この意味不明な言葉にも意味が生まれてしまう。
「正気ではない。」
「ふざけている。」
「暗号だろうか。」
人は意味を与えずにはいられない。
つまり、本当に意味のない言葉など存在しないのかもしれない。
たった一文字の「あ」でさえ、人は文脈を探し、状況を読み、意味を作り出してしまう。
意味とは、言葉の中にあるものではない。
人間が勝手に生み出しているものなのだ。
だから私は、ときどき言葉から逃げたくなる。
意味から自由になりたい。
言葉の重力圏を抜け出し、その外側の世界を見てみたい。
言語とは、私たちを縛る重力である。
私たちは言葉によって、自分を説明する。
名前。
血縁。
学歴。
職業。
思想。
信条。
経歴。
それらはすべて、言葉として存在している。
言葉がなければ、自分が誰なのかさえ証明できない。
社会もまた同じだ。
駅に行けば、無数の文字が並んでいる。
標識。
広告。
時刻表。
外国語。
都市とは、巨大な言語の集合体である。
人間は、その重力の中で暮らしている。
もし、私たちから言語が消えたらどうなるだろう。
意味から解放される。
肩書からも解放される。
思想からも解放される。
そこに残るのは、ただ生きる生物だけだ。
それは自由なのだろうか。
あるいは、不自由なのだろうか。
おそらく、その両方だ。
圧倒的な自由。
そして、圧倒的な不自由。
文明を捨てた先にあるのは、獣としての生だ。
争いもあるだろう。
しかし、それ以上に、言葉では説明できない世界があるのかもしれない。
結局、人類が文明を築けたのは、火だけではない。
言語という火を手に入れたからだ。
火が夜を照らしたように、言葉は世界を照らした。
だからこそ、私たちはもう言語から逃れられない。
いや、逃れられないからこそ、一度だけ夢を見る。
言葉の重力を抜けた世界は、いったいどんな景色なのだろう、と。
