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なくてもよくなったのは、「私」ではなかった

一冊から、問いをひらく|07

役割を一つ軽くしたあとに残る空白を、自分の価値と混同しない

予定表に、三十分の空白ができました。

毎週、その時間に作っていた資料を、簡略化することになったからです。

仕組みが変わり、それまで行っていた細かな確認の多くが、必要なくなりました。

関係する人へ確認し、残す情報を決め、手順を短くしました。必要なものは残っています。仕事としては、問題なく整理できています。

少し楽になってよいはずでした。

けれど、予定表に残った白い部分を見て、最初に考えたのは、休むことではありませんでした。

返していないメールはなかっただろうか。
家の用事を前倒しできないだろうか。
途中まで読んだ本を開こうか。
学びかけていることの続きを進めようか。

空いたのは、三十分です。

それなのに私は、その三十分をすぐに何かで埋めなければ、自分の役割まで薄くなってしまうように感じていました。

この文章は、『普通の50代、人生を選び直す。』で、役割を一つ軽くしたあとの空白について考えた場面から生まれました。

今回は、終わった役割と、自分そのものを分けて考えてみます。


毎週作っていた資料が、短くなった

その資料は、長く、毎週作ってきたものでした。

いくつかの情報を集め、細かな点を確認し、必要な形へ整える。目立つ仕事ではありません。それでも、誰かが判断するときの材料になり、次の作業へ進むための土台になっていました。

仕組みが変わったことで、その確認の多くが不要になりました。

なくしてよい部分と、残すべき部分を分けました。

関係する人にも確かめました。

そのうえで手順を短くすると、これまで使っていた時間の一部が、予定表の中に白く残りました。

改善としては、うまくいっています。

同じ結果を、以前より短い時間で出せるようになったのですから、本来なら喜んでもよいことです。

実際、少しほっとしていました。

毎週の負担が軽くなった。
細かな確認に追われなくてもよくなった。
別のことに時間を使えるようになった。

そう思う一方で、説明しにくい寂しさも残りました。

困る人がいないことに安心しながら、困る人がいないことを、少し寂しく思っていました。

必要な仕事を、きちんと簡略化できた。

それなのに、長く持っていたものを手から下ろした感覚だけが、予定表の空白に残っていました。

空いた三十分を、すぐ何かで埋めようとした

予定表の白い部分を見ながら、私は次にできることを探しました。

メールを一通返す。
家の用事を一つ済ませる。
本を数ページ読む。
学びの続きを進める。

どれも、悪いことではありません。

空いた時間を有効に使うことも、暮らしを整える方法の一つです。

けれど、そのときの私は、何をしたいかを考えていたわけではありませんでした。

空白がある状態に、落ち着かなかったのだと思います。

振り返ると、二十代の頃は、持っているものが増えるほど前へ進んでいるように感じていました。

覚えた仕事が増える。
任される範囲が広がる。
知っている人が増える。
自分に聞かれることが増える。

増えていくことが、成長の証しでした。

忙しくなることは大変でも、「自分には役割がある」と感じられました。

その感覚を長く持っていたために、何かが減ると、前へ進んでいた時間まで巻き戻されたように感じたのかもしれません。

役割が一つ軽くなっただけなのに、自分が小さくなったように思える。

時間が空いただけなのに、居場所に空白ができたように感じる。

だから、私はすぐに別の役割を探しました。

「もう持てない」と言うより、「まだ持てます」と言うほうが、長いあいだ安心できました。

持っているものの数で、自分の必要性を確かめていたのだと思います。

誰も困らなかったことが、少し寂しかった

資料を簡略化してから、数週間が過ぎました。

仕事は滞りませんでした。

必要な情報は残っています。確認すべきところは確認されています。誰かが困っている様子もありません。

それは、整理の仕方が間違っていなかったということです。

以前の仕事を丁寧に見直し、必要な部分を残せたからこそ、問題なく続いています。

それでも、心のどこかに、小さな問いが浮かびました。

あれほど時間をかけてきたのに、なくてもよかったのだろうか。

自分がしてきたことには、どのくらい意味があったのだろう。

もう、自分でなくてもよいのだろうか。

けれど、今は必要なくなったからといって、過去にも必要がなかったわけではありません。

そのときの仕組み、そのときの人、そのときの状況では、細かな確認が必要でした。

長く続けてきたからこそ、何を残し、何を減らせるかを判断できました。

自分の経験は、以前と同じ形で使われなくなっただけで、突然なくなったわけではありません。

仕組みが変われば、役割の形も変わります。

仕事だけではありません。

子どもが成長すれば、親が担ってきたことは変わります。
家族の状態が変われば、家の中で必要とされることも変わります。
新しい道具が入れば、長く続けてきた手順が不要になることもあります。

