毒親にされる覚悟は、親である限り避けられない
「親ガチャ」「毒親」という言葉が定着して久しい。
親の影響が子どもの人生を大きく左右する、という事実を可視化するために生まれた言葉でもある。
その言葉に救われた人も多くいる一方で、
私はそこに、少し息苦しさのようなものを感じてしまう。
それは、「親なら、最初から最後まで正しくあるべき」という無言のプレッシャー。
どれだけ努力しても、少しでも足りなければ“毒”と認定される構造。
人間がそこまで完成された存在であることを求められることに、どこか無理があるように思えてしまう。
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■ 1. 子どもには“統合されていない人格”がある
育児をしていて日々感じるのは、子どもはまだ人格としての輪郭が安定していないということ。
同じ言葉でも、あるときは喜び、別のときは泣き、また別のときは怒る。
まるで、いくつもの人格が入れ替わるような感覚。
成長とともにその多層性は複雑さを増していき、
親は毎回“違う誰か”に向き合っているような感覚にさえなる。
この変化に常に“正解の対応”をし続けることは、はっきり言って不可能だ。
それでも親である限り、私たちは常に「できる限りの正しさ」を求められる。
その構造自体が、そもそも成立していないように思う。
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■ 2. 「毒親かどうか」は、二択ではなく、濃淡のグラデーションである
親子関係は、多くの場合とても複雑だ。
誰にでも余裕がない日はあるし、感情的になることもある。
それを一つひとつ切り取って「毒親だった」と断定することができるなら、
おそらくすべての親は、いつかどこかで“毒”を含んでいる。
だから私は、毒親指数は誰にでも少しずつ存在するものだと思っている。
その濃淡のなかで、いかに誠実に向き合い続けたか、
そこにしか答えはないのではないかと感じている。
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■ 3. 「良い育児」は結果論でしかない。そして、報われないこともある
育児本や講演会では、「こうすればうまくいく」「子どもが東大に行きました」といった成功例が語られている。
その語りの多くは、“成果”をもとにした後付けの正当化にすぎないように思う。
もしかするとその子は、
「この人みたいになりたくない」と思って必死に努力したのかもしれない。
あるいは親の言動に深く傷つきながら、自力で抜け出したのかもしれない。
それなのに、その結果だけを「私の育児は成功だった」と語るのは、あまりに都合がよすぎる。
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もっと言えば、
どれだけ手の込んだ栄養満点の料理を毎日作っても、
教育にお金をかけても、子どもは感謝しないことがある。
むしろ、「押しつけだった」「プレッシャーだった」と恨まれることすらある。
育児には、努力しても報われないという場面が当たり前に存在している。
だから私は、「子どもからどう思われるか」ではなく、
「自分が納得できるかどうか」を軸に、育児をしていこうと決めている。
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■ 4. 自分の楽しさと、子どもとのちょうどいい距離を探しながら
完璧を目指すと、親は壊れる。
どこまで関わればいいか、どこから離れればいいか、その境界はいつも揺れている。
だから私は、自分にとって“楽でいられる距離感”を大切にしている。
子どもとただ一緒にいるだけの日もあれば、しんどくて距離をとる日もある。
でもそれでいい。
「自分が無理をしていないこと」こそが、育児を続ける前提条件になるから。
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子どもに対して誠実でありたいと思う。
でも、自分に対しても誠実でいたい。
私の人生は、子どもを育てるためだけのものじゃない。
そう思えることが、結果的に子どもとの関係も健康にしてくれるような気がしている。
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『幻滅カメラ2巻』164ページ
著者:鳥トマト
※ラスト7ページで号泣しました。おすすめです。
おわりに
子どもがいつか私をどう振り返るかはわからない。
「毒親だった」と言われる可能性も、当然ある。
でも私は、それでもいいと思っている。
私は私のままで、この子と一緒に生きていた――
そう言えるような日々を、大事にしていきたいと思っている。
