第四話 『「女の子しか愛せない」と振られた僕、おかまバーの魔法で最高の美少女になりました』
控室に放り込まれた僕を待っていたのは、煌びやかなスパンコールドレスやフェザーボア、無数のウィッグと化粧品が溢れかえる、まさに「魔法の実験室」だった。
「……ガーネットさん」
「なあに?」
「僕、何をしてるんでしょう」
ガーネットさんの手が、僕の頬の上でぴたりと止まった。
「何って、綺麗にしてるのよ」
「そうじゃなくて……」
僕は鏡を見ないように、視線を少しだけ伏せた。
「僕、凛香先輩に振られたんですよね」
「そうね」
「それなのに、その人に好かれるために、女の子になろうとしてる」
口にしてみると、あまりにも馬鹿げていた。 自分でも笑ってしまいそうになるのに、どうしても笑えなかった。
「……そんなに好きなの?」
不意に尋ねられ、僕は答えに詰まった。
「……好きです」
それだけは、迷わず言えた。
「だから、諦めたくないんです」
「ふふ」
ガーネットさんは小さく笑った。
「だったら、今はそれでいいじゃない。恋してる最中の人間に、合理性なんて求めちゃ駄目よ」
ガーネットさんはそう言うと、手際よく、けれど恐ろしいほどの精度で「魔法」を施し始めた。
「女の子にするんじゃないのよ。アンタの中にあるものを、外に出してあげるの。化粧っていうのは、別人になるためのものじゃないわ」
冷たい化粧水が肌に滑り、柑橘系と高級感のあるフローラルの甘い匂いが立ち上る。
男特有の髭の青みを打ち消すオレンジ色のコントロールカラーを手際よく馴染ませ、骨張った影を完全に消し去ると、その上からしっとりとしたリキッドファンデーションが重ねられていく。
湿らせたスポンジがリズミカルに頬を叩くたび、ゴツゴツとした毛穴や肌の硬さが消え、滑らかな陶器のような肌へと塗り替えられていった。
柔らかい刷毛が頬を撫で、ほんのりと熱を帯びたようなチークの血色が乗る。 繊細な筆先が眉のラインを優しく整え、まぶたの上には淡いピンクベージュのアイシャドウが薄く重ねられていく。
「……目を閉じて」
ガーネットさんの指示に促され、僕はそっと瞼を閉じた。
まつ毛の根元を撫でる、極細のアイライナーのひんやりとした感触。 続いて、まつ毛一本一本を根元から持ち上げるように、マスカラブラシが丁寧に滑り込んでくる。 繊細な毛先が触れるたび、瞼の裏で心臓が跳ね上がった。
仕上げに取り出されたのは、しっとりとした重みを抱く漆黒のロングのウィッグだった。 頭に滑り込ませられ、丁寧にブラシが通されるたびに、サラサラとした黒髪が僕の首筋を優しく撫で落ちていく。
シューッというスプレーの清涼感ある音が響き、スタイリングが固定された。
「……さあ、目を開けてごらんなさい」
その声に、喉の奥がカラカラに乾いた。
寝癖を直すため。髭を剃るため。僕はこれまで、自分の顔を鏡で何度も見てきた。 けれど、今日だけは違う。そこにいるのは「僕」なのか、それとも凛香先輩に振り向いてもらうためだけに作られた偽物なのか。
(『ごめんね。私、女の子しか愛せないの』)
胸の奥に刺さったままのその言葉が、鋭く痛む。 鏡を見て「やっぱり無駄だった」と笑い飛ばせてしまえたら、どれだけ楽だっただろう。
僕は意を決して、ゆっくりと目を開けた。
——息が、止まった。
まぶたを持ち上げた瞬間、鏡の中にいたのは、僕の知っている「自分」ではなかった。
アイラインで強調された大きな瞳、漆黒のマスカラで繊細に広がった長いまつ毛。パウダリーな白肌に映えるほんのり濡れたような唇と、首元へ流れる美しい黒髪。
そこには、息を呑むほど可憐な「見知らぬ美少女」が立っていた。
「……これが……僕……?」
あの日、僕を絶望の底に突き落とした『女の子しか愛せない』という言葉。 それが、目を開けた瞬間に見つめ合ってしまった可憐な少女の瞳によって、恐ろしいほどの強烈な「希望」へと姿を変えていく。
(……この姿なら。この『女の子』になれば、あの人の愛を受け取る資格が手に入るのかもしれない)
それは、諦めかけていた恋が息を吹き返した喜びの熱だった。 けれど同時に、僕の心を激しく揺さぶったのはそれだけではなかった。
鏡の向こうで見つめ返してくる美少女——自分の中に潜んでいたはずの、恐ろしいほど可憐な『新しい自分』に出会ってしまったことへの、甘美な高揚感。
あの人に届きたいという切実な執着と、自分でも知らなかった美しさに囚われていく背徳的な快感。ふたつの熱がぐちゃぐちゃに混ざり合い、胸の奥で恐ろしいほどの予感となって弾けた。
僕は恐る恐る、自分の頬に手を伸ばした。 指先が触れたのは、見慣れたはずの自分の肌だった。けれど鏡の中の少女は、僕の指先に合わせて頬へ触れている。
視線を少し下へ向けると、その可憐な顔立ちの下には、見慣れた黒のTシャツと、隠しきれない男の肩幅がそのまま残っていた。 完璧に作り込まれた「女の子」の顔と、何一つ変わっていない「男」のごつごつとした身体。 鏡の中で起きている強烈なちぐはぐさに、頭がくらくらするほどの違和感を覚える。
「……本当に、僕だ」
当たり前のことなのに、その言葉がひどく奇妙に聞こえた。 顔は息を呑むほど美しいのに、首から下との不協和音が、ここにいる僕がまだ未完成で歪な存在なのだと突きつけていた。
ガーネットさんは僕の肩にそっと大きな手を乗せ、鏡越しに微笑んだ。
「完璧よ。自信を持ちなさい。鏡の中にいるのはね、誰か別の女の子じゃない。アンタ自身なんだから」
「あ、あの……」
「ところでアンタ。女の子になったら何て呼ばれたい?」
「……考えたこともありません」
「そう。じゃあ、まだ名前はいらないわね。あたしがアンタに最高に似合う、とびきりの名前を考えておいてあげるわ」
ガーネットさんの言葉の余韻の中、胸の奥が激しくドクンと跳ね上がった。
僕は鏡から目を逸らせなかった。 凛香先輩に近づけるという希望からなのか、それとも、見たこともない自分自身に心を奪われてしまったからなのか——その理由が一体何なのか、今の僕にはまだ分からなかった。
