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美容院の先生は美術系|【エッセイ】シリーズこころの因数分解

何故、人は簡単に痛みを過去に出来ないのでしょうか?
過去の痛みを、胸に持っている事は、とても厄介で、甘い時間だから。


 恋の痛みを思いめぐらす時、辛い思いが脳裏に浮かぶ状態から抜け出せない事があります。

 茶碗一つ置くにしても、「よく、ガシャンと置くと”うるさい”と言われた」と、痛みを思い出し、今、そんな事を言う人がいないことに安堵します。

  痛みだけを抽出できればそれに越したことはないように思うのですが、心の中と言うのは、そう単純にも出来ていないで、愛の思い出も、痛みも本質の部分が一緒のものなのです。

 何故、人は簡単に痛みを過去に出来ないのでしょうか?
過去の痛みを、胸に持っている事は、とても厄介で、甘い時間だから。

「振った」人の、後から来る痛みとは何でしょうか


 恋の別れの痛みと言うと、結果的に「振った」と言われる人と「振られた」と言う人の両者でしょう。

 「振られた」方は分かりやすいです。別れ話を切り出されたら「痛み」を受けると思われるからです。今迄そんなそぶりも見せられなかったのに、突然別れのメールをもらうことだってあるでしょう。

 「振った」方が痛むことも、もちろんあります。しかし、もっと前から「振った」事の前兆として、痛みが存在していたことだってあります。相手の行動の言葉にならない胸の痛みに耐えたり、合わないことで起きる態度に傷ついたり。そこで、初めて、耐えていたものを「ここまで」と思い、「振った」のです。

 「振った」方が痛みを「つけてしまう」時に、痛まなかったかといわれれば,そんな事はないのです。別れを切り出すことに悩むでしょうし、メールの文言を考えるのに涙がとまらなかったり、送信ボタンを押す手が震えたり。

 でも、問題なのは、その瞬間的な痛み意外に後からくる「痛み」です。
その思いの過去の流れに意味をつけてしまうときです。
 
 あの時は納得して行動したけれど、相手にしてみれば、「裏切り」に見えたかもしれない。と、自分を責める思いに見舞われることもあります。
 
 又、何故あの時あの人はああいう行動をとったのだろうか?何故あの時あの人はああ言ったのだろう。痛みが生のまま持ち越されることもあります。

 その意味が、わかったとしても、その痛みにいろんな角度から解釈をつけても、結局又、「何故?」という、その思いに戻ってきてしまう時の痛み。ぐるぐると回るそういう種類の後から来る痛みというのもあります。

過去を忘れ教訓を得ることを勧める人、時が忘れるという人

 お気づきかと思いますが、これは私の話です。私の場合、8か月に渡る恋が終わった時、周りは忘れてしまえと全員が勧めました。誰も、全部を聞いてはくれませんでした。まだ語っていない部分があっても、話しが入り組み過ぎていて、全部を伝えるのに、それ相応の時間が必要になったからです。周りがそんな風だったから、私は、こころのプロに一縷の望みをかけました。しかし、プロですらそう言いました。

 そして、誰かにこのことを寸分違わず分かって欲しいという欲を私はある時はっきりと失いました。そして、もう誰とも、この事を共有したくないと思うようになりました。プロも変えようと思いそれからは、一言たりともそのことを話さなくなりました。
 
そんな折、新しい美容院に行くことになりました。特に日常を詮索されなかったので、居心地がいいような何かが足りないような感じがしていました。詮索はどの美容院でも辟易していたのですが、この時は特に何を聞かれても答えないと思って臨みました。

 美容院は、スタイルについて、かなり念入りに見てくれました。その時、技術の確かな美容院を探していたので、思った以上の仕事をしてくれたことで、私はホッとしていました。彼女は絵を描いていると言っていました。そして、彼女はその多くを語りませんでした。

 私の後頭部に10円禿が出来ていると言っていました。私はその訳も話しませんでした。すると彼女はポツリポツリと、「自分のわずらわしさは自分でどうにかするしかないですから」「時が忘れさせてくれますから」と、言ってくれました。私はその事についても、やはり何も語りませんでした。

 お会計の時、壁を見ると彼女が描いたという鉛筆画が飾ってあって、とてもきれいでした。「なにかあると、今日は家に帰って絵を描こう。そう思うんです」彼女はそう言いました。それだけのことでしたが、私は、同胞の士に合えたような気がして、彼女の言ってくれた言葉が今更のように胸に届いたのでした。

 私は満足しました。

過去を教訓にする


 この8か月のことで、私にも得られた教訓がありました。それは、今迄の人生で出会った教訓の中で、大事なものになりました。そして、自分の道を決める結果にもなりました。

 良い悪いではなく違うということは合わないを産むということ、男と女の違い、誠実な人を見抜くとは、嘘をつく人のサイン、嫌いがあっていいということ、合わない苦手な人は会ったときにすぐわかるのに見過ごすということ、等々、様々でした。