役割の出番が減ることはあります。

けれど、出番が減ったことと、その役割を担ってきた時間に価値がなかったことは、同じではありません。

役目を終えたことと、価値がなかったことは違う

予定表にできた三十分を見ながら、私は二つのことを一緒にしていました。

一つは、毎週の資料作成が簡略化されたという出来事です。

もう一つは、その出来事を見て、「自分はもう必要とされていないのではないか」と感じたことです。

最初の一つは、確認できる事実です。

二つ目は、その事実を見たあとに、私の中で広がった解釈でした。

もちろん、役割の変化が、収入や評価、雇用、生活のリズムに影響する場合もあります。そのときは、実際に何が変わるのかを確認し、必要な対応を考えることが大切です。

けれど、一つの仕事が減ったことを、自分全体への評価として受け取る必要はありません。

毎週の資料が短くなっても、そこで使ってきた経験は残っています。

何を確認すべきかを考えた時間。
必要な情報を見分ける判断。
関係する人とのつながり。
問題なく続けるために手順を整えた経験。

そして、これから使える三十分も残りました。

なくてもよくなったのは、私ではありません。
役割の一部でした。
役目を終えたことと、価値がなかったことは違います。

そう考えてみても、寂しさがすぐ消えたわけではありません。

長く持っていた役割を下ろせば、手の中には空白が残ります。

その空白を寂しいと思うことまで、否定しなくてよいのだと思います。

三十分を、空白のままにしてみた

ある日、その三十分に、新しい予定を入れないことにしました。

何もしない時間を楽しもう、と決めたわけではありません。

ただ、何かで埋める前に、少しだけそのままにしてみようと思いました。

スマートフォンを手に取り、メールを開きました。

けれど、急いで返すものはありませんでした。

画面を閉じ、窓を少し開けました。

飲み物を入れ、予定表の前へ戻りました。

次にすることを決めないまま座っていると、少し落ち着きませんでした。

時間を無駄にしているようにも感じました。

何か一つ済ませたほうが、今日をきちんと使ったと思える気がしました。

それでも、その日は、すぐに別の役割を入れませんでした。

役に立つことをしていない三十分。

誰かから何かを求められていない三十分。

成果として残るものがない三十分。

その時間の中にも、自分はいました。

役割を持っているときだけ、ここにいたわけではありません。

何かを担っていない時間にも、窓を開け、飲み物を入れ、次のことをまだ決めずにいる自分がいました。

空白が心地よくなった、とまでは言えません。

ただ、すぐ埋めなくても、自分まで消えるわけではないことを、少し確かめられました。

空白を埋める前に、三行だけ書いてみる

役割が終わったり、減ったり、誰かへ渡ったりしたとき、私たちは出来事から自分への評価まで、一度に進んでしまうことがあります。

そのようなときは、紙へ三行だけ書いてみます。

  1. 終わった、減った、変わった役割

  2. その変化から、自分について想像したこと

  3. 役割が変わっても残っているもの

たとえば、

「毎週の細かな資料確認が減った」

「自分はもう必要とされていないように感じた」

「必要なものを判断した経験、関係する人とのつながり、三十分の時間が残った」

と書きます。

前向きな答えに書き換えなくてもかまいません。

寂しいなら、寂しいと書いておきます。

ほっとしたなら、その気持ちも同じところへ置きます。

そして、空いた時間をすぐ次の予定で埋めず、まず十分だけ残してみます。

十分を楽しめなくてもかまいません。

何かをしたくなったら、「私は、何でこの空白を埋めようとしているのだろう」と気づくだけでも十分です。

空白を上手に過ごすことが目的ではありません。

役割がない時間にも、自分がここにいることを確かめるための、小さな間です。

今日、答えを出さないための問い

最近、終わったこと、減ったこと、誰かへ渡した役割はあるでしょうか。

仕事かもしれません。

家庭の中で長く担ってきたことかもしれません。

地域や人間関係の中で、自分の役目だと思っていたことかもしれません。

その変化を、私は自分についてのどのような評価へ結びつけているでしょう。

もう必要とされていない。
以前ほど力がない。
経験が役に立たなくなった。
自分の居場所が小さくなった。

それは、実際に確認できたことなのか。

それとも、一つの役割が変わったあとに、心の中で広がった意味なのか。

二つの問いを置きます。

最近、終わった、減った、誰かへ渡した役割はあるだろう。
その役割が変わったことを、私は自分の価値についてのどんな評価へ結びつけているだろう。

そして、もう一つ。

一つ軽くしたあとに生まれた空白を、私は何で急いで満たそうとしているだろう。

すぐに新しい役割を探さなくてもかまいません。

次の予定を書く前に、空白を十分だけ残してみます。

役割の出番が減ったことと、自分の価値が減ったことは、同じではありません。

空白は、すぐ次の役割で埋めなければならない不足ではありません。

何かを担っていない時間にも、自分はここにいる。

そのことを確かめるための、まだ名前のついていない時間なのだと思います。


この問いを、もう少し長い時間の中で

『普通の50代、人生を選び直す。』では、毎週作ってきた資料を簡略化し、予定表に三十分の空白が生まれた場面から、役割について考えています。

少し楽になったという安心。

自分がいなくても困らないという寂しさ。

二つの感情を、どちらか一方に決めずに置いてみます。

二十代の頃には、任される仕事や知識、人とのつながりが増えるほど、前へ進んでいるように感じました。

その感覚が残っているからこそ、役割が減ったときには、人生まで後ろへ戻ったように感じることがあります。

けれど、以前と同じ形で使われなくなった経験も、消えたわけではありません。

役割を軽くしたあとに残るのは、寂しさだけではありません。

そこで使ってきた判断。
人との関係。
これから使える時間。
何かを担っていないときの自分。

空白をすぐ次の役割で満たさず、空白のまま受け取ってみる。

その時間の中で、仕事、身体、家族、夢との関わり方を、少しずつ選び直していきます。

一つの役割が終わることは、自分が終わることではありません。

これまでの役割へ感謝しながら、その外側にも続いている暮らしへ戻っていく。

その過程を、もう少し長い時間の中でたどっています。


『普通の50代、人生を選び直す。』
今ある暮らしを崩さず、小さく始める28の問い
著者:星原 簾

書籍について


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