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竹千代の軍師

慶応四年(1868年)三月十三日。
高輪薩摩藩邸。
後に江戸無血開城へ至る談判を前にして、勝海舟は厠を借り、しばし独りになっていた。
春浅い空気はまだ冷たく、屋敷の板壁の向こうでは、薩摩藩士たちの草履の音が絶え間なく行き交っている。
海舟は膝に肘を置き、静かに息を吐いた。
脳裏に浮かぶのは、父・勝小吉の顔である。
乱暴者で、無頼で、しかし妙に肚の据わった男だった。旗本でありながら家禄を食い潰し、喧嘩と放蕩を繰り返し、それでもどこか江戸の町人たちに愛された、あの破天荒な父親。
――こういう時は、理屈じゃねえ。
海舟は、まるで小吉の仕草を己の身体へ移し込むように、肩を揺すった。
――度胸だ。
――肚ァ据えろ、麟太郎。
勝海舟の幼名は麟太郎という。
この日、彼が相対しようとしているのは、薩摩の巨魁、西郷隆盛であった。
鳥羽・伏見の戦いの後、旧幕府軍は敗れ、将軍徳川慶喜は大坂城を去って江戸へ戻っている。官軍は東下を続け、江戸総攻撃は目前に迫っていた。
もし市中で戦になれば、百万人都市江戸は火の海となる。
それだけは、避けねばならなかった。
海舟は、そのためにここへ来ている。
無論、空手で来たわけではない。
天璋院の意向。
そして、その背後にある、故島津斉彬の威光。
西郷という男が、なお斉彬を“お由羅騒動以来の主君”として絶対視していることを、海舟は見抜いていた。
――ネタはある。
海舟はそう思った。
――勝てる。
だが問題は、その先だった。
西郷隆盛という男は、理屈だけでは動かぬ。
こちらに、相手を呑み込むだけの「人物」があるかどうか。
それを試される。
海舟は、己の両膝へ手を置いた。
――俺が、オヤジみてえになれりゃあな。
その瞬間だけ、勝麟太郎は、幕臣でも軍艦奉行でもなかった。
ただ、江戸の裏長屋から這い上がった、小吉の息子だった。
やがて海舟は立ち上がる。
これより始まるのは戦ではない。
静かな決闘であった。
山岡鉄舟が駿府より持ち帰った報せは、海舟にとって小さからぬ希望であった。
山岡鉄舟。
慶喜護衛の精鋭隊頭として知られるこの男は、勝の密書を携え、単身に近い形で官軍参謀西郷隆盛のもとへ赴いたのである。
一歩間違えば斬られていた。
いや、むしろ斬られぬ方が不思議な役目だった。
鳥羽伏見以来、朝敵となった徳川の臣が、敵中深く駿府まで乗り込んだのである。命など、初めから捨てていたに違いない。
その鉄舟が持ち帰った西郷の条件は七つ。
慶喜を備前へ預けよ。
江戸城を明け渡せ。
軍艦も武器も差し出せ。
城内の家臣は向島へ移り謹慎せよ。
さらに、慶喜の暴挙を補佐した者は厳しく糾さねばならぬ。
もし暴発の徒あらば、官軍自ら鎮圧する――。
いずれも厳しい。
だが海舟には分かっていた。
あれは、まだ「話のできる条件」だった。
西郷隆盛という男は、問答無用で江戸を焼き払う気なら、そもそも鉄舟など生かして帰しはしない。
海舟は、そこにわずかな活路を見ていた。
ふと、海舟の脳裏に「駿府」という地名が引っかかった。
駿府。
徳川家康公が、幼き日を人質として過ごした土地。
妙なものだ、と海舟は思う。
徳川の始祖もまた、あの土地で他家の顔色を窺いながら、生き延びる術を覚えたのである。
――徳川ってぇのは、追い詰められてからがしぶてえのかもしれねえな。
海舟は、そんなことを考えた。
やがて襖が開き、会談が始まった。
西郷隆盛は、噂に違わぬ大男であった。
薩摩の山をそのまま人の形にしたような威圧感がある。
だが、その眼は不思議なほど静かだった。
海舟は、まず和宮のことを語った。
和宮親子内親王がいかに徳川家の存続を案じているか。
そして、天璋院が、なお島津斉彬の遺志を胸に抱いていること。
だが、西郷は黙って聞いているだけだった。
うなずきもせぬ。
表情も変わらぬ。