 又、この時ではないのですが20年通っているこころのプロは、「そして、あなたはこのことからどんな教訓を得たのですか?」と悩んでいる私に尋ねてきたことがありました。事が起きて、簡単に過去にでき、そして、それを、教訓と言う形にするには更に時間が必要なのではないかと思います。人は簡単にそうは結論付けられない生き物と思うのです。この頃から、このプロとの間に何か違和があるように感じられていました。

 今回プロは「あなた側の問題じゃないんですか?」と言いました。それでも、私はしつこくプロの元に通いましたが、事の詳細を記したメモを見せても「ピンときませんでした」と言われ、そうか、この人と私は根本的に差し出すものと求めているものとが違うのだ。合わないのだと気付きました。それで、20年通ったそのプロの元を離れました。

 これらの気づきが、何故その時に出来ないのかということも思うのですが、終わって振り返ってみないと分からないのが教訓の特徴だといえます。
 

教訓にするのに必要な導きとしての音楽


 私がその時一番心を寄せたのが音楽でした。
「灰色の瞳」は、昔、背伸びをして聞いていた「長谷川きよし」さんの歌でしたが、私に寄り添ってくれました。別れを切り出してしまった私には寄り添ってくれる歌など存在しないだろうと思っていたのに、泣きくたびれた私に嫌な思いをさせませんでした。
 
 平原綾香さんの「明日」を聴くと、私は、私がずっとそばにいられないのは分かっていたのに怖くて「ずっとそばにいる」と言っていた。その心を代弁してくれました。そして、泣いている私を、励ましてくれました。

自分でわずらわしさをどうにかする

 もしも、人がそう簡単に痛みを過去に出来る生き物だというのであるならば、物語も、歌も必要がないのだと思います。他人は自分以外の他人の話にそんなに興味がないから、じっくり聞くなんて言うのはまれです。だから、歌や物語に自分の望む形の癒しを求めるのです。他人が他人の話をじっくり聞くことはないとは言いませんが、有り難いことなのだと思います。

 美容院の先生が言っていた「自分のわずらわしさは自分でどうにかするしかないですから」というのは、本当のことだと思います。だから、自分の悲しみを自分で消化する方法を持っていないといけないのだと思いました。歌を聴ける人は歌を聴き、物語を読んで癒されたい人は物語を読み、物語を書ける人は物語を書き、絵を描ける人は絵を描く。楽器を演奏したい人は音楽を。そんな風に自分をどうにかあやしていくしかないのだと思いました。

怒りに見舞われたら怒りを疑う


 8か月が終わったとき、納得して終わらせたと思っていました。なので、そのことについて誰も恨んでいませんでしたし、何がいけなかったのかもはっきりわかったつもりでいました。しかし、時々、言いようのない、プロへの不信や、周りの反応に対して、怒りの気持ちが込み上げることもありました。
 
 怒りが込み上げてくると、「何かの違和を感じる」。肌感覚で自分の中の何かが間違っているという気持ちになって行きました。私の中のどこかに違和に対する理解が追い付いていない部分があると、思いました。そして、様々なことを書き出してみると、「ここ」というポイントが見つかります。

怒りを疑った結果見えてきた別の世界


 怒りたいわけでもないし、誰かを悪者にしたいわけでもないと気付くのです。
 
 この違和感のもとである怒りは、私の求めていたものと、プロの提供してくれるものとが合わないというそれだけのことでした。合うプロを探せばいいだけのことです。

 理解してもらえない周りへの怒りは、そもそも他人は他人の話をじっくり聞いてあげる時間など持ち合わせていない。自分のことは自分で消化するしかない、という答えにたどり着くわけです。そこには、シンプルな答えが待っていました。

 恋の人間関係は、この8か月を終えて、世の中と言うものが、私が思っていたほど簡単ではなく、複雑で、絡み合っていると教えてくれました。その絡まり加減が、私にとっての「普通」とは、かけ離れていたのですけれどね。

 それでも、その構造は、答えが出てしまうと、拍子抜けするほどシンプルで、「それが、その人の当たり前だったから」で、括れてしまう。そういう構造だけはやっぱり、人間関係の複雑さを解いてもシンプルなんだと思いました。

つまらないけど、シンプル


 つまらないですけど、真実です。この世の中は、いたってシンプルな答えが用意されていると感じます。
 
 怒りの感情に振り回されて、違和を感じたりする。

 怒りは、違和の塊です。

 理解という言葉の分け方がなされなかったとき、起こる副作用みたいなものだと思います。立ち止まって、紙にその成分を書き出せば、シンプルな答えが返ってくると私は思います。



長谷川きよしさんと椎名林檎さんが歌う「灰色の瞳」。訳詞は加藤登紀子さん。「振った人」「振られた人」どちらの立場であろうと、その抱く本質については一緒だと教えてくれました。



平原綾香さんが歌う「明日」。作詞は「悲しみにさよなら」などの作詞で知られる松井五郎さん。冒頭の「ずっとそばにいるとあんなに言ったのに」は、主人公が言ったのか、主人公の相手が言ったのかどちらともとれるところが、広く解釈出来て多くの人に寄り添える理由だと思いました。



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