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【短編小説】「透明になる」 ― 恥ずかしさの記憶と心が軽くなる瞬間の物語


 
子どもの頃の恥ずかしい記憶が、ふいに蘇る瞬間があります。 その時、心は少しだけ透明になって、世界が静かに見える。 恥ずかしさ、後悔、職場の人間関係… そんな感情がほどけていく短編です。
 
 
 

 
 「お金もない。領収書もない。一体何を信じれば良いんだ」
 
 その声が、突然、頭の中で響いた。
 
 ショッピングを散々楽しんで、家に帰る途中のことだった。鮫島はバスに乗る為駅のバス停にいた。
思わず恥ずかしさで首が横を向いてしまい、隣の老女がびくりとした。
けれど彼女は、何事もなかったかのように前を向いている。
 
 鮫島は下を見た。
疲れているのだ。頭が余計なことを考えるのを止めてくれない。
よくあることだった。
 
 でも、又、発作的に首を回してしまいそうだった。だから、俯いて、じっと駅の点字ブロックを見つめることにした。
 
 
 
 あれは、小三の時のことだ。当時、学級委員をしていた私は、担任の先生に頼まれ、お楽しみ会の準備をしていた。
 
 先生は背の高いスポーツマンで、子どもをどう扱えばのびのびさせておくことができるのかを熟知している先生だった。
 
 鮫島はその先生が大好きだった。
 
 先生は、鮫島に学級費を預けて、買い物したら領収書をもらうように言いつけた。
 
 放課後、飾り付け用の花紙の真ん中をモールにしたら可愛かろうと思い、使いたくなった。
モールは思いの外値段がかさみ、鮫島は学級費をほとんど使ってしまった。
しかも悪いことに、領収書を貰うのを忘れてしまったのである。
 
 用事を終えて先生がクラスに戻って来ると、学級費の行方を聞いた。鮫島は黙ってしまった。
 
 先生は、鮫島を椅子に座らせ自分もその前に座ると一対一で、聞いてきた。その後、鮫島は何と答えたのだろう。先生はお金も領収書も無いことを、鮫島に説明させようとした。
 
 
「お金もない。領収書もない。一体何を信じれば良いんだ」
 
 
 でも、下校時刻が迫っていた。さすがに、先生も諦めて鮫島を家に返してくれると思った。
 
 しかし、日がとっぷりと暮れても、先生は鮫島を家に帰してくれなかった。
 
 鮫島は不安になり、とうとう、お金は、使ってしまった。領収書は、もらうのを忘れたと言った。
先生は鮫島を文房具屋へと連れて行き、領収書を作ってもらったのだった。
 
 翌朝の「朝の会」で、先生はみんなの前でこの話をした。鮫島は俯いて聞いていた。
最後に先生は、「とうとう最後に本当のことを言った」と言った。鮫島は、え…と思って顔を上げた。『私、嘘はついてない』そう思ったのだ。
 
 今でも思い出すと。顔が真っ赤になり、普通の状態でいられなくなる記憶だった。
 
 鮫島はその時、はたと思い出した。明日の朝食のパンと卵を買って帰らないといけないんだった。しまった。アコレは通り過ぎてしまっていた。あそこなら、多少安かったのに。鮫島は諦めて、バスターミナルの角にあるファミマで調達する為、列を離れたのだった。
 
 
 
 自分の机で、PCの入力作業をしている時だった。
後ろの島で、営業から帰ったばかりの宮田さんが声をかけてきた。
 
 この人はなんなのだろうと、思う。人として間違っている。
鮫島は、この手の男の人に好かれることが本当に多い。鮫島に、そういう隙があるのだろうか。少し自信が無くなってきて落ち込む。
 
 鮫島がこの音楽事務所に入ったばかりの時、こう言った。
「この前出張した時、君によく似た女の子を買ったんだ」
 
 それ、口説き文句と思っているのかもしれないが、全然、口説き文句として成立してないから。気持ち悪いだけだから。折角、少し感じの良い人だなと思っていたのが、どこかへ行ってしまった。鮫島は宮田さんを警戒するようになった。
 
「この譜面さ、あ、君、譜面読めるんだよね」
「読めますけど、多少ですよ」
「これ、こっちに写して欲しいんだけどな。お願いできない?」
 
 その時、少し鋭い声で、女の人の声がした。
「鮫島さん。コーヒーの用意して。お客さんだから」
 
 鮫島は弾かれた様に
「はい」
と返事をして、席を離れようとした。
「そんなの、多田さんがやればいいじゃない。今、仕事頼んでるんだから、邪魔しないでよ」
 
 多田さんは、眼鏡の下の目を一瞬鋭くし、下唇をわなわなと震わせた。そして、鮫島を睨みつけた。
『あ、なんか面倒な雰囲気。一荒れあるな』
鮫島は警戒した。
 
「鮫島さん。宮田さんにひいきされてるからって調子に乗らないほうが良いわよ」
「多田さん。何言ってるんだよ。仕事でしょ仕事。ね、鮫島さん」
鮫島はそれに対して断固として反対意見を延べたかった。
「この人嘘ついてたし」
「おいおい。何言い出すんだよ。会社だぞ。人前だぞ」
「だから?それが何よ」
どうやら、この二人は付き合っているらしい。
 