海舟は初めて、底の見えぬ不気味さを感じた。
――まずいな。
そう思った。
理はある。
情も打った。
それでも、この男の腹が見えぬ。
沈黙が続いた。
やがて西郷は、低い声で言った。
「勝先生は――」
その声は静かであったが、畳の下から響いてくるような重さがあった。
「徳川を、生かしたかとでごわすか」
海舟は返答に詰まった。
徳川を守りたいのか。
江戸を守りたいのか。
日本を守りたいのか。
その境目が、自分でも分からなくなっていた。
西郷はなおも静かに言った。
「山岡殿は、駿府まで命を懸け申した」
駿府。
その言葉を聞いた瞬間、海舟の視界がふいに揺れた。
知らぬはずの景色が、脳裏へ流れ込んでくる。
白い障子。
甲高い鳥の声。
若い武士たち。
そして――怯えた眼をした、ひとりの少年。
――竹千代。
なぜか、その名だけが浮かんだ。
海舟の身体がぐらりと傾いた。
   ◇
駿府の館は、朝から妙に騒がしかった。
廊下を行き交う足音が絶えぬ。
小姓たちは盆を抱えて走り、女房たちは香を焚き、奥では誰かが声を荒げている。
元服の支度が遅れておる。
烏帽子はどこへやった。
婚儀の日取りが先に決まっておるのだぞ――。
そんな声が、障子越しに幾度も聞こえてきた。
松平竹千代は、それらを他人事のように眺めていた。
白い小袖の袖を膝へ置き、庭を見ている。
駿府の春は、三河より柔らかい。
梅は既に散り始めていた。
婚儀。
その言葉だけが、妙に現実味なく頭の中を漂っている。
相手は今川家の縁者だという。
顔も知らぬ。
歳上らしい、という噂だけ聞いた。
大人の女だった。
それだけで、竹千代には十分恐ろしかった。
この頃の戦国大名にとって、婚姻とは家同士の盟約であり、少年少女の感情など顧みられることはほとんどなかった。
まして竹千代は、松平家の嫡子である。
父・松平広忠を失った松平家にとって、その存在は既に一人の少年ではなく、家そのものだった。
そして今川家にとってもまた、竹千代は三河支配のための重要な楔であった。
元服が急がれているのも、そのためである。
婚儀の日取りが先に決まり、未だ幼名のままでは外聞が悪い。
そのため、館中が慌ただしくなっていた。
「殿」
不意に、背後から声がした。
その瞬間、竹千代の身体が跳ねた。
反射だった。
肩をすくめ、畳へしゃがみ込み、両腕で頭を庇う。
息が止まりそうになる。
視界が暗く狭まった。
知らぬ男たち。
荒い手。
揺れる駕籠。
土埃。
誰かの怒鳴り声。
あの日の記憶が、一瞬で蘇る。
駿府へ送られる途中、自分は奪われた。
人質。
売り渡される荷のように。
当時、今川家へ送られるはずだった竹千代は、尾張で織田方に奪われた。
戦国の世において、人質とは珍しいものではない。
だがそれは、幼い子にとって、自らが「家の道具」であることを否応なく思い知らされる経験でもあった。
竹千代の喉が小さく鳴った。
しばしの沈黙。
やがて、低い声が降ってきた。
「……人は皆、恐れる」
竹千代は、ゆっくり顔を上げた。
そこにいたのは、黒衣の僧であった。
痩せた顔。
鋭い目。
静かすぎるほど静かな立ち姿。
太原雪斎。
今川家の軍師として知られる男である。
雪斎は、しゃがみ込んだ竹千代を見下ろしていた。
怒っているようにも見えた。
だが、その目にはわずかに憐れみもあった。
「恐れぬ者は愚か者よ」
雪斎は言った。
「されど武士は、恐れたまま立たねばならぬ」
竹千代は黙っていた。
立て、と言われても、脚が震えていた。
雪斎は続けた。
「殿は松平の嫡子。今よりは、子ではない」
その言葉とともに、廊下の向こうで再び慌ただしい声が上がった。
「烏帽子を!」
「急げ!」
「吉日を逃すな!」
館全体が、自分をどこかへ押し流そうとしている。
竹千代は、それが恐ろしかった。
名を変えられる。
髪を変えられる。
妻を与えられる。
そして戦へ出される。
誰も、自分へ訊かぬままに。
