【毎日投稿239日目】ドラマ『白い巨塔』評ーー答えの出ない問いにどう立ち向かうか。
『白い巨塔』(2003年版)を全21話見終えた直後、
最初に胸に浮かんだのは、物語の展開や結末ではなかった。
率直に感じたのは、
原作者・山崎豊子という作家の、異様なまでの謙虚さだった。
■ 「絶対的に正しいことはない」という前提
この作品を貫いている前提は、極めてシンプルで、同時に残酷だ。
この世の中に、
絶対的に正しいことなど存在しない。
財前五郎も、里見脩二も、
一部は正しく、一部は間違っている。
それは他の登場人物についても同じだ。
そして重要なのは、
作者自身がその事実を誰よりも理解しているという点にある。
■ 善悪を定義することは、実はとても簡単だ
作家という立場に立てば、
何が善で何が悪かをはっきり定義することは、実は難しくない。
「これは間違っている」
「こう生きるべきだ」
「悪は裁かれ、善は報われるべきだ」
この構図はわかりやすく、
読者や観客にカタルシスを与える。
だが、その瞬間、作品はこうした構造に変わる。
作家=答えを知っている側
読者=教えられる側
それはもはや思想ではなく、
作家による「講義」に近い。
■ 白い巨塔には「神の視点」が存在しない
『白い巨塔』が特異なのは、
この「神の視点」を、徹底的に拒否している点にある。
作者は、誰も裁かない。
誰かを絶対的な正義にも、絶対的な悪にも仕立てない。
財前は裁かれるが、
それは「彼が完全な悪だったから」ではない。
里見は正しいが、
その正しさが世界を救うことはない。
東教授もまた、
卑怯でありながら、単純に断罪できる存在ではない。
ここには、
裁く作者が存在しない。
■ 「果たして本当にそうだろうか」という問い
この作品から強く感じ取れるのは、
作家自身の内側に、常にこの問いが介入しているということだ。
「果たして本当にそうだろうか」
自分の描いた人物はフェアだろうか。
この構図は単純化しすぎていないだろうか。
この結論は、誰かの人生を雑に扱っていないだろうか。
この問いを持ち続けることは、
作家としては極めて苦しい立場に身を置くことを意味する。
だが山崎豊子は、
その苦しさから逃げなかった。
■ 完璧な答えを出さないという覚悟
『白い巨塔』には、
観終わったあとにスッキリする答えが用意されていない。
裁判が終わっても、
医局制度は残る。
権威主義も、忖度の空気も消えない。
個人が倒れても、
構造は何も変わらない。
これは未完成なのではない。
最初から、完成を拒否しているのだ。
完璧な答えが存在しない世界を、
完璧な答えのないまま描き切る。
それはエンターテインメントを超え、
もはや哲学に近い態度である。
■ 作家性とは、主張ではなく「態度」なのかもしれない
この作品を通して感じたのは、
作家性とは、強い主張のことではない、ということだ。
むしろそれは、
自分の正義を疑う姿勢
結論に安住しない態度
人間を単純化しない覚悟
そうした生き方そのものに近い。
『白い巨塔』は、
「こう生きろ」とは一度も言わない。
ただ、
生きるとは何かを、
一緒に考え続けようとする。
その誠実さこそが、
この作品を単なる名作ドラマではなく、
今も語られ続ける思想作品にしているのだと思う。
■ まとめ
『白い巨塔』が突きつけてくるのは、
答えではない。
それは、
答えが出ない問いを、
引き受ける覚悟があるかどうか
という、
作家自身への問いであり、
同時に、観る側への問いでもある。
その問いを最後まで手放さなかったからこそ、
この作品は今も色褪せない。
