「核抑止力」なんてない、核兵器にNO!①祖父の被爆体験
80年前の1945年8月6日、
アメリカが広島に原爆を投下しました。
私の祖父は広島の被爆者で、
孫にあたる私は被爆三世です。
3歳の息子がいるママになります。
一昨年12月に祖父から最後の被爆体験の聞き取りを行いました。
祖父は去年5月、94歳で亡くなりました。
祖父は80代後半まで、地域の集まりや
歴史の会、パソコン教室などで
自身の被爆体験を語り、
「核兵器は人類を滅亡させる」と話してきました。
【祖父の被爆体験】
祖父は当時15歳、広島陸軍幼年学校※
の第三学年に在学中でした。
8月6日、在校生は疎開中、
数日与えられた夏休みの最終日でした。
5月に幼年学校卒業生で陸軍大臣の阿南(あなみ)大将からの強い勧めがあり、
在校生は疎開する事になったそうです。

九州に帰省していた祖父は、
8月6日疎開先の広島県安芸高田市に戻るため
夜行列車に乗りましたが、
原爆の爆風で橋が落ちていて広島駅には行けず、
8月7日早朝、手前の己斐(こい)駅(現在の西広島駅)で降りました。
同じ電車に乗っていた九州出身組の同期生と共に、
電車が機能している矢賀駅までの2〜3時間、
原爆投下翌日の広島市内を歩きました。
これを「入市被爆」と言います。



その時見た光景を「これが地獄だと思った」と語りました。
瓦礫と焼け跡に、大火傷した人たち、
黒焦げの死体、そして物が焼けるすごい匂いと
熱気が充満していました。
大火災は既に収まっており、
広島は焼けてしまった後でした。
「黒い雨」には遭わなかったそうです。
川や防火水槽は、水を求めて息絶えた
多くの遺体であふれていました。
足元のゲートルに「兵隊さん、水をください」
とすがりつかれたのをずっと忘れられなかったそうです。(実際には兵隊ではないですが、
小さな兵隊のような制服でした。)
水をあげてすぐに息絶えた人が数人いて、
それ以降は「水をやると死ぬぞ」と言い、
水をあげないようにしたそうです。
自分のせいで人が死ぬのを見るのは、
みんな嫌だったからです。
親族を探し回る人、
死んだ我が子を半狂乱で抱く母親、
痛みと苦しさでうめく人、
ずるむけになった大火傷の肌をだらんと指先から垂らしたまま歩く人…
悪夢を見ているようでした。
広島城のお堀の外側にあった
広島陸軍幼年学校は、
爆心地に近く、防火壁と門柱と
食堂の煙突を残してなくなっていました。
学校にいれば、祖父も同期生も助からなかった
と思われます。
疎開を勧めた阿南大将は、命の恩人でした。


祖父の同期生は、市内の陸軍病院に
腸チフスで入院していた10名が直爆(直接被爆)しました。
疎開先から広島市内に2回救援隊を送り
全員救助したものの、
ひと月のうちに5名亡くなりました。
祖父や同期生は、原爆症で急激に体調を崩し、
高熱で苦しんだ仲間の最期を看取りました。
苦しむ仲間を助けてやれない悔しさと
悲しさとやりきれなさでいっぱいになったそうです。
祖父は、このような兵器を作るアメリカに
「日本はもう勝てない」と悟ったそうです。

祖父は50年近く、被爆体験を語りませんでした。
思い出すのがよほどつらかったのだと思います。
詳しく語らないまま亡くなる被爆者の方もいらっしゃいます。
祖父も含め被爆したほとんどの方々は、
「自分たちと同じような経験は、もう二度としてほしくない」と語ります。
彼らと同じ景色を見る事はできませんが、
写真展や映画、アニメ、VR体験などで
原爆の事を部分的にだけでも知ることはできると思います。
核兵器はもう二度と、使われてはなりません。
原爆の被害を知れば知るほど、
その思いは強くなるはずです。
(「核兵器について」は次に書きます)
東京都写真美術館
「被爆80年企画展ヒロシマ1945」
5/31〜8/17
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-5175.html
国連大学
「ヒロシマ・ナガサキ
原爆・平和写真ポスター展」(VR体験週末のみ)
7/11〜8/17
https://jp.unu.edu/events/upcoming/hiroshima-nagasaki-poster-exhibition.html#overview
横浜シネマリン
「戦後80年」映画シリーズ
8/2〜8/22
https://cinemarine.co.jp/movie-now/
※陸軍幼年学校は陸軍幹部を養成する学校です。
士官学校より前の段階になります。
当時、在校生は制服の星マークから
「星の生徒」と呼ばれ、憧れの対象だったそうです。
当時の健康な男子は19歳になると徴兵されることが決まっていました。
普通に入隊すると地獄のような特訓と
殴る蹴るの理不尽なパワハラが待ち受けていたそうで(反抗する思考力をなくさせる為か)、
それならば最初から将校待遇の「星の生徒」になりたい、と少年達は憧れたそうです。
超難関校で、最大受験倍率が46倍になったこともあるそうです。(50名採用に対し2300名)
(「核兵器について」は次に続く)
【参考文献】
広島陸軍幼年学校第47期生史「鯉城台の八八四日」
祖父作成のパワーポイント資料
「日本陸軍史」毎日新聞社
「十五歳の戦争」西村京太郎
「陸軍幼年学校よもやま物語」村上兵衛
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