この頃の竹千代――後の徳川家康は、今川家の庇護のもと、駿府にて武家としての教育を受けていた。
学問、兵法、礼法。
そして何より、「生き延びる術」である。
彼へ強い影響を与えたのが、今川家の軍師として名高い太原雪斎であった。
やがて竹千代は元服し、「次郎三郎元信」と名乗る。
「元」の一字は、駿河の太守今川義元より与えられたものである。
それは同時に、松平家が今川家の傘下へ組み込まれた証でもあった。
さらに元信は、今川一門に連なる娘――後に築山殿と呼ばれる女性を娶る。
婚姻もまた、戦国においては戦の一部だった。
弘治二年(1556年)。
竹千代は、次郎三郎元信となった。
戦国の世では、それを「大人になった」と呼ぶ。
名を変えられ。
髪を変えられ。
妻を与えられ。
そして、主君のために命を捨てることを求められる。
それが武士であった。
だが元信には、それがただ、逃げられなくなることのように思えた。
いよいよ初陣である。
   ◇
永禄元年(1558年)。
三河国・寺部城近郊。
戦は、もう終わっていた。
終わっているにもかかわらず、戦場にはなお、人の声が残っていた。
どこかで負傷兵が呻いている。
馬が鳴く。
喉を潰されたような濁声で、短く。
春先の湿った風が、鉄錆と糞尿と血の臭いを混ぜて運んでいた。
草は踏み潰され、泥は黒く変色している。
折れた槍。
砕けた具足。
矢の立った死体。
首のない胴。
死者たちは、皆、妙に静かだった。
その静けさの中を、数人の三河武士たちが駆け回っていた。
「殿!!」
ひとりが叫ぶ。
「殿はどこだ!!」
若い武士だった。
額に血が流れている。
泥だらけの具足を鳴らしながら、必死に死体をひっくり返している。
石川数正である。
まだ若い。
だが、その目には既に、幾度も戦場を見た者の色があった。
「探せ!! まだ近くにおられるはずだ!」
背後で誰かが叫ぶ。
だが、返事はない。
あるのは、風の音だけだった。
数正は、崩れた馬防柵の脇で足を止めた。
そこに、死体があった。
若い武士の死体。
腹を裂かれ、顔には泥が張り付いている。
だが。
数正の目が見開かれた。
兜。
具足。
それは、確かに主君のものであった。
「――殿……?」
喉がひくりと鳴る。
数正は、ふらつくように死体へ近づいた。
違う。
そう思いたかった。
だが、具足は間違いなく松平家のものだった。
周囲の武士たちも、次第に顔色を失っていく。
「まさか……」
誰かが呟いた。
その瞬間。
遠くで烏が鳴いた。
   ◇
だが、その頃。
死んだはずの男は、生きていた。
泥まみれの草むらを、ひとりの若武者が息を切らして歩いている。
次郎三郎元信。
後の徳川家康である。
元信は、既に具足を捨てていた。
血に濡れた雑兵の死体へ、自らの具足を着せ替えて。
松平家嫡子の姿を、戦場へ置き去りにして。
元信は、粗末な陣笠を深く被った。
脚が震えていた。
胃の奥が冷たい。
初陣だった。
だが元信は、既に理解していた。
戦とは、武功でも誉れでもない。
殺されることだった。
死ぬことだった。
そして何より。
怖いものだった。
遠くで怒号が響く。
元信は反射的に身を縮めた。
もう戦場へ戻りたくなかった。
戻れば死ぬ。
そう思った。
その時、不意に、あの老僧の声が蘇った。
――恐れぬ者は愚か者よ。
太原雪斎の声だった。
駿府にいた頃から、幾度となく聞かされた言葉である。
――されど武士は、恐れたまま立たねばならぬ。
元信は唇を噛んだ。
その時だった。
「おい」
声がした。
元信の身体が凍る。
振り返ると、木立の向こうに男たちがいた。
六人。
百姓とも浪人ともつかぬ格好。
痩せた男。
鼻の潰れた男。
槍を持った男。
刀を吊った男。
弓を背負った男。
そして、ひときわ大柄な男。
どれも目つきが悪い。
野盗だった。
男たちは、元信を値踏みするように眺めていた。
「なんだ若ぇのか」
「逃げ雑兵だな」
「待て」
ひとりが、元信の腰へ目を止めた。
刀。