 周りの人も異変に気付いて、こちらをチラチラと見始めていた。
 
「何だと!俺は嘘なんかついてない」
「あんな大事な事、黙ってたじゃない」
「言わなかっただけだ。嘘ついてたわけじゃないじゃないか」
「あった事をなかった事にしようとするのは、嘘じゃないの?」
 
 話しは鮫島の事とは無関係になりつつあった。
 
 多田さんは、鼻白むと言ったような顔をして、宮田さんを見た。
「もう、そちらには行きませんから。鮫島さんとでも仲良くやってください。それから、私、会社辞めるので」
多田さんはそう言ってから、くるりと踵を返して給湯室へと消えていった。
宮田さんに顔をやると、無表情で前を見ていた。そして、やがて困った風に首をさすっていた。
 
「宮田。ちょっと来い」
課長が呼んだ。
 
 この人は困ると無表情になるんだ。
そういうタイプか、と鮫島はそう思った。
……だからなんなんだろう、と自分で可笑しくなった。
 
 
 
 玄関の扉をばたりと閉めつつ
「ただいま~」
と声を出して電気を点けると、小さな部屋に明かりを灯した。
 
 人気のない小さな部屋は広く見える。
 
 カタツムリに
「ただいま~」
とあいさつをして乾かしておいた卵の殻を取り換えてやった。そして、水の入ったアトマイザー(小さなスプレー)で水をかけてやった。
 
 カタツムリは、嬉しいのか殻をぐりぐりと活発に回した。
 
 たくさんいたので知人の女の人に2匹あげた。虫かごにはその分余裕が出来ていた。鮫島はカタツムリを覗き込んだ。
 
「フンしてるな。取ってあげないと」
 
 ティッシュをとりだして、留守の間に固くなってしまったフンを丁寧に取り除いた。そして土の代わりに敷いていたキッチンペーパーを取り換えた。
 
「これでよし」
 
 そう言って、虫かごから目をそらさず、定位置になっているフリーラックの上から、白木のテーブルの上に移動させた。そして、バルコニーの窓を開けて風を入れた。
 
 鮫島は今日の宮田さんと多田さんの言い争いを思い出していた。
 
 一体、何があったのかは、話の内容からしても分かりようがなかった。
ただ、宮田さんが何かを黙っていて、多田さんはその事が腹に据えかねる程怒ったのだろう。別れ話になるくらい真剣に怒ったのだろう。
 
 カタツムリのまるさんがいつのまにか小松菜の上に移動していた。
さっき入れてあげたのがお気に召したか。そうか、そうかとひとりごちた。
 
「宮田さん、何を隠していたのかしらね」
と、まるさんに話しかけた。
 
 倫理観に乏しそうな人だなとは思っていたけど、どうも本当にそういう人だったのかもしれない。そうか、多田さん辞めてしまうのね。特に、優しくされた記憶もないけど、一人足りなくなるのは残念な気持ちがある。そうか、多田さんが私に優しくなかったのは、宮田さんの事があったからなのねと、今更ながら思った。
ふーとため息が出た。
 
 夕飯の支度をしたいけど、ちょっと疲れてて、どこかに食べに行こうかしらなんて思った。
 
 小ぶりな子が、ケースの一番上まで登っている。それ以上いけなくて止まっていた。
 
 すると、暇になった頭の中に、ポンと先生の言葉の断片が音声にならない形で蘇った。

 ふと、あの時のことが蘇った。

 鮫島は昨日そのやり取りを詳細に思い出していたので、構造が少し違って見えた。

 先生が「本当の事を言った」と言った瞬間の感覚。
 

 どうして今、その感覚がもどってきたのだろう。
 あまりにリアルで、少し戸惑った。 
  
 納得した。
そうか黙っていたことが嘘のように扱われて、怒った気持ちになったけど、あれは、確かに「嘘」だった。
 
 あった事をなかった事にしようとする、その構造は確かに「嘘」だ。

 しかしそれでは宮田さんの事を倫理観に乏しいと断罪したが自分はどうなんだ。
 そう思った事で、宮田さんを見直す気には到底なれない。今まで通り、警戒しながら過ごすだろうと思う。面倒くさいと思った。会社に入ってからいくらも経っていない。今は、仕事に慣れることを優先したい。他の事は後でいくらでもどうにかなってくれ、そんな感じだった。

 子供の頃のこととはいえ恥ずかしい気持ちになった。
 
 しかし同時に明日の事は明日考える。それでいい。そうも思った。
 
 初夏の風が窓から入って来て気持ちが良い。

 解放された。正直になった。世界が透明になって、何も私を責めていなかった。


 
 鮫島はスマホとハンカチと鍵と財布をトートバッグに突っ込んだ。
何処かテキトーな場所に夕飯を食べる為に出かけよう。
何処にしよう?何食べたいだろう?久しぶりに自分では、めったに作らないハンバーグが食べたいと思った。びっくりドンキー?
 
 うん、そうしよう。

玄関口で、又、会社に履いていくのと同じ靴を履いた。
 
 


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