小袋成彬”ZATTO”-最もディアンジェロに近づいた異国のSoul Music (2025年を振り返る③)
おそらくリリース時も現在も、ほぼ見過ごされたままなのではないかと思われる傑作が今年1月にリリースされた小袋成彬の3rdアルバム”ZATTO”(雑踏)です。
今年は藤井風の”Prema”、星野源の”Gen”と、それぞれブラック・ミュージックに音楽的ルーツを持つアーティストが高いレベルでR&Bやソウル、ダンス・ミュージックとJ-POPを融合した傑作を出した年でもあります。どちらも本当に素晴らしい作品です。
しかし彼らより数ヶ月前に、正面から「日本人としてのソウル・ミュージック」を追求した作品が出たことも見逃すわけにはいきません。
小袋成彬の”ZATTO”は、まるでスティングの”English Man in New York”のように異国の地ロンドンに一人暮らす青年が、現地のミュージシャンとともにD’Angelo的なネオ・ソウル・サウンドをベースに、日本人がソウルを歌うとはどういうことか、日本人の魂(soul)とは何かという命題に正面から向き合ったアルバム、と言うことができます。
またまた大袈裟な。と思われた方は、まず本作1曲目の”ZATTO”を聴いてみてください。
乾いたファンクなドラムパターンだけで始まるイントロから、絶対にD’Angelo(例えば”Playa Playa”)を想起すると思います。
そこに乗せられる歌は、誤解を恐れずに言えば「昭和歌謡」の世界のような、大都市に生きる名もなき人の孤独を描くハードボイルドなリリック。
夢を追い求めて辿り着いたはずの大都会の片隅で雑踏に揉まれ、他者への想像力もなくし生きることだけで精一杯になってしまう日々。
焦燥感や無力感に苛まれながらも、どこかで彼には「濁った目に映らない あの壁の向こうの子供たち」の姿がちらついている。
「俺のために 君のために まだ死ねない こんな雑踏で」と歯を食いしばるような歌詞には、尾崎豊の「街路樹」のような、異国の大都会で感じる深い孤独と、それでも見知らぬ誰かのために歌おうとする根源的な表現欲求が滲み出ています。
“ZATTO”の音楽的なリファレンスの一つがディアンジェロなのは間違いないと思いますが、2曲目以降の音楽性はいわゆる「ネオ・ソウル」と呼ばれたスタイルに留まりません。
‘70sニュー・ソウル、歌謡曲、戦前のスタンダード・ジャズや演歌、レゲエ、フォークといった多種多様な音楽がそこには鳴っています。
その折衷性、「憧れ」を抱いた異国の音楽と自分自身のルーツとして身体に流れている日本の音楽との一体化は、決して思いつきだけの安易な「オリジナリティ」ではありません。
むしろその「折衷性」こそ、ディアンジェロが体現していた、「R&B、ソウル、Hip-Hop、ジャズ、すべてのブラック・ミュージックの歴史を一つにする」というルーツ・ミュージックの、つまり自分自身のアイデンティティの再発見を試みるアティテュードそのものです。
小沢健二もかつてその名の通り”Eclectic”(折衷的)という傑作で同じテーマに向き合っていますね。(海外レコーディング、日本語のみで歌うというのも共通項です)
これ以上この作品の音楽性について言葉を重ねるのは野暮というもの。すべてのルーツ・ミュージックはリズムだけで直接身体に訴えかけてくるものだし、一方で彼が歌う演歌、昭和歌謡的なメロディと世界観を感じさせるコブシの効いた歌は、我々日本人の血に流れる記憶を思い起こさせます。
先に挙げた藤井風然り星野源然り、日本のPOPミュージックは前提として欧米の音楽の影響を取り入れて生まれています。
純粋な演歌や民謡は別として、昭和以降「純国産」の音楽なんて一握りの伝統音楽以外には存在しませんよね。
生まれる前から他国の文化や価値観が混ざったアートに触れて育ち、その中で日本にはない異国の音楽に惹かれる。
小袋成彬も当初は「ダニー・ハサウェイのようなソウル」を作りたかったそうですが、うまくいかなかったようです。
優れたアーティストほどぶち当たる壁。「自らが理想とする音楽やカルチャーの中に、自分は属していない」という歴然とした事実。
器用なだけのアーティストなら、そこまで深く考えずに音楽的フォーマットやレトロ風サウンドの形式をそのまま模倣すれば形にはなるはず。
しかし彼や藤井風、星野源はそこに矛盾を感じ、彼らなりにどうすれば「自分自身の音楽」としてその理想の音を鳴らせるのかを突き詰めたのでしょう。それに対するそれぞれの回答、あるいは現時点でのベストを尽くした結果が彼らの三作品なのだと思います。
小袋成彬も、正直他の二人に決して負けないポップかつアーバンな曲を作るポテンシャルはあるはず。しかし今回はそこに向かわず、誰もやらない陰のある昭和歌謡の世界観へと向かった。
正直、現行の日本の音楽シーンでは異端。しかし、この「日本人としてのソウル・ミュージック」を、アイデンティティを追求した音楽が、居場所のない、どこにもない音楽になっているということが、とても重要な意味を持つという気もします。
我々がいかにルーツから離れてしまっているのかを示しているかもしれないからです。
「時に世界は荒立ち 悲しみに沈もうとも
人はそれを繰り返すだけ 白波のように」
「道外れの悪者でもいい 誰かの正義に従うだけの 意気地なしよりは」
もう、お洒落な二人とは真逆のすごい昭和感ある歌い方と詩世界なんですが、でも非常に同時代性があるようにも聞こえるんですよね。
「だからもう 泣かないでよ
また何度でも やり直せるさ
旅は終わらない 白波のように」
ここには、我々がすでにどん底に近いところまで来ているという認識。そしてそこからまた涙を拭いてやり直そうという、まさにダニー・ハサウェイやカーティス・メイフィールド、ボブ・マーリー的な同時代を生きるすべての人々へのメッセージが感じられます。
個人的には、こういう音楽が聴きたかった、という感じです。
もちろん、ディアンジェロの若すぎる死は惜しまれるべきだし、マニもスライ・ストーンも深い哀悼の意を示すべき存在。彼らへの追悼と共にその音楽を讃えることは必要なことだと思います。
しかし同時に、我々はまだ生きており、これからも生きていかなければならない。
「洋楽の話題が出るのは追悼の時ばかり」になったりしたら、どうにも気が滅入りますよね。不謹慎な話ですが、ご高齢のレジェンドもまだまだたくさんいるわけだし。
そうであれば、先達の志を受け継ぎ、今を生きるアーティストの作品もまたしっかり聴いていくべきなのではないか。
同じ国の作家として彼らの挑戦を評価し、記憶に留めていかなければならないのではないか。
そのようにも思います。
少し大袈裟な言い回しになってしまいましたが、小袋成彬の「ZATTO」、そして先に挙げた二人の作品に関しては本当に今ディアンジェロ以上に聴く価値がある、と思ったので書きました。素晴らしい音楽に感謝を込めて。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