元信が、咄嗟に手で隠す。
だが遅かった。
「おいおい」
野盗のひとりが笑った。
「雑兵にしちゃ、いい刀持ってるじゃねえか」
男が近づく。
鞘へ触れる。
目の色が変わった。
「……これ、お前のじゃねえな?」
元信は黙っていた。
喉が渇く。
「死体から剥いだんだろ」
男は笑った。
「その死体の場所まで案内しろ」
「……戦場は危のうございます」
元信は、震える声で言った。
「まだ敵勢が、辺りを――」
「だから何だ」
男の顔から笑みが消えた。
「こっちは死人漁りで食ってんだ」
槍の先が、元信の腹へ向けられる。
「歩け」
元信は、ゆっくり後ずさった。
山の方角へ。
戦場とは逆へ。
野盗たちの眉が動く。
「おい」
「なんでそっちへ行く」
元信は答えられなかった。
「何隠してやがる」
空気が変わる。
男たちの目が細くなる。
殺気だった。
「殺して刀だけ剥ぐか?」
誰かが言った。
元信の背筋を冷たい汗が流れる。
その瞬間。
元信は駆け出した。
「待てッ!!」
怒号。
枝を掻き分ける。
土が滑る。
息が切れる。
怖かった。
ただ、怖かった。
武士としての面目も。
松平家も。
今川も。
何もかも頭から消えていた。
生きたかった。
それだけだった。
やがて元信は、山肌の裂け目のような洞穴へ転がり込んだ。
   ◇
暗い。
湿っている。
息を殺す。
外では野盗たちの怒声が響いていた。
「探せ!!」
「近くにいるぞ!!」
元信は、震える手で口を押さえた。
その時だった。
洞穴の奥で、火が揺れた。
誰かいる。
元信の身体が強張る。
暗闇の向こう。
ぼろぼろの着物をまとった、中年の男が座っていた。
妙な男だった。
髷も乱れている。
武士とも百姓ともつかぬ。
だが、その眼だけが異様に鋭かった。
男は、怯えきった元信を見つめた。
しばし沈黙。
やがて、低い声で言った。
「……若造が、死にてぇ面してやがる」
男は、焚火の向こうでそう言った。
元信は答えなかった。
洞穴の中は湿っていた。
岩肌から水が垂れ、冷えた土の臭いがする。
外では、野盗たちの怒声が近づいていた。
「探せ!!」
「山へ入ったぞ!」
「遠くへは行けねえ!!」
元信は、息を殺した。
胸が痛いほど鳴っている。
男はそんな元信を一瞥しただけで、再び火へ視線を戻した。
まるで関わる気がない。
それが逆に不気味だった。
「……匿ってくれとは言わんのか」
男が言った。
元信は唇を噛んだ。
「言うて、匿うか」
「さあな」
男は素っ気なく言った。
「俺ァ、お前ぇが誰かも知らねえ」
奇妙な物言いだった。
東国の言葉に似ていた。
だが、三河とも駿河とも違う。
妙に歯切れがよく、どこか乱暴で、耳慣れぬ響きがあった。
元信は、暗闇の中で男を見た。
「どこの者じゃ?」
と、元信は思った。
着物はぼろぼろ。
だが、その身体には妙な落ち着きがある。
浮浪者にも見える。
しかし、どこか武士めいていた。
その時。
洞穴の入口で、枝を踏む音がした。
「……いたぞ」
低い声。
野盗だった。
六人。
槍を持った男が、洞穴の中を覗き込む。
「おうおう」
鼻の潰れた男が笑った。
「逃げ雑兵、こんなとこに隠れてやがったか」
元信は動かなかった。
動けなかった。
野盗たちの目は、すぐに焚火の向こうの中年男へ向いた。
「なんだァ、乞食か?」
「臭ぇ穴だと思ったぜ」
野盗たちは笑った。
焚火の男は答えない。
興味も無さそうだった。
だが、野盗たちは元信から目を離さなかった。
「若造」
槍の男が言った。
「刀、見せろ」
元信は黙っていた。
「聞こえねぇのか」
男が近づく。
その時だった。
別の男が、元信の袖を掴んだ。
「待て」
男の顔色が変わっていた。
小袖の裏。
そこに、小さく蔓葵の紋が刺してあった。
野盗たちは、紋の意味など詳しく知らぬ。
だが、それでも分かった。
粗末な雑兵の持つものではない。
武家。
しかも、それなりの家柄。
その気配だけは、本能のように感じ取れた。
洞穴の空気が変わる。
「……おい」
「こいつ、今川筋か?」
元信の喉が鳴った。
しまった。
そう思った。
野盗たちの目が、急に欲深くなる。
「待てよ」
「ただの雑兵じゃねえぞ」
「駿府へ売れば金になるかもしれねえ」
元信は、唇を噛み締めた。
怖かった。
脚が震えていた。
だが、その瞬間。
不意に、何かが切れた。
もう、隠しても無駄だった。
元信は、ゆっくり顔を上げた。
「……違う」
声は震えていた。
だが、眼だけは逸らさなかった。
「今川の者なら、その紋は使わぬ」
野盗たちが顔を見合わせる。
元信は続けた。
「これは、松平の紋だ」
焚火が小さく爆ぜる。
「わしは――松平竹千代じゃ」
洞穴の空気が止まる。
野盗たちの目が見開かれた。
「……は?」
「松平……?」
「まさか」
次の瞬間だった。
焚火の向こうにいた中年男が、初めて動いた。
「おい若造」
焚火の男は、呆れたように言った。
「てめぇ、そういうことァ、もっと後に言え」
元信が振り向く。
男の手には、妙な鉄の塊があった。
短い。
黒い。
見たことのない形。
野盗たちも、一瞬、理解できなかった。
「……なんだそりゃ」
中年男は立ち上がった。
その眼が、焚火の光の奥で冷たく光る。
「俺も、お前ぇらとは関わりたくなかったんだがな」
次の瞬間。
轟音。
洞穴そのものが爆ぜたようだった。
火花。
硝煙。
野盗の頭が弾け飛ぶ。
元信の視界が白く染まった。
二発。
三発。
耳を裂く雷鳴が、狭い洞穴の中で反響する。
野盗たちが何か叫んでいた。
だが、もう聞こえなかった。
血が飛ぶ。
肉が砕ける。
槍が転がる。
四発目。
五発目。
入口へ逃げようとした男が崩れ落ちる。
最後の男が腰を抜かした瞬間、さらに火が走った。
六発目。
静寂。
硝煙だけが、洞穴の中へ重く漂っていた。
元信は、口を開けたまま動けなかった。
耳が何も聞こえない。
ただ、キーンという音だけが頭の奥で鳴っている。
   ◇
焚火の向こう。
中年男は、妙な鉄の塊を見つめていた。
まるで、自分でもそれが何なのか分からぬような顔で。
洞穴の中には、まだ硝煙の臭いが重く漂っていた。
血の臭いと混ざり、妙に甘ったるい。
岩肌には黒い煤が付着している。
だが、先ほどまで頭蓋を割るように鳴っていた耳鳴りは、ようやく少し収まり始めていた。
キーン――という音が、遠くへ退いてゆく。
焚火の火が、小さく爆ぜた。
中年男は、黙ったまま野盗の死体をまさぐっていた。
脈を見ている。
生き残りがいないか確かめているのだと、元信にも分かった。
だが、その手つきが妙に慣れていた。
人を殺すことにではない。
殺した後を確認することに。
それが、元信には妙に不気味だった。
やがて男は、小さく息を吐いた。
「……全部死んだな」
元信は答えなかった。
視線は、男の手にある黒い鉄塊へ吸い寄せられていた。
短い筒。
奇妙な回転部。
木の握り。
まるで小型の鉄砲である。
だが、火縄もなければ火皿もない。
見たこともない武器だった。
男は、それをしばらく見つめていた。
まるで、自分でもそれが何なのか分からぬような顔で。
元信は、おそるおそる口を開いた。
「……それは」
男は顔を上げた。
「ん?」
「何という武器じゃ」
男は黙った。
少し考えるような顔をする。
「……分からねえ」
「分からぬ?」
「だが――」
男は、自分の手を見た。
「使い方は分かる」
「弾の込め方も」
「火薬の扱いも」
「掃除の仕方も」
「どこが壊れやすいかも」
男は、苦々しげに笑った。
「身体だけが覚えてやがる」
元信は、そっと武器へ手を伸ばした。
男は止めなかった。
元信が鉄塊へ触れた瞬間。
「あつっ」
思わず取り落とす。
鉄塊が岩へ当たり、乾いた音を立てた。
男が吹き出した。
「そりゃ、さっきまで火ぃ吹いてたからな」
元信は赤くなった指を見た。
熱かった。
鍛冶場の鉄のようだった。
男は、転がった武器を拾い上げる。
その時だった。
ふと、洞穴の隅に置かれた木箱へ目をやる。
箱には、奇妙な文字が刻まれていた。
元信には読めぬ文字。
南蛮文字に見えた。
男は、それを何気なく読み上げた。
「……M1860」
元信が顔を上げる。
男は続ける。
「コルト……アーミー」
沈黙。
男自身が、一番驚いていた。
「なんじゃ、それは」
元信が訊く。
男は眉をひそめた。
「分からねえ」
「だが……読める」
「読める?」
「読めるんだよ」
男は苛立ったように言った。
「意味は分からねえのに、読める」
焚火が揺れる。
元信は、洞穴の奥の木箱へ近づいた。
中には、小さな鉛玉。
紙包み。
黒い粉。
油布。
鉄の道具。
見たことのない器具が並んでいる。
男は言った。
「こいつらの使い方も分かる」
「どれだけ詰めりゃ危ねえかも」
「どこを磨けば長持ちするかも」
「だが、どこで覚えたかが思い出せねえ」
元信は、静かに箱を閉じた。
「……南蛮か」
男が顔を上げる。
「なんだ?」
「伴天連と呼ばれる南蛮僧が、近頃、西国へ来ておる」
元信は慎重に言葉を選んだ。
「フランシスコ・ザビエルという男も、日本へ渡ったと聞く」
「海の向こうには、見たこともない武器や学問があるとも」
男は苦笑した。
「俺が伴天連に見えるか?」
「いや」
元信は真顔だった。
「だが、おぬしは海を知っておる気がする」
男は黙った。
海。
その言葉だけが、妙に胸へ引っかかった。
波。
黒い船。
潮の臭い。
だが、そこから先が見えない。
男は、自分の頭を乱暴に掻いた。
「ちっ……」
元信は、再び武器を見た。
「……この武器は危うい」
男が顔を上げる。
元信は続けた。
「戦の形を変える」
「力関係を変える」
「武田も」
「今川も」
「織田も」
「皆、この武器を欲しがる」
その声は静かだった。
だが、妙な重みがあった。
「だから、隠すべきじゃ」
焚火が、小さく爆ぜた。
男は、しばらく元信を見ていた。
若い。
怯えている。
さっきまで逃げ回っていた。
だが、この少年は、もう戦だけを見ていない。
国を見ている。
男は、不思議な感覚を覚えた。
――聡明だ。
自然に、そう思った。
だが同時に。
なぜ自分が、そう感じるのかが分からなかった。
聡明。
戦。
国。
海。
砲。
その言葉が、自分の中で妙に自然につながる。
まるで昔から知っていたように。
だが、その“昔”が思い出せない。
男は、焚火へ視線を落とした。
元信が、静かに言う。
「わしは、松平の嫡子じゃ」
「だが、今は今川の人質でもある」
「岡崎へ戻っても、すぐ自由にはならぬ」
「いつ、誰に殺されるかも分からぬ」
洞穴の外では、風が鳴っていた。
遠くで、戦場の残響のような鬨の声が聞こえる。
元信は、中年男を真っ直ぐ見た。
「だから、家の外の者が必要じゃ」
男は眉をひそめた。
「家の外?」
「今川でもない」
「松平でもない」
「どこにも属しておらぬ者じゃ」
元信は続けた。
「おぬしは、誰の家臣でもないのであろう」
男は、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「……わからねえ」
「なにがじゃ」
「なんで、お前を助けたのかだ」
元信は黙った。
男は、焚火を見つめたまま続ける。
「関わる気なんざ無かった」
「だが――」
男は少し困ったように笑った。
「なぜか、あんたを守るために、ここへ来た気がする」
洞穴の中へ、風が吹き込んだ。
焚火が揺れる。
元信は、その中年男をじっと見つめた。
得体が知れない。
危うい。
だが。
この男は、戦国の論理の外にいる。
元信は、直感していた。
この男は――使える。
   ◇
洞穴の中には、まだ硝煙の臭いが残っていた。
野盗たちの死体は、転がったままだった。
一人は洞穴の入口近く。
一人は壁にもたれかかるように。
残る四人は、折り重なるように倒れている。
元信は、それを見ていた。
何度も。
見れば見るほど分からなくなる。
傷は小さい。
刀傷のように肉が裂けているわけでもない。
槍で貫かれたようにも見えない。
それなのに死んでいる。
六人とも。
中年男は岩壁へ背を預けていた。
身体が重かった。
疲れているのだろう。
それとも、別の何かだろうか。
人を殺した。
その実感だけが、妙に胸の奥へ残っている。
だが、不思議なことに後悔はなかった。
殺さねば、自分かこの若造が死んでいた。
それだけは分かる。
元信の視線が、再び鉄の塊へ向いた。
岩陰へ置かれた拳銃だった。
中年男も気付いていた。
気付いていたが、何も言わなかった。
元信もまた、何も聞かなかった。
しばらくしてから、
「おぬし」
と元信が言った。
男は顔を上げた。
「なんだ」
「その武器の名は分かったか」
男は少し考えた。
洞穴へ逃げ込む前。
箱があった。
その文字だけは読めた。
なぜ読めたのかは分からない。
「コルト」
男は答えた。
「たしか、そう書いてあった」
元信は黙っていた。
意味は分からぬらしい。
だが覚えようとしている顔だった。
男は苦笑した。
「お前も変な奴だな」
「そうか」
「普通は化け物だと思うだろう」
元信は少し考えた。
そして首を横へ振った。
「化け物なら、わしを助けぬ」
男は笑った。
妙に納得できる理屈だった。
元信は地面へ視線を落とした。
木の枝を拾う。
そして土の上へ線を引き始めた。
「ここじゃ」
円を描く。
「駿府」
さらに線を伸ばす。
「ここが遠江」
さらに西へ。
「ここが三河」
男は黙って見ていた。
地名に聞き覚えはない。
だが、不思議と興味はあった。
「お前の国か」
「わしの家の国じゃ」
元信は言った。
「だが今は今川家のものでもある」
男は眉をひそめた。
「自分の国じゃねえのか」
元信は苦笑した。
「戦国とはそういうものじゃ」
男は地図を見る。
しばらく沈黙した。
やがて口を開く。
「一番偉いのは誰だ」
元信は少し意外そうな顔をした。
「将軍家じゃ」
「将軍?」
「足利義輝様」
男は首を傾げた。
「なら、なんで皆勝手に戦ってる」
元信は答えなかった。
少し考えてから、
「遠いからじゃ」
と言った。
洞穴へ風が吹き込んだ。
どこかで鳥が鳴いている。
元信は地図の上を指でなぞった。
「武田」
さらに別の場所を叩く。
「上杉」
そして駿府を指した。
「今川」
男は聞いた。
「一番強いのは誰だ」
元信は少し考えた。
長く。
真剣に。
そして、
「武田信玄殿か」
と言った。
さらに、
「あるいは義元公」
と続けた。
男は頷いた。
名前は知らない。
だが、その答え方だけで分かった。
本気でそう思っている。
その時だった。
元信の顔が変わった。
男は気付かなかった。
元信だけが顔を上げた。
洞穴の外。
風とは別の音がある。
男は遅れて耳を澄ました。
何も聞こえない。
だが元信は立ち上がっていた。
「どうした」
男が訊く。
元信は答えなかった。
さらに数瞬。
今度は男にも聞こえた。
遠い。
だが確かに。
乾いた音。
規則的な音。
地面を叩く音。
馬だ。
しかも一頭ではない。
元信の顔から血の気が引いていた。
男は初めて不安になった。
「敵か」
元信は首を横へ振る。
だが安心した顔ではない。
むしろ逆だった。
「味方じゃ」
そして、小さく呟く。
「だからまずい」
馬蹄の音が近づいてくる。
山道を登ってくる。
迷いがない。
こちらを知っている足取りだった。
元信の視線が、岩陰の拳銃へ向いた。
次いで中年男を見る。
二人は何も言わなかった。
だが同じことを考えていた。
見つかれば終わる。
その時。
山の向こうから、
かすかに声が響いた。
「殿―――っ!」
元信は目を閉じた。
そして深く息を吐いた。
「見つかった」

つづく


本作はフィクションです。登場する人物・団体・事件は実在のものとは一切関係ありません。

